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大阪を歩く犬5  作者: ぽちでわん
15/42

小阪街道と小阪

小阪街道の続きを歩くべく、河内小阪駅(近鉄奈良線)に向かった。

河内小阪駅すぐ、北東にあるローソン。前回はここまで歩いていた。この先は、ここを南下して小阪神社へと進めばいいようだった。けれど、車道で全く面白くなさそうだったので、小阪神社までは前にも歩いた融通道で向かうことにした。

融通道はだいぶ都会になっている感のある小阪で、昔のままを残しているような道だった。元は、南西方向の平野(大阪市平野区)にある融通念仏宗の総本山、大念仏寺に続いていた道。

駅を南側から出てすぐの、りそな銀行の向かいから始まる道で南下していった。スカイドーム小阪なる商店街(司馬遼太郎記念館の案内がでているところ)の左側の道ね。

本当は小阪街道は、御厨からこっちに続いていたのじゃないかという気もする。けれど大きな大学や大きな道路や商業施設ができていく中で分断されてしまい、車道が小阪街道として紹介されるようになったのじゃないかな。

駅には緑の「彌榮神社御祭礼(彌榮地車会)」ののぼりが立っていた。

融通道を行くと、すぐに洞源庵。細い路地道に猫たちがいた。そしてその細い路地の頭上を飛んでいく飛行機。

次は青い「小坂神社」ののぼりが立っていた。小阪も大阪と同じで、元は「坂」の字を用いていたのだって。

細い道がいっぱいいりくんでいるけれど、道なりに進んでいく。理容イソノ、天理教渋阪分教会。

ちょっと緑もある妙に広いところに出ると、小坂神社の御神燈台が立っている道へ。右横に立江地蔵がいる道。

すぐ旧家につきあたって、道が少し右にずれた。「行者神變大菩薩」と石碑が立っていて、これが金峯神社らしい。それからすぐに小坂神社。

小阪(下小阪)についての説明が書かれていた。豊臣秀吉の時代に、西堤村からやって来た18軒が入植して開拓。その頃からの水分みくまり神社がやがて「みくまり→こもり」になって、小守神社と呼ばれていたけれど、小坂神社に改めたそうだ。

西堤村は長田の西、新開池の南の岸にできた集落だったみたい。すぐ洪水なんかにあっていたのだろうな。このあたりもだっただろうけれど。

南下を続けると、車道と交差した。西にはゆるい上りで、東にはゆるい下り。車道でありながら雰囲気のある道で、東にはすぐ司馬遼太郎記念館が、その前には大きな旧家があった。

車道を過ぎて南下すると、白い「彌榮神社」ののぼりが立っていた。そして何度目かの彌榮神社。北参道の入り口に馬立跡とある。

馬立うまたては馬つなぎのこと。古くはここは大和川の堤だったところで、堤を大阪城に向かっていた木村重成が、ここで馬をつないだそうだ。そして大阪城が炎上しているのを見て引き返した。

大阪夏の陣で、ついに豊臣秀頼と母の淀君が徳川家康に敗北し、大阪城で自害。城は炎上し、落城。人がバタバタと死んでいった1日だった。

引き返した木村重成は、若江で戦死したとされている。

前に行った若江では、川沿いの公園に木村さんの墓があった。中之島には、元は大阪城にあったのを移設したという木村さんの立派な碑があった。今福あたりには、木村さんの初陣だった鴫野・今福の戦い(冬の陣)についての説明があった。

木村さんの母は豊臣秀頼の乳母だったそうだ。秀頼さんとはともに育ったような仲だったのかな。若江で亡くなったのは22くらいの時のこと。妻は妊娠中で、子を産んで、夫の一周忌を済ませた後で、20歳で自害した。


彌榮神社は、石山合戦で村落とともに焼失したのだって。

石山合戦は豊臣さんが大阪城を建てる前、そこにあった石山本願寺が無敵の強さをほこり、織田信長とも長く戦った戦い。

当時、お寺もまた僧兵を抱え、指導者(法主)が1武将みたいなもの。戦国大名らとも姻戚関係をもったりし、城の代わりにお寺に住んではいたものの、寺も環濠(お濠)を備えた立派なほぼお城かな。石山本願寺は海と川に囲まれた要塞みたいなところにあって、織田信長もてこずったそうだ。10年間くらいも決着はつかず、最後には講和条約を結び、石山本願寺の地は織田さんに明け渡された。

そしてその地に大阪城が秀吉さんによって築かれたのだけれど、大阪城もやっぱり難攻不落。大坂冬の陣のあと、どさくさに紛れるように徳川さんが大阪城の南の濠を埋めて地続きにしてしまったことで、翌年の夏の陣でついに落城することになってしまったけれど。

このあたりは川でいっぱいの低湿地で、田畑が広がり、大和川の堤を大阪に向けて兵が進み、馬が駆けたのかな。時に戦場にもなり、田畑は荒らされ、村は兵火により焼かれ、村人たちはたまらなかっただろうなあ。

