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大阪を歩く犬5  作者: ぽちでわん
16/42

小阪街道と八尾

道が複雑に分かれているところで、前方に分かれる2つの道のうちの左側に進んでいった。大邦ゴルフの方向に向かっていく道。畑の中を行く道でちょっと戸惑ったけれど、普通に自転車も通っていた。

高速が近づいて、佐堂交差点へ。高速の下の歩道橋で渡った。

上は近畿自動車道、下は中環、その間の歩道橋を渡り、そのまま南東に進むと穴太交差点。

ここも面白くない道だったので、一本左手の道で穴太交差点を目指した。地名は美園町だった。マンホールが八尾でおなじみの、河内木綿を織る女性などの絵入りだった。

水路もある田んぼだったところに、まず工場ができていき、それから少しずつ住宅も増えていっている感じのところだった。

穴太交差点は、いっぱいあるお店のどこかから音楽が流れてきていて、その感じも込みで、昭和だった。風景が昭和のままで止まっていた。

道のいっぱい交差するここで、穴太神社の入り口が見えていて、そちらに向かっていった。気になる「〇太」シリーズの1つ、穴太だった。「信太しのだ」とか「伯太はかた」とかが散歩の途中にあって、気になっていた。ただここは、穴太と書いて「あのう」だって。


鳥居を過ぎても、参道の両脇に民家が並んでいた。境内にも公園や民家がすぐそばまで迫ってきていて、四方を洗濯物に囲まれているような神社だった。そばまで迫ってきているというか、中まで迫られて、どんどん境内が小さくなっていったのだろうな。

「廃千眼寺跡」「聖徳太子の生母の成人の地」とあった。

19代允恭天皇(仁徳天皇の息子)と、皇后の忍坂大中姫との間に20代安康天皇がいた。石上穴穂宮に都をおき、穴穂皇子、後には穴穂天皇とか呼ばれていたそうだ。

皇子とかには世話係がつけられる。食事を準備したり、各地にあったのだろうその人の耕地を耕したりする部民で、〇〇部と呼ばれた。穴穂皇子のための部民は「穴穂部」ね。

元は穴穂あなほ部だったのが、「あのう」に変化したのかな。「穴穂部」は「穴太部」ほか、「孔部」などとも表記されたみたい。ここにも穴穂部が置かれていて「穴太」になったかもしれないそうだ。

聖徳太子の生母は穴穂部あなほべの間人はしひとの(はしうどの)皇女ひめみことか間人穴太部はしひとのあなほべ皇后とかいう人。同母兄弟に穴穂部皇子、泊瀬部(長谷部)皇子らがいる。異母兄に用明天皇がいて、この人と結婚して聖徳太子を産んだ。

当時、皇族は幼い時に育った土地の名で呼ばれるものだったのかな。それでいうと、穴穂部間人皇女は穴穂で育ったと思われる。ただ一般的にはその穴穂は大和の穴穂(石上穴穂宮あたり)のこととされているみたい。でも確証はないし、八尾の穴太も聖徳太子生母の成人の地の候補に名乗りを上げているのかな。

ここは穴太一族の住んでいた地で、千眼寺はその氏寺、穴太神社はその氏神を祭ったものと思われるそうだ。けれど、分かっていないことばかりなのかな、という感じがした。穴太一族が何者なのかも分からない。

大きな石を掘り、それを積んで古墳を作っていた人々のことも穴太というらしい。後にはお城の石垣などを積む仕事に重宝されたそうだ。近江の坂本の穴太あのうが元々の本拠地で、東漢氏(アチノオミを祖とする古い渡来系氏族で、有名なのは坂上田村麻呂)なのだって。坂本穴太では朝鮮半島南部の任那でつくられた横穴式石室と似た石室が多く見つかっているのだとか。

