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大阪を歩く犬5  作者: ぽちでわん
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八幡屋

道を戻っていくと、「水上警察」「税関」、そんな文字の見える建物が多かった。港の町だった感じがあった。

天満屋ビルの辻まで戻ると、ここを右折。南に向かい、最初の辻を左折。東に向かっていった。

道はどこも真っ直ぐで、分かりやすく、頭の中に島の簡単な地図が描けるくらいだった。

港として計画的につくられた町だったから、まっすぐで分かりやすいのかな。道も荷揚げされた物資を倉庫に運んだりしやすいようにつくられたのだろうし。

築港工事の設計計画をたてたのは、オランダ人技師、デ・レーケだったそうだ。不況や戦争で港はなかなか完成しなかったようだったけれど。

デ・レーケの名を知ったのは、旭区生江にある城北公園でだった。明治時代になって、政府は海外の進んだ技術を導入して土木工事を行っていった。そのためにデ・レーケらに海外から来てもらった。外国のレベルに追いつけるように、日本に来てもらったいろんな人たちを「お雇い外国人」なんて言う。

この頃の日本各地のあらゆる土木工事にデ・レーケが関わっているそうだ。


道には港商店街とあった。今は寂れているけれど、かつては港町の目抜き通りだったのじゃないかと思われた。レトロなパーマ屋、「海図販売」とある出版社(かな?)、「ボート免許」の看板のあるところなんかもあった。

焼きたてパン屋はつぶれていて、「ゲストハウス」がいくつかあって、右手に「大阪築港労働会館」とある古い建物が見えた。ゲストハウスがあるのは、海遊館があって、観光地としても人気だからみたい。海遊館って、海外からも客を呼べる魅力のある水族館なのだって。

昔には、モダンな女子が日傘をさして歩く道、日に焼けた若き労働者が明日を夢見て走る道、だったのじゃないかという感じがした。

レトロな築港温泉で右折。善光寺と釋迦院があった。

釋迦院は広くて古そうだった。築港山高野山釋迦院といい、空海が遣唐使として出立したと伝わる地に明治時代に建てられたそうだ。たいそうな賑わいで、四天王寺と並び称されるほどだったのだって。けれど空襲で焼け、小規模になって少し移転。

以前はもっともっと広く、7800坪ほどもあったそうだ。今の15倍以上だから相当に広い。

戦前には、大阪でも一番人口が多いのが港区だったそうだ。港や倉庫や工場があって、人々でひしめいていたのかな。けれど戦争になり、爆弾を積んだ飛行機が大阪の空にもやって来るようになった。

商船も多くが軍用に徴用されたそうだ。そして第2回大阪大空襲の攻撃目標は大阪港。早々と壊滅状態になり、空襲で一番甚大な被害を受けたのも、大阪では港区だったそうだ。


築港保育園と築港小学校を過ぎ、前方に赤レンガの倉庫群が見えてきた。

バス通りの向こうに、赤レンガの倉庫群。削られてはいたけれど、今も住友のマークが見て取れた。

大正時代に建てられ、平成になって取り壊されるところだったそうだ。けれど保存されることになって、一部はカフェなどとして使われているようだった。

明治時代、外国に倣ってレンガで多くの建物が建てられるようになったそうだ。けれど大正時代に大きな地震が起きて被害もひどかったことから、地震大国日本ではレンガの建物はだめってことになった。

倉庫前を左折して東に向かい、築港中学校前で左折。今度は北へ。

中学校の横は公園で、その奥に狛犬などが見えていた。港住吉神社で、1842年(天保年間)に天保山の山頂に創建されたらしい。その後、移転。今では公園の中だった。

けれどここも公園全体が立ち入り禁止。

そばのバス停留所は倒木でめちゃくちゃになっていた。銀杏の実をつけたままのイチョウの木々が倒れて枯れていっていた。枯れていっているけれど、銀杏の実は枯れずに実っていた。

みなと通りに戻って、これで天保山一帯をほぼ一周したようだった。

けれど、時間も体力もまだまだ残っていて、島から出て東の朝潮橋駅まで歩いていくことにした。

橋を歩いて島を出てみたかったし、朝潮橋駅には大きな公園(八幡屋公園)があるのが行きの電車から見えていて素敵だったから。


みなと通りで東に島を出て行けるようになっていた。高い位置を大阪メトロ(中央線)が走り、その両側に歩行者用の橋もあった。他にも高速やらがいろいろ頭上を走っていた。そのせいで見晴らしが悪くて、思いのほか、なにも見えなかった。

天保山を出ていくと、その先は思いのほか、古そうな町だった。大阪港ができる前は、このあたりは新田ばかりだったらしい。江戸時代、旧大和川流域のほか、大阪湾岸にも多く新田がつくられたそうだからな。

河村瑞軒が安治川を開削した後、幕府が新田開発者を公募。応募した一岡さんが伊勢から一族で移住してきて新田開発し、市岡新田と呼ばれていた一帯らしかった。ナスやスイカが名産だったのだって。

もう少し行くとJR弁天町駅があるけれど、それも市岡新田に祀られていた弁財天からとった地名だそうだ。

市電が走っていたこの先には、大正時代には市岡パラダイスなる遊園地があったそうだ。


左手に八幡屋公園、右手に八幡屋商店街が現れて、商店街の方にも行ってみた。老人が多かったけれど、老人たちが行く先は、商店街の商店は素通りして、ほぼスーパーマーケット。

いりくんだ商店街で、迷子になりつつ歩き、パンをゲットして、八幡屋公園へ。

八幡屋公園は元は八幡屋忠兵衛さんが開発した八幡屋新田だったところだそうだ。

大正時代に東洋一の陸上競技場、大阪市立運動場として整備された。けれど第2回大阪大空襲で一帯は壊滅。東洋一の陸上競技場は火葬場となっていたそうだ。

平成になって、八幡屋公園となったのだって。

公園には天保山よりはよほど高い小山のようになったところがあって、階段で上っていけた。ここはアリーナの屋根の上らしかった。

おかあさんと上までのぼって、ベンチに座ってパンを食べながら、遠くをみはらした。新田だらけだったなんて嘘のようだなあ。工場や、遠くの山々や安治川が見えた。

公園からすぐの朝潮橋駅(大阪メトロ中央線)から帰った。このあたりから中央線はみなと通りから離れ、北を平行に走る中央大通りを本町方面へ。

みなと通りは木津川の手前で北上し、花園橋跡を通って川口方面に向かっていく。


夏の後の散歩初日だったけれど、思いのほか歩けた。これからどんどん涼しくなっていく。これからいろいろ歩きに行ける。

次に行くのは茨木と決めていた。

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