小阪街道と長田
歩道橋で藤戸新田交差点を渡って、15号線のつづきを南下。市営楠根墓地が現れ、このあたりでは白いのぼりを見た。「長田神社」とあった。
次の信号で、15号線は右に曲がって川を越えていくけれど、そのまま直進。前方に2つに分かれると、右側に進んでいった。天水地蔵がいて、このあたりは大きな旧家が多かった。あと、地蔵によく名前をつけてある土地柄だったな。
次の信号を越えると、雰囲気が変わった。車社会を抜けた感じ。まんうけ地蔵がいて、大きな旧家があった。
道は南下していく道と東に向かう道に分かれていた。どちらも古くからの道の感じがしていた。恩教寺からこっち、車道がなかった時代には、どんなにかいいところだったろうなあ。
小阪街道は南に向かう。その前に寄り道して東への道に向かうことにした。こちらに長田神社があるようで。
東に向かっていくと、奥まったところに西願寺が見えた。それから長田神社。西向きの神社だった。
ここはなんというか、ぎゅっと家々がひしめいていることで守りを固めているような雰囲気のところで、狭い境内にも入りがたかった。なんとなくスルー。
そばには延命地蔵と、古そうな一乗寺もあった。融通念仏宗のお寺で、織田信長の頃の創建らしい。
この一乗寺の裏の道も面白そうで、ここを東に歩いて行ってみた。長田神社の南側に至る道でやって来たけれど、ここは長田神社の北側を通る道。
古い家が古いままに残っているような、面白いところだった。太子堂に行き着いて、長田神社の北側の道と南側の道がここで出会うようだった。不思議なところだな、と思った。西向きの長田神社の、後ろの陣地みたいなところ。長田神社の元は神域だったところなのかな?
ここは東大阪市長田で、古代から長田使主なる渡来人が住んだところらしい。長田神社はその祖神を祀ったのが始まりではないかともいわれているそうだ。
かつて若江郡の式内社に意岐部神社があり、けれど天災で焼失して、どこにあったかも不明らしく、それが長田神社かも、ともいわれているみたい。神社の北に「意伎宮屋敷」という小字をもつところがあって、そのあたりから移ってきたと伝わるそうだ。
太子堂から公園が見えたので、ここで休憩することにした。長田東内介公園という変わった名前の公園だった。
長田は新開池の南の岸だったところで、池に沿って東西に長くできた村だったそうだ。長田神社が中心あたりで、もっと東まで続いていたのだって。
東大阪に伝わる、長田村の内介さんの新開池にまつわる昔話があるそうだ。それにちなんでか、新開池は東大阪では内介池とか内介渕とか呼ばれていたのだって。ここは長田東の小字が内介だったとかかも。
太子堂から、西に長田神社の南側に戻っていった。
「歯痛地蔵」なんていう地蔵がいて、そばの建物には「内介納税貯蓄組合」とあった。いったいいつの時代のものだろう。時間が止まっているようだった。
「御花御礼」と大きな板が立てかけられて、まだ名前はほとんど入っていなかったけれど、「金」の部と「物品」の部に分けられていた。
「御花御礼」とおうちに貼られた小さなシールも見た。秋祭りに際して、金品を奉納すると御礼のシールがもらえ、御花台に名が貼りだされるのだろうな。
まんうけ地蔵まで戻って、小阪街道の続きを南下していった。道は旧道の感じだけれど、建っている家々は昭和の感じだった。
このあたりはみんな田んぼだったのが、昭和になって住宅地になったのだろうかな。
それから今度はあせたような紺色の「新家菅原神社」ののぼりを見るようになった。東に500mほどのところに意岐部小学校があって、そのすぐ東に観音寺と新家菅原神社があったみたい。
新家から御厨に入ったら、暗越奈良街道と交差して、ここを右折。しばらく暗越奈良街道を西に歩いていった。
菱江川沿いを離れて、西の小阪に向かっていくのだろうな。暗越奈良街道は前に歩いていたけれど、このあたりは全く覚えていなかった。すっかり工場地帯になってしまっていて、街道というより工場通り。東大阪では街道も工場通りになっているところが多くて、あまり記憶に残らないのだ。
そんな東大阪が、実は古い町で、初代天皇である神武天皇が九州からやって来て上陸したところだとか、その神武天皇が家臣(アメノタネコ)にその祖を祀らせたのが枚岡神社の始まりだとか、イシキリとか、額田とか、歴史でいっぱいのミステリアスなところだと知ったときは、キツネにつままれたようだったのを思い出す。