坂本穴太から石積みの穴太の人々が流出し、彼らが住んだところも穴太と呼ばれたそうだ。八尾の穴太もその1つだという説もあるみたい。


神社の南側の出口から出て、南下していった。住宅だらけだった。新興住宅地で、近鉄大阪線の高架の向こうにはイオンも見えた。

近鉄大阪線を過ぎると、右手に妙法寺、大黒殿なる結婚式場もある新興宗教のお寺があった。河内街道歩きなどで来たことがあって、見覚えがあった。左折して右手に常光寺を見ながら進むと、ファミリーロード(近鉄八尾駅近くの商店街)。

左手には八尾神社の参道の案内が見えるけれど、常光寺も八尾神社も何度か来たことがあって、パス。

定休日?と思うくらい閉まっているお店が多いファミリーロードを歩いて行くと、左手に西願寺。「八尾薬師」とあった。融通念仏宗のお寺みたい。

それから八尾天満宮の鳥居があって、ここを左折。

この界隈では神社の祭りにはふれられず、「毎月11日と27日はお逮夜市」とあちこちに書かれていた。寺内町として始まったところだから、やっぱりお寺がメインなんだな。

久宝寺(地名)は蓮如の浄土真宗のお寺を中心にした寺内町で、かなり栄えていたらしい。けれど石山本願寺が織田信長と長く戦っている間に、戦いを続けるべきだ派と和平交渉すべきだ派に分かれたりでごたごたして、久宝寺でも二派に分裂。江戸初期に片一方が出ていって、久宝寺川(長瀬川)を隔てた場所に新たに寺内町がつくられた。それが八尾。

ちょっとした盛り場だったんじゃないかってところを過ぎ、すぐの小さなイオンを過ぎて右折すれば、右手に大信寺。そのまま南下すると車通りに出て、左手に本町2丁目交差点が見えていた。

前に八尾街道を東西に歩いていたとき、顕証寺(久宝寺御坊)と大信寺(八尾御坊)という大きなお寺の次に現れた本町2丁目交差点が妙に栄えていて、そこだけ様子が違っていた。小阪街道との辻だったのか。

辻というか合流地点かな。ここで八尾街道に合流して小阪街道は終わるようだった。


そのまま南下するとすぐ慈眼寺で、横に公園(本町第2公園)が見えたので、ここで休憩することにした。

すごくお寺の多いところだった。

常光寺は河内音頭発祥の地で、行基の創建だと伝わるお寺。大坂夏の陣では八尾も戦場になり(八尾の戦い)、徳川側の武将(藤堂さん)が縁側で首実検を行ったそうだ。

慈眼寺は親鸞の死後、親鸞の高弟が元は久宝寺に建てたお寺。親鸞は源氏の出のお坊さんで、浄土真宗の開祖。その子孫が代々本願寺をついで、8代目が蓮如ね。

蓮如は最初は慈眼寺で布教活動をし、聖徳太子が創建したと伝わる久宝寺のあった地に顕証寺を創建。

八尾や久宝寺は、行基も、聖徳太子も、蓮如も寺を建てたところだったんだな。

本町第2公園の手前、延命地蔵がいて、小さな緑地があった。石碑なんかもあって気になったけれど、立ち入りできないようになっていた。裏には婦人会館などがあって、ちょっと気になる感じのところだった。長瀬川の右岸だったあたりなのかも。

公園をつっきると水路があって、この水路沿いに南下していった。これがかつては大和川の本流だったという長瀬川。

八尾高校あたりで渋川神社秋祭りの掲示を見た。途中、長瀬川を龍華橋で渡った。

「渋川」「龍華」は物部氏の本拠地だったところ。長瀬川と平野川にはさまれた橘島だったあたりを飛鳥時代の頃には物部氏は本拠地としていて、物部守屋もそのあたりに住んでいた。蘇我氏の襲撃を受けて亡くなったのもそのあたり。

にぎやかな通りがあって、すぐがJR八尾駅(大和路線)だった。今日もいろいろ見たなあ、と帰途についた。

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