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大阪を歩く犬5  作者: ぽちでわん
22/42

茨木街道を玉川まで

今度こそ気になっている三島鴨神社に行こうと、10月の終わりごろ、茨木街道を歩きに行った。

茨木街道は郡あたりで亀岡街道から分かれ、淀川手前で枚方街道に合流する道だって。終点あたりの淀川近くに三島鴨神社はあるみたい。

JR茨木駅に向かい、茨木駅を西口(改札は2F)から出たら、右側にすぐ現れる階段を下りて、バス乗り場を通り、線路沿いを北上。

大法寺歩道橋で139号線(中央通りってやつだな)を越して、春日商店街へ。

139号線を東に向かえば高橋や茨木神社で、この道が茨木街道だった。ここから東に向かってもよかったのだけれど、せっかくだから、まだ行っていなくて気になっていた倍賀の春日神社に寄り道して行くことにした。茨木街道を郡方面に北に向かうと倍賀へか春日神社だった。

歩道橋を下りるとすぐ大法寺(新しい)があった。春日商店街はさびれている雰囲気を醸しつつ、盛り返してきているようで、さりげなくおしゃれなカフェなんかもいっぱい入っていた。パン屋も見つけた。ただ、定休日。

医療センターのある交差点を過ぎると、右手には大きな古い家々も見えた。黒ニンニクなどの無人販売をしているおうちもあって、けれど「カメラ設置。録画再生できるタイプです」みたいなことが書かれてあるのが、田舎とは違っていた。新しい家々もごまんと並んでいた。田舎の田んぼが、み~んな住宅地になってしまったんだな。

そしてたどり着いた倍賀春日神社は、ここもすっかり都会的になっていた。

鎌倉時代の石灯篭があるってことだったし、穂積に3つある春日神社の雰囲気からいっても、きっと古びて静かなところだろうと想像していた。けれど全く違っていて、公園と一体になった、あっけらかんとした神社だった。木々も少なく、昔にはあったらしい池ももうなくて、犬が散歩中だった。

鎌倉の石灯篭は囲いに囲まれて立っていた。拝殿とか本殿とか建物みんな、普通の家みたいな瓦ぶきなのが変わっていた。薪が積まれたところがあった。木々などには黄色いテープがはられていた。それらみんなが遊具も一緒に、ばらばらに存在しているみたいなところだった。

茨木でもここ春日や玉島、真砂は空襲で焼けてしまったところらしくて、それも関係しているのかな。


このすぐ北東が松下町で、大きなパナソニックの工場があったところなんだって。東芝の工場があって今は大規模工事中の東芝町と同じだな。

パナソニックの工場がなくなって、その跡地からは、「郡遺跡(の東端)」「倍賀遺跡(の北端)」が見つかったそうだ。

ほぼ墓地だったのか、弥生時代の方形周溝墓が大量に発見され、東に大きな集落があったと思われるのだって。木の棺に入れて埋葬されていたらしい。平安時代の集落跡も見つかっているそうだ。

この遺跡の東が元茨木川緑地で、川向こうが田中町。前に歩いたあたりだった。

倍賀春日神社を出ると引き返し、途中を東に進んでいくつもりだった。駅から高橋への道は前にも歩いていたので、少し違う道で高橋まで行こうと思って。

水路沿いの道を歩いていると、専想寺、大きな古い寺田邸なんかがあって、面白くてうろうろしているうち、すっかり道に迷ってしまった。

とりあえずJRを越えないといけないだろうと、高架をくぐっていってみた。丸またってやつかな。川端康成文学館近くで見たのと同じように、煉瓦でつくられた、古い高架下の通り道だった。高さが160cmくらいしかない。自転車の人は降りて通ってくださいと書かれていたけれど、みんな乗ったまま、身をかがめて通っていた。

そしてこの向こうは、高低差のある面白い、道のごちゃごちゃしたところだった。そこに家がびっしりと建っていた。

ブルーシートもいっぱい見えた。面白いところだったけれど、どういうところだったんだろう? その高低差、家々の建ち方が特殊な感じだった。

ただ、もう方向もなにも分からなくなって、JRの西側に戻り、春日郵便局の北側の道を東へ。またJRの古い高架をくぐった。

上中条公園があって、道沿いに南下。新興住宅地の中に、古い昭和の時代に建った感じのアパートなども残っているところだった。いや、なにか違う気がする、と公園まで引き返し、東へ。

すぐに堤に上がる感じの上り坂にたどり着き、ここは前に歩いた元茨木川緑地の、川端康成文学館の南あたりだった。丹波橋跡あたり。

古田織部の屋敷跡あたりだな、と、やっと知ったところに出て安心した。


茨木川緑地を越してすぐ信号があって、堤だった高台を下りると、1つ目みたいな信号があった。

散歩をしていると時々見かける信号機だけれど、全部廃止していく方向らしい。一灯点滅式信号機っていうのかな。

古い町屋が残っていて、旧道らしい道だったけれど、大きな空き地になっているところがパーキングになっていて、ここも変わっていくのだろなあ。

1つ目の信号機を過ぎて、次の四辻を右折して南下。地蔵たちがいっぱいいたのだけれど、みんな顔を白く塗られて、頭と眉と目が黒で描かれていた。しかもくっきりとした太い線。この日散歩していて、あちこちの地蔵たちが白塗りの太眉のぎょろり目の顔にされちゃっていた。化粧地蔵というらしい。