新御厨北大橋で第二寝屋川を渡った。
橋を渡るとすぐに車通りで、ここは記憶にあった。「旧菱屋中顕彰碑」のある三井会所跡などを覚えていた。
菱屋庄右衛門が開発を請け負い、地名も菱屋となったものの、三井家の所有となったという新田の会所があったところ。今は跡形もなく、交通量の多い広い幹線道路になっているけれど。
信号の向こうには、存在感のある旧家が見えていた。
大阪市の文化財、植田家住宅だった。前に暗越奈良街道歩きで通った時には、あまり意味も分からずほぼスルーしたような気がする。
今は少しだけわかるようになっていた。本陣札(松平さんと片桐さん)が残っていたそうで、それは江戸時代、大名が参勤交代などで往来の時、休憩したところ(本陣)ってこと。今でも宿の前に「〇〇様御一行」と書いて到着を待つみたいに、大名家が往来の途中で立ち寄る前に木札を提げて、分かりやすくしておいたんだそうだ。
大きいけれど、建物の一部(母屋)だけしか残っていないそうだ。確かに本陣跡にしては小さいかな。
このあたりには紺の御厨天神社ののぼりが立っていた。他に白の「御厨」とある旗もいっぱい見た。
10月半ばの河内は、歩くところそれぞれにいろんな神社の旗が立てられていた。祭りはみんな神社に奉納するものなんだな、というのがよく分かった。
このあたりの御厨の地名は、皇室に食べ物を進呈していたところ(御厨)だったことによるみたい。川や池でいっぱいのところだったから、いろいろなものがとれたのだろうかな。
右手に行者堂があり、その隣が御厨会館で、説明板も設置されていた。
御厨会館は火事があったらしく、燃えたあとで、ぎょっとした。すぐ近くの説明板はきれいだけれど、窓ガラスのなくなった建物の中、黒く燃えた柱なんかが見えていた。
建てるのには時間がかかっても、燃えてなくなるのはすぐなんだろうな。あちこちの寺社で「乱で焼失」とか「天災で焼失」とかいう文言を何度も見てきた、その意味がちょっとだけ分かったように思った。
再建するにはまたエネルギーがいる。その力を持つ人がいないと、簡単に失われてしまうものなんだろうな。再建されたってことは、それだけの力とエネルギーが働いたってことなんだろうな。
法観寺があり、地蔵があって、ここを左折。
このあたりには「辻」さんが多かった。そのまんまだなって名前が、古いところではよく見られるなあ。
信号で15号線を渡ると、道は右にカーブして、また西に向かった。2つ目の辻で暗越奈良街道と分かれ、左折して南へ。
けれど最初の辻でちょっと寄り道。15号線の向こうに神社があるらしかったから。
寄り道して北上するとすぐ15号線で、「天神社」と書かれた石碑があり、そのまま普通の民家が続く中を北上していった。全く参道らしくもなく、神社がある雰囲気もなくて、本当にこの道で合ってるのかな?と思っていたら、天神社が現れた。
長田神社と同じく、ここも式内社意岐部神社だったのかも?と言われているところだそうだ。東大阪で一番大きなクスノキというのがたっていた。大阪府で一番は三島神社の楠蓋樟だって。さもありなん。
実のなる木に覚えがあった。それで、来たことのあるところだ、と分かった。
ここは鳥居を抜けて右に行くと旧家が並んでいて、そこにみたらしだんごのお店もある、あの神社ではないかな? 歩いて行くとその通りで、なんだかうれしかった。東大阪の一角に知った道があるって。暗越奈良街道歩きで寄ったことのあるところだった。
祭神はオオクニヌシと少彦名。
天神社から車通りまで西に向かってから南下していった。
振り返ってみると、藁を葺いた屋根のおうちも見えた。
なかなかに古いところだった。けれど残念ながらこの一帯だけで、あとはまた車社会。神社の北側には昔、大きなお寺もあったそうだけれど、跡形もなく、詳細は不明。
御厨栄町交差点に出て、ここを南下すれば小阪街道だった。
ここからは全く古さを残さず、面白くない広い車道を河内小阪駅(近鉄大阪線)まで南下していった。小阪には十三街道や俊徳街道や融通道も通っていて、何度かやって来たことのある古くて面白い町だった。けれど駅近ではそんなこともあまり分からない。
小阪街道と言いながら、小阪がゴールではなく、小阪街道はまだ八尾まで続く。この日はここまでとして、河内小阪駅から帰途についた。




