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大阪を歩く犬5  作者: ぽちでわん
12/42

小阪街道とおまけの鶴見緑地

そして前回、桑才あたりまで歩いた小阪街道の続きを歩きに行った。10月も半ばになって、少し寒いくらいの日だった。

門真南駅で降り、そこから堤根神社(ひえ島)などを通って北上して、本日の小阪街道歩きのスタート地点の桑才に向かうつもりだった。

「秋祭り」と書かれた赤いのぼりが目立っていた。楠蓋樟のある三島神社ののぼり。

農村で、それぞれに氏神を祀っていた。そこに地下鉄が通ったり、高速が走ったり、なみはやドームができたりして様変わりしていった。そんな中で、まだ村の感じを残しているあたりだった。

小阪街道を途中まで歩いて、門真南駅に戻ってくるつもりだった。桑才から南下して鶴見緑地あたりまで行ったら、今回の小阪街道歩きはそこまでにして、今度は大宮神社を通って北上して、門真南駅から帰るつもり。このあたりには神社がいっぱいあるようで、気になったので。

門真南駅は1番出口から出た。高速沿いに東(高速を背にして右)に進むと、前にも通った「一休生母の墓」のある下三ッ島公園。

一休さんは、地元の住吉に「一休禅師牀菜庵しょうさいあん跡」の碑があって、勝手に親近感をもっている人だ。実は後小松天皇の子ではなかったかと言われる一休さんは、京都を拠点としながら各地をめぐり、近畿のいろんなところに住んでいたらしい。

住吉にも住み、そこで最後の女性にも出会ったそうだ。女性は森女。70を過ぎた一休さんが住吉大社にあった神宮寺で出会った森女は盲目の美女で、旅芸人だったのじゃないかと思われるのだって。

一休さんのお母さんは藤原氏だったそうだけれど、楠木正成のひ孫だったかもという話もあって、その父親がここ三ツ島に北朝から逃れて住んでいたらしい。

そんなことから、三ツ島の古い墓が「一休さん生母の墓」と言い伝えられたんじゃないかということだった。

こんな高速のジャンクションもある大きな構造物たちの下で、南北朝時代を物語る碑があることが不思議な感じだった。


公園を北に通り抜け、公園の東の道を北上。

少し上りになっていて、道路にはでんと立派なクスノキが立っていた。周りをコンクリで固められているけれど、かなり場所をふさいでいるけれど、残されたんだな。すぐそばは旧家で、この一角だけが他より高い位置にあった。

旧家の前を左折。左手に下三ツ島自治会館。それから西稱寺。

右手には古そうな瓦の家が見えていた。バキバキ重機で家を壊していっているところもあった。

JAで突き当たるので、その手前で左折。

ここは、堤だったんじゃないかなという道だった。左手には高速が見えた。前方にはさっきからなんだか近代的な塔が見えていた。これはダイカンっていう廃棄関係の工場の煙突だったのかな?

古川を三庄橋で渡った。

橋を渡ったところに大きなクスノキが見えた。民家に残る「稗島のクス」ってやつかな? 川を覆うくらいの大きさだった。

古川を渡ると地名はひえ島。稗島からひえ島に改名したのかな? 「稗」は字が悪いとかで。前に行った姫島も、稗島から名前を変えたということだった。

古川あたりから淀川にかけては、低湿地の茨田郡だったところ。淀川や古川の支流もいっぱいあって、かつては島も点在していたのだろうな。その1つ、稗島なる島だったところなのかな。

三島神社の楠蓋樟といい、大きなクスノキが多いところだった。地蔵もあちこちにいた。

鳥居も見えていて、堤根神社(犬NG)だった。

鳥居の左右のおうちが農家っぽい旧家だった。そしてここにも大きなクスノキがあった。

式内社の堤根神社の後継を名乗る社の1つ(もう1つは宮野の堤根神社)だそうだけれど、ここではそんなことには一言も触れられていなかった。

式内社堤根神社は洪水で流されてしまったそうだ。古川沿いにあり、茨田堤の鎮守として創建された神社だったらしい。

ここひえ島の堤根神社は桑才の氏神で、元は山王宮と呼ばれていたそうだ。大己貴オオナムチを祭るところを山王宮といい、ここも祭神はオオナムチらしかった。オオナムチはオオクニヌシの若かりし日の名前。後に堤根神社の後継を名乗って、名も改めたのかな?

