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大阪を歩く犬5  作者: ぽちでわん
13/42

小阪街道と稲田

朝は寒いくらいの10月半ば、小阪街道の続きを歩こうと横堤駅に向かった。

大阪メトロ鶴見緑地線の、鶴見緑地駅の1つ手前の駅で降り、5番出口に向かっていった。地下道の脇に駐輪場があるのが少し不思議な光景だった。柱一本一本に一文字ずつ文字が貼られていて、遠くから見ると文章になっているのも面白かった。

地上に出ると、警察署のある東の方向へ。鶴見緑地の南の端に向かう道。前回と同じパン屋でパンを買って、鶴見緑地の南端を通り過ぎて、茨田浜交差点を右折。

次の信号で交差するのが15号線。この古川の堤だった感じの道が小阪街道で、前回はこの信号まで歩いてきていた。

続きを歩くべく右折して15号線へ。15号線は古川を渡る橋に続いていた。

周囲には古宮神社の青いのぼりが立っていた。10月で、秋祭りの前だった。橋の向こうには古そうな家もぽつぽつ見えた。

古川を東三荘橋で渡り、続いて八ヶ荘橋も渡った。○○荘というのは、河内十七ヶ荘に由来するのだろうな。

八ヶ荘橋の下は緑地になっていた。橋を過ぎると、今度は赤い八幡神社ののぼりが現れた。南西に諸口八幡神社があって、そこのことみたい。平安時代の創建だそうだ。

神燈台も立てられていて、地車が通りますと中茶屋奉賛会の名で書かれていた。地名は中茶屋。

中茶屋は古堤街道歩きなどでも通ったところだった。街道にあって、茶屋が並んでいたから中茶屋なのだって。

つきあたりまで進むと、道標があった。「左 京道 右?(読めず)ミち」。ここが古堤街道と小阪街道の辻だった。

右折して、15号線を進んでいった。橋までは川の右岸にあった15号線が、橋からは左岸に移動していた。

中茶屋公民館があり、普通のおうちみたいな圓満寺別院があった。東堤さんや水間さんのおうちがあった。そのまんまの名前だな。

古そうな道だけれど、家々はそう古くなかった。昔から人が住んでいた感じはするのに、町並みに古さは感じない。洪水があって、みんな建て直したとかかな??

地名は徳庵になったけれど、まだしばらく八幡神社の赤いのぼりが続いていた。緑の感じとかに、水気を感じる道だった。この頃、歩いていると、みずみずしさとか水気とかを感じるようになってきた。水が必要不可欠な生き物の本能なのかな。

ふとん太鼓曳行があると、徳庵奉賛会の名で書かれていた。旧家には「八幡神社徳庵奉賛会」のステッカーがはられていた。上りの道になり、現れたのは寝屋川。橋が並んで2つ(徳庵橋と徳庵小橋)あり、徳庵小橋を渡った。

ここには何度かやってきたことがあった。古堤街道歩きなんかで通った道だった。いっぱいの川がここで合わさっていて、そこに橋もいっぱいかかっている。

拾六個橋なる橋もあって、その向こうは今では工場だったけれど、水路の要所だった感じがとてもしていた。

前に歩いた時は、そこで交わる道のややこしさに戸惑うばかりだったけれど、今回は、水運の要所だった時代を少しは想像できるようになっていた。

この複雑なところを抜けて、徳庵商連会とある商店街へ。ここには紺ののぼりで「徳庵神社」とあった。商店街が15号線になっていて、狭い商店街だけれど車も通った。左手に徳庵神社が見えた。前回はさびしい感じの神社だったけれど、秋にはちゃんと盛り上がるんだな。旗も立てられ、秋祭りの準備がされていた。

商店街だけれど、少し奥をのぞけば、壊れかかっているような旧家や緑が見えていた。商店街沿いだけが、急速に発展したんだろうかな。

ちょっと寄り道して、セブンイレブンを右折して、前に歩いた古堤だった道、圓通寺や比枝神社に寄ってみた。

比枝神社はにぎわっていた。いろんな旗が周辺にはためいて。人も多くいて、やっぱり違うなあって感じがした。前にやって来た時も、徳庵神社とは違い、きちんと保守されて、地域の人々と共にある感じがあった。

元の15号線に戻って、続きを歩いた。左手にはJR学研都市線が走っていて、徳庵駅をちょっと過ぎたあたり。最初に現れた踏切を渡ると、地名は稲田本町。横堤駅の近くのバス停で「稲田○○行のバスは廃止されました」みたいなことが書かれてあった稲田かな。

JRの東側は大阪市鶴見区徳庵で、踏切を渡った西側は東大阪市稲田本町だった。

かつては新開池がこの東に広がり、徳庵は新開池から旧大和川が西に流れて行っていたあたり。新開池や旧大和川を越えて南下していったら茨田郡を抜けて、若江郡になるのかな。

のぼりがいっぱい立っていて、商店街と書かれてはいないけれど商店街みたいな道だった。最初の辻で交差する道には、「旭町会」「北町会」「橋本町会」「中町会」「南町会」とか、ブルーののぼりには「稲田八幡宮祭禮」とか「北稲田五番町」とか、文字が躍っていた。

ここで右折して、文字の踊る道を進んでいった。

少し進んだ辻には「秋祭りには長提灯の宮入りを行うので車の通行ができません」と、この後も何度か目にした注意書きが書かれてあった。

長提灯って何だろう? 布団太鼓も最初は何だろうと思ったけれど、山車の一種だった。だんじりは危険すぎるってことで、一部、座布団を重ねたみたいな造りになっている。それで「布団」太鼓ね。長提灯は何だろう?