自分たちも刀をとって戦えるうちはまだよかったけれど、秀吉さんが刀狩りを行って、もう農民は農民でしかなくなった時代、手をこまねいて、でも田畑は荒らされるし、家も焼かれることもあっただろうしなあ。

彌榮神社について詳細は不明で、一時は牛頭天王と称していたそうだ。江戸時代は疫病を退けてくれるという牛頭天王が流行していたそうで、「牛頭天王と称していた」はあるあるだ。高槻の方では「織田信長が、信仰していた牛頭天王を祀る社は攻めなかったので」という説明だったけれど。

前にやって来た時、南の参道から出て左に鎌倉時代の地蔵がいた。もう一度会いに行こう、と、彌榮神社の南の道を東に向かった。すぐに現れたお地蔵さんは、やっぱりただものでないたたずまいだった。

今回、道をもっと奥まで行ってみた。

レトロな理容室があり、その奥にはずっと古い大きな旧家がいっぱいだった。交差している道の奥のほうにも大きな旧家がいっぱいで、うろうろ散策した。よくぞこんなに、という感じさえした。

そしてみんなカラフルな「御花御礼」のシールをはっていて、何枚もはっているおうちもいっぱいあった。


愛宕社のところまで東に進んでいった。今度は中小阪村についての説明が書かれていた。

上小阪村、中小阪村、下小阪村があり、それぞれに神社をもっていたみたい。中小阪村の神社が彌榮神社で、下小阪村の神社が小坂神社。

この西側は高地で、綿作の畑などだったのだって。確かに西には今でも上り道だった。そして東側は低地だったため、水害に強い村にしようと、土堤で囲み、さらに二重の堀をつくって環濠集落にしていたのだって。その東の入り口に愛宕社がおかれたそうだ。北にあった金峯神社もそういう社だったのかな。

環濠集落って、応仁の乱の頃から増えていった、環濠(川と、周りにめぐらせた土塁や塀)で自衛する集落ってことだった。堺、平野、久宝寺、喜連、桑津、遠里小野、勝間、etc.

応仁の乱の頃、都の人たちはどんどん堺に避難していったらしくて、そのとき使われたという八尾街道は環濠集落だらけだった。

でも、環濠集落は、戦いの日々から村を守るためだけのものじゃなかったんだな。まあ水害との戦いとも言えるけれど。

彌榮神社まで戻る途中、神社のそばの道に入っていった。前にも歩いて、江戸時代みたいだと思った「諸事儉約」の道。盗人が路地に逃げ込むのを岡っ引きが追いかけていく、というような時代劇のシーンにぴったりな感じのところで、一軒のおうちに「諸事儉約」のシールがはってある。

今回も歩くと、ほんの一瞬の間だけれど、やっぱりいい感じだった。大きな旧家もいいけれど、この感じもいいなあ。

町人が住んでいた感じの古い建物で、板の壁が土でよごれ、たわみ、アスファルトの道にも土がたまっている。

しかし小阪ってなんてところだと思いつつ、小阪街道を先へ進んだ。田舎じゃないのに古いものがこんなに残っているっていうのがすごい。他の住宅密集地でも、戦争で焼けていなかったら、こんな感じだったのかな。

小阪中学校を過ぎて車道(府道24号大阪東大阪線)に出ると、右手の信号は宝持中交差点。前に迷って歩き回った記憶のあるあたりだった。俊徳道を歩いているときだったと思う・・・。昭和にできた感じの家々の間を南下し、招福地蔵をすぎて、そのまま前方へ。前方はつきあたりに見えるけれど、実はちょっと左手に道が続いている。

つきあたりまで進み、左に向かう細い道を進めば、すぐに道はまた南を向いた。細い路地道を進むとすぐ上小阪八幡神社で、少し東には常照寺。

子安地蔵もいて、奥のほうでは機械ががたんがたんと音をたてていた。その音のするところには古そうな板の壁が見えた。

古いところに昭和が共存しているようなところだった。

ここが上小阪村だったところで、村の神社が上小阪八幡神社だったらしかった。江戸初期、慶長時代の創建と思われるのだって。けれど詳細は不明。小さな神社だった。

そしてここから西に行けば、大きな旧家の竹中邸。ここを東に行けば、前に歩いた俊徳道(十三街道)。


十三街道は生駒山を越えていく道なので、どんどん東へ向かっていった。小阪街道はこれから南南東くらいの八尾へ向かう。南には大きな近大の建物などがあって旧道はなくなっているので、とりあえず十三街道を東に進んでいった。

やっと現れた南への道が2号線で、近大を左右に見ながらここを南下。歩道はあるけれど、自転車も頻繁に通るので狭くて、上小阪交差点を過ぎたら一本左側の道を歩くことにした。2号線は昭和の国道の感じで、車も自転車も多いのに、そのわりに狭かった。もう一本左の道は、工場ばかりの道だったけれど、交通量は少なくて歩きやすかった。