神社の東の道には三輪地蔵と、稗島実行組合精米所があった。この一角だけ、昔を残すところなのだろうなあ。周りはすっかり普通の住宅地だった。

三輪地蔵の手前を右折。北上し、つきあたると右折。素敵な公園(松本公園)が現れたけれど、犬の散歩NG。松本さんのお宅だったのが、市に譲られたとかで公園になったのかなって感じのところだった。

公園の手前の道を北上。狭い道だったけれど、その道をふさぐように昭和初期の道標が、道にでんとたっていた。この道標が、なんだか洋風でしゃれていた。妙見宮云々とあった。左手は稗島自治会館だった。

向かい側は大きな旧家で、昭和初期のころのしゃれた洋館風の和洋折衷。ここの名家がおうちを洋館風に建て、道標もたてたのかな?

そのまま北上を続けたら、すぐに玉垣のある立派な忠魂碑のところに出た。この北が桑才寺院だった。ここで左折。道が2つに分かれるので左側の道に進んでいった。

前回歩いたのはこのあたりまで。ここから小阪街道の続き。さっきから見えていた塔がすごく近くなっていた。


高速の下の大きな道を2つの信号で渡っていった。中環で、上には高速(近畿自動車道)。

ゴミ関係の工場がまとまってあるところみたいで、なんだか独特のにおいがした。地名は焼野やけの。大阪市(鶴見区)だった。

少し南下すると、右折する道と斜め前方に進む道とが現れて、斜めの道へ。

右手に小さな墓地が現れた。こんなに小さな墓地で足りるくらいの小さな集落だったのかな。だからこんなに大きな道路や工場が建つようになったのだろうな。

旧家につきあたり、石の道標があって、「右京 左大阪」とか書かれていた。右手にも古い家があって、味のある古いレンガが見えていた。

このつきあたりで、ほんの少し右手に移って南下を続けた。浄教寺なるお寺があった。元は川だった感じの蛇行した道で、右手は古そうな感じのする緑のある一角だった。

アプロ(スーパーマーケット)があり、焼野交差点で広い道(府道15号八尾茨木線)と交差。

道も、空も、広かった。別名「花博通り」だって。15号線を西に進んでいくと鶴見緑地駅で、花博(花と緑の博覧会)が行われた跡地の鶴見緑地がある。

信号を渡って、そのまま前方の道に進んでいった。新しく開発された感じの住宅地だった。花博通りが造られるにあたり、このあたり一帯の開発も行われたのかな。

道なりに進んでいくと、立派な神社が見えてきた。

古宮神社だった(ペットNG)。立派なのだけれど、道路や隣の公園ときっぱり直線で区画された中に収まっていて、神社としての存在感は薄かった。

裏にはやきたてメロンパンの車がいっぱい止まっていた。ここから車で販売しに行くんだな。

古宮神社は、元は赤曽根神社といったそうだ。茨田郡古宮村大字浜赤曽根に鎮座。けれど花博が開かれることになり、そんな国家的な事業のためならばとここに移転。南西約150mの位置に移転したそうだから、花博通りあたりにあったのかな。

地名は浜だった。東はひえ島(門真市)で、西には鶴見緑地の向こうに森小路。

森小路では弥生時代の農耕の跡が見つかっているというし、寝屋川の南部とその南の一帯は河内湖だったところらしい。上町台地から生駒山地までの大阪平野はかつて河内湖だったところで、そんな中、上町台地の北東端に位置するらしい森小路や、「島」と名の付くところは微高地で、陸地になっていて浜もあったのかな。

浜では後には古川の船運も担っていたそうだ。

「赤曽根」も気になる地名だったけれど、詳細は分からなかった。

古宮というのは、なにに対しての古宮なのかな。もしかしたら大宮神社かな? 浜の古川を隔てて東の茨田大宮には「大宮」があるそうで、それと比べて古くからあったので、古宮となったのかな?