この辻を左に入っていくと、道標があった。「右 八尾山道 左 京 徳庵きしゃ道」とか書かれてあった。

目の前は大きな旧家で、ここに大きな御花台が立てられていた。祭りに際して、人の名を並べて掲げる木の枠ね。

本当はここを右折して南下していくのだけれど、面白そうで、少しだけ左にも行ってみた。

おかげ地蔵があり、稲田北自治会館があって、北地車庫もあった。このあたりには「稲田北秋祭り」ののぼり。盛り上がっているなあ。

ここも堤だったのだろうなあって道だった。川があちこち交差しながら流れていたんだろうな。


南下していくと道が下り始め、稲田郵便局の近くに出た。このあたりには「稲田橋本秋祭り」ののぼりが立っていた。

10月中旬、秋祭りを前にした稲田は、ちょっと尋常じゃないくらいの盛り上がりだった。秋祭り前だったから、散歩していてあちこちで旗を見たけれど、稲田の盛り上がりが一番だったかも。「北」とか「橋本」とか、我も我もと、いっぱいの旗がはためいていた。

ちょっと寄り道して、郵便局を右折してすぐの観音禅寺へ。橋本自治会場があり、小さな愛宕神社があった。稲田の中で、橋本が一番雰囲気がある気がした。昔を残した、坂道の多い、しっとりとしたところだった。ゆるい高低差のあるカーブした道が交差していて、そこを自転車が走っていた。

観音禅寺には「河内西國丗(30)番霊場」とあった。安産観音(稲田観音)がいるのだって。

南北朝の頃、大寺院だったけれど戦火に遭い、江戸時代に再興。安産にご利益があり、感謝した美濃の城主が桃の木を千本以上植樹したこともあるのだって。

そこから桃の木(観賞用)が広がって、一時は稲田の半分以上が桃林というくらいだったそうだ。稲田桃と呼ばれて有名だったみたい。けれど明治時代の洪水でだめになったのだって。

近くには橋本町地車庫もあった。秋祭りには地車をひき、大きな長提灯もまた一人一本持って歩くのが稲田の祭りのようだった。「長提灯」って、それみたい。

元の道に戻って南下を続けた。遊歩道っぽい細い道と交差して、また道はゆるいのぼりになったから、ここにも小川が流れていたのかな?

そのあたりを境に今度は「稲田中地車保存会」の文字。

右手に存空寺なる寺と、正行寺という古そうな寺が現れた。ここからまたゆるい下りで、まだおうちがそんなにない時代には、見晴らしのいい高台に建つ寺だったのじゃないかと思われた。そこに一面に桃の花。きれいだったろうなあ。

そして右手に稲田八幡神社が現れた。

「ついに」という感じがした。いろんな色ののぼりがはためいていて、ここまで長いプロローグを見せられた感があったから。祭りのメイン会場だろう神社は、そんなには大きくない、村の神社って感じのところだった。

稲田は元は新開池に注いでいた菱江川の両岸に室町時代頃にできていった集落で、そこに氏神として誉田八幡から八幡さまを勧請したんだそうだ。今では南、中、橋本、北、旭と分かれている。

秋祭りには、伊勢音頭を歌いながらの長提灯の宮入りが行われるのだって。

境内には樹齢500年というイチョウの木があった。ちょっとだけ枯れかけていたけれど。「まりなげ厳禁」と書かれてあった。「日露戦役記念の碑」もあった。それを囲っているのが砲弾の頭みたいに見えた。


神社から南は稲田南のようだった。

右手には第二寝屋川、左手には高台がしばらく続いた。それから下りになり、まるや橋を渡った。橋は道路と同化していて、川は楠根川緑地に変わっていた。

緑地の入り口は暗くて、「あぶない」とか書かれてあった。楠根川緑地を越えると、稲田を抜けたようだった。

緑地にはかつて楠根川が流れていて、それをまっすぐに付け替えたのが第二寝屋川。東からは玉串川(大和川支流)から分流した菱江川も流れてきて、楠根川のすぐ近くで一緒に新開池に注いでいたみたい。

そのまま行くとすぐつきあたって、左折。楠根川遊歩道と並行する道を東に向かっていった。小阪街道は新開池の北ではだいたい古川沿いを、新開池の南ではだいたい楠根川沿いを小阪に向かうようだった。

楠根小学校があり、今度は紺色の「川俣地車保存会」ののぼりが続いていた。旧家も見えてきた。

車通りを越え、右手のすごく大きな旧家を過ぎると地蔵がいて、その手前の細い道の向こうには神社が見えていた。

右折して、この細い道に入って行った。ゆるい下りの道を進んでいき、車道を越えると、川俣神社だった。その向こうには第二寝屋川が流れているようだった。

川俣神社は式内社で、奈良時代の頃からあったのだって。仁徳天皇の頃の「川俣江」はここだったのではないかと言われているそうだ。仁徳天皇の詠んだ歌に「川俣江」がでてくるのだって。

祭神はオオナムチと少彦名スクナヒコナということになっているけれど、詳細は不明。「川俣」というんだから、川が分かれたりしていたところなんだろうな。

元の道に戻って続きを行くと、ここがなんだかいい感じだった。左にカーブしていく道の向こうに緑が見えて。そこに恩教寺が現れた。

ここを左折。ずっと並走してきた楠根川緑地で休憩しようとしたら、すごい大量の蚊だった! すぐ逃げて、すぐのバス通り(15号線)まで出て右折。

南下していくと右手に長田西河墓地が現れて、藤戸新田なる大きな交差点に出た。いきなり車社会に来てしまった感じ。上を阪神高速が走っていて、そのすぐ下を歩道橋で歩けるようになっていた。さっき歩いた恩教寺前の道とのあまりの雰囲気の違いに、異世界にワープしてきたみたいだった。

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