この辺りも古いだけに地震の被害が大きかったみたいで、ブルーシートが目立っていた。

そして、殿様のような名前の表札が多いような気がした。吉良とか、片桐とか。

つきあたると、交差する道は右には門、左にはお寺(浄教寺)が見えて、ここも古そうな通りだった。

門は茨木小学校の校門だった。ここは茨木城のあったあたりで、その門を復元したものなんだって。

茨木城の城主(中川清秀)の妹の婿が古田織部で、その関係で古田織部の屋敷もあったっていう。茨木城と織部屋敷は、こんなに近かったんだなあ。

茨木城は楠木正成の時の築城で、城主には有名なところでは中川清秀、片桐且元。

大阪の陣の後、一国一城令がでて廃城に。

大坂の陣のとき、居場所を知らせてきた豊臣側の人たちを徳川側に渡した片桐且元は、廃城となった茨木城を出ることになり、代わりに龍田城(ここは陣屋として残った)の城主となったのだって。元々龍田城や小泉城を本拠としていた人だったけれど、豊臣を補佐するために近くの茨木城に入っていたそうだ。

けれどすぐに病死して、代わりに次男が龍田城に入ったそうだ。


古めかしい城門の向こうに校舎があるっていうのは、なかなかの違和感だった。けれど通りを情緒ある感じにするのにいい働きをしていた。

ここは殿町で、北が本丸、南が城ノ町、東が西馬口引町だって(旧名)。西馬口引町方面に向かい、寺(浄教寺)の前を右折。

ここが本町ROSE街だった。阪急茨木駅近くの、すごく人出の多い商店街。前に高槻街道散歩でもやって来たところ。

南下していって、次の「本町ROSE街」の頭上の看板のところで左折。石の道標があって、「右 京 八幡 三島江 唐島 富田 高槻 左 妙見山〇〇」とあるところ。

このあたりは高槻街道と茨木街道がいっしょになっている。左折していく前に、前も寄ったROSE街のパン屋さんでパンをゲット。

上中条公園からこっち、茨木街道のつもりで歩いてきたけれど、もしかしたら違ったかもしれない。けれどここからはおそらく茨木街道。

古そうな通りを東に向かい、小さな川と15号線を過ぎた。ここにも前回寄ったパン屋があるけれど、今回はスルー。

高槻街道はここから北に向かったけれど、茨木街道はこのまま東進。阪急の高架を過ぎ、右手にカーブしていく道に進んでいった。

府道139号枚方茨木線に合流して、この道を東進していくのだけれど、道幅は狭いのに車通りは多いっていう、散歩していてよくある道だった。郵便局の手前、右に入っていく斜めの道があって、139号線の一本南の道で東進。

面白くはない住宅地を通るこの道も139号線に合流して、その先は安威川だった。今来た道の続きがかつてはまだ続いていた形跡があって、以前は川まで行けたみたい。けれど今では進めなくなっていて、139号線で橋を越えないといけないようだった。

橋の名前は先鋒橋。左手は見覚えのある幼稚園なんかのある道で、右手に見える橋も以前に渡ったことのある橋。溝咋神社上宮跡に寄り、安威川を五十鈴橋(東西通り)で渡って西に向かったときに通ったあたりだった。

橋を渡った先も見覚えのある公園で、ここで休憩。パンをいただいた。比較的自然のまま残されたような、小さいけれど野趣あふれる公園だった。紅葉もまあまあ楽しめた。

周囲には、まだブルーシートが見えていた。


そのまま139号線を東に向かうと水路と交差して、左手が古い集落に思えたのでちょっとだけ行ってみた。

鮎川公園があって、旧家もあった。でも、もうばらばらに新しい家も入りこんでいて、なんだか面白くないところだった。もう少し北に行けば面白かったのかな。前に高槻街道を散歩した時に寄った鮎川の須賀神社あたりだった。

元の道に戻って、東進を続けた。

鮎川交差点を過ぎると、139号線は右にカーブして行くけれど、そのまま直進する道へ。ここは139号線が避けて通ってくれた分、古さの残るところだった。大きな立派な旧家も残っていた。

けれどすぐの水路で水路沿いに南下して、139号線に戻り、また139号線を東進していった。

ぜんぶ田んぼだったところなのかな。大きな工場でいっぱいだった。ヨシケイ北大阪とか、ソントンとか。

大きな車がごうごうと走り、空気が悪かった。少し前までは空気のきれいな田舎だったろうのに、今は都会よりひどくなっているんじゃああるまいか。

2度ほど水路を渡った。四反長橋とかで。それから玉川橋を渡ると、渡ったところに「玉川の里」とあった。まるで風光明媚な田舎のような現れ方で、空気の悪い中を歩いてきたから唐突で戸惑った。

渡った川は玉川だって。ここからは高槻市。

玉川の里は、なんでも、万葉集にも詠まれたところだったそうだ。

古くから詠まれた風光明媚な「玉川」が全国に6か所あって、ここはそのうちの1つ「摂津三島の玉川」として知られたところなのだって。そして三島玉川の代名詞は卯の花。「卯の花」を入れつつ三島玉川の風景を詠むのがお決まりだったのだって。

芭蕉も訪れて俳句を詠んでいて、それが江戸時代に句碑に残されたそうだ。それにも「卯の花」が詠みこまれている。

うのはなや暗き柳のおよびごし

けれど「玉川」とは詠まれてなくて、実のところはどこで読まれた歌か分からないみたい。

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