古宮神社の祭神は住吉神(住吉三神と神功皇后)と、神功皇后の息子、応神天皇だった。

隣は公園で、大阪都市計画事業(昭和61年~平成7年)の碑があった。元は湿田のある田園地帯で、河内蓮根の栽培がおこなわれていたのだって。

船運がすたれて、農作を行うようになっていたのかな。茨木の「島」みたいに。


神社の東側の道を南下していった。次の複雑な辻で左折し、学校の見える、ポリボックスのある道へ。

堤だったのだろうなあという道だった。東側を古川が流れていて、その通り堤だったのだろう。

堤道は府道15号八木茨木線になっていて、狭いのにけっこう車が通った。左手に古川を渡る橋が現れるけれど、そのまま堤を南下。

堤野さんとか堤之さんとかが多いのは、ずっと昔から住んでいたからなのだろうな。姓をもてることになったとき、すでにここに暮らしていた人の子孫なのかな。お店もけっこう多かった。昔にはにぎやかな通りだったのだろう。

信号に出て、交差するのは府道8号大阪生駒線。もう少し道なりに進んでいった。このあたりは道幅も広くて、都会の感じだった。

次の信号まで行って、小阪街道はここまでとした。山が近くなって、迫力をもって迫ってきていた。寄り道して、鶴見緑地にとりあえず行ってみよう。


茨田浜交差点から8号線を西に鶴見緑地に向かっていった。鶴見緑地公園はすぐだったけれど、通り越して大阪メトロの横堤駅近くでパン屋に寄ってからUターン。

8号線沿いには関西鐵工所があって、その横の建物がレトロで面白かった。

そして鶴見緑地は・・・広すぎたや!

公園に入ると北に向かい、テニスコートを過ぎ、ドッグラン(誰もいなかった)を過ぎ、プール(台風21号の影響で閉鎖中)を過ぎて、やっと鶴見緑地駅(大阪メトロ鶴見緑地線)だった。東西には花博通りが走っていて、その向こうが鶴見緑地のメインの部分。

鶴見緑地駅近くで、「大楠」と書かれて立っているクスノキがあった。なんだか寂しかった。ただひとりコンクリの中に枠に囲われてたっていて。

駅から離れて少し歩けば、神社や人家の庭にもっともっと大きなクスノキがいっぱい見られた土地だった。三島神社のクスノキ(楠蓋樟)なんて、どんなに大きかったか。なのにこんな細くて小さな木が「大楠」と冠してたたされているなんて、重荷だろうな・・・。

だだっ広い鶴見緑地のメイン部分をちょっとだけ歩いて休憩し、パンをいただいた。

園内の古いマップによると、北側は世木せぎってところで、世木公園もあるようだった。


鶴見緑地はちょっと寄り道するには広すぎるところだというのを知り、早々に去ることにした。

花博通りを浜の方面に向かい、迎賓館前交差点を右折。花博開催の頃、迎賓館があったのかな。

しばし南下して、左に分かれていく道に進んでいった。道なりに進むと道は東に向かっていった。

このあたりは大きな家が多かった。段倉だったのかなと思われる建物もあって、このあたりが「古川の船便を担っていた」人々の住むところだったのかな。

慈恩寺(「生は偶然にして死は必然なり」と書かれていた)があり、立派な宗圓寺があった。

次の辻で旧道と交差し、左折すると古宮神社で、次の辻で車道に交差し、もう少し進むと15号線。

ここを右折して小阪街道(15号線)を南に進み、少し行けば、葭田よしだ橋。

葭田橋で古川を渡った。14日はだんじりが通りますみたいなことが書かれていた。

ここも、小阪街道の堤同様に、かつては賑やかだったのじゃないかなって通りだった。みんなこの橋で古川を渡っていたのじゃないかな。

左手に茨田北中学があって、この中学沿いに左折して北上していった。

古川の東側の堤だったのだろうって道だった。左手に墓地、右手に専立寺と、豪華なつくりの旧家が現れて、ここを右折。

もう少し行くと大宮神社だった。案外小さい。江戸時代頃の創建らしかった。

一時、古宮神社に合祀されていて、後に戻ってきたそうだ。それで小さくなったのかな。境内には、ここにも大きな楠があった。大阪市内だと思えないような鄙びたところだった。せっかくやって来たわりに歴史はそう古くない神社のようだったけれど、鄙びた感じはよかった。

もう少し先に進むと、茨田大宮1丁目交差点。交差するのは、上を近畿自動車道が走る中環だった。

建造物の規模が大きくて、けれどそこに田んぼが残っていたりした。

ここを過ぎると、右手に三井アウトレット。目の前には「日本一たいやき」。前に喜志駅の近くで食べたことのあるたい焼きやさんだった。

左前方にはなみはやドーム。ドームの向こうが門真南駅。散歩の出発地点に戻って、帰途についた。

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