けれどすぐ上小阪南交差点で2号線に合流。金物団地南交差点では一本右側の道で進んでいった。けれどこれもすぐ2号線に合流。

彌刀みと神社の秋祭りの知らせを掲示板で見たのはこのあたりだったかな。この西に彌刀みと神社があったみたい。弥刀は水戸のことで、水戸は港のことらしい。

港や河口の神様、水戸神(アキツハヤヒコ・アキツハヤヒメ)を祀っているのだって。近くには長瀬駅もあるし、このあたりを長瀬川が流れていたのだろうな。長瀬川は、旧大和川の本流だった川。

このあたりを長瀬川が北流して、稲田の北あたりで新開池に注いでいた。

新開池や深野池は大昔にはもっと大きな河内湖だったところだから、このあたりに河内湖に注ぐ河口部があったとかかな。「若江」も近い。

放出の阿遅速雄あちはやお神社は大昔、アヂスキタカヒコネの息子のアチハヤオが港をもっていたあたりと言われていた。放出は、河内湖から淀川が流れ出ていたところ。同じように彌刀神社の地も港だったところなのかも。

そして次の信号を過ぎて、右手に旧道の感じの道が分岐していく。けれどこの道も、すぐ2号線に戻ってしまうようだった。

そもそも近大があるから2号線を南下してきただけで、小阪街道はもっと西側の道だったのかもしれない、と、もっと西の方の道で南下してみることにした。面白くない2号線を歩くくらいなら、もっと早く西側を歩いて、彌刀神社にも行ってみればよかったな。


友井なるところまで西に進み、つきあたりを南下。

正善寺があり、その先が工事中で通行止めになっていたので、裏道に進んでいった。このあたりも大きな旧家がいっぱいだった。

弥刀駅前連合商店街の入り口あたりは、天理教楠根分教会なんかもあり、昭和の色が強いところだった。小さなアパートが建ち並び、近くに工場があったとかかな、と思った。

大きな旧家が並ぶところに昭和の戦争後とかの時代に工場がつくられ、そこで働く労務者たちのアパートがいっぱい建てられ、やがて商店街もできてにぎわったのじゃないかな、という感じがした。

なんの工場だったんだろう?

さっき通った交差点の「金物団地」は関係あるかな?と思って調べてみたら、金物団地って、金物の店舗の集団のことらしい。金物団地は日本で最初に誕生した総合卸商業団地。昭和42年にできたそうだ。店舗等集団化事業によって、流通の便なども考えて計画的につくられたところに卸屋がいっぱい集められているのだって。他にも家具団地とかあるけれど、商業集団だったんだな。

この近くに弥刀駅(近鉄大阪線)があったみたい。

駅ができたのは大正の時代。布施から大和八木まで、大軌なる会社によって鉄道が敷かれたのだって(今の近鉄大阪線)。鉄道が走っていて便利だけれど、まだ建物は少なかったのかな、それでこのあたりに金物団地がつくられたのかな。

商店街の南にすぐ御劔神社があった。西側は高台になっていて、そこにも荒れた感じの、工場だったようなところがあった。ここで金物が作られて、金物団地に卸されていたのかも?

神社について詳細は不明みたい。平安時代に牛頭天王社があって、明治時代に若江鏡神社に合祀されたものの、戻ってきたのだって。

けれど御劔みつるぎ神社という名になったわけもよく分からなかった。

阿遅速雄神社は別名を八剱神社と言い、鶴見区にある。そばを剣街道が走っている。御劔みつるぎ八剱やつるぎ鶴見つるみ、あと堤もよく似ているけれど、なにか関係はないのかな?


神社の北側の参道から東に行ってみた。友井保存會という文字も見えた。

きれいな大きな旧家が並んでいた。直線の路地にきちんとしたたたずまいで並び、なんらかの古い集落だった雰囲気だった。

友井の地名の由来は、今はもうないけれど友井って井戸があったことによるそうだ。それ以外のことはよく分からなかった。

寺内町だったのか、環濠集落だったのか、長瀬川のそばで船便で商っていた人々の住むところだったのか、どういうところだったんだろう?

左に寺が見えて、行ってみると法敬寺だった。ひときわ大きな、大和棟かなっておうちなんかもあった。丘にある寺内町、ミニ版の富田林寺内町みたいな雰囲気だった。

最初の辻を右折して南下していった。ぼろぼろになった大きな旧家があった。もう屋根も落ちてきていた。他の家も、きっと無人なのだろうところが多かった。そんな気配に包まれて、南側は暗いところだった。自転車のおばさんが通っていったり、家からテレビの音が聞こえたりもしていたけれど、死んでしまったおうちのほうが多いのだろう、この感じ。

七福温泉は現役のようで、同じサイズの薪がたくさん積まれていた。このあたりから八尾市のようだった。

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