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大阪を歩く犬5  作者: ぽちでわん
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小阪街道とおまけの楠

高架を走る京阪電車に近づいていき、右手に存在感のあるお寺が現れて、行ってみると願得寺だった。

このお寺があるから御堂町なのだろうな、と納得させるものがあった。こんな道路のそばの住宅街の、ちょっと「町のはずれ」の感のある所に建っているのが勿体ないように思えるお寺。

元は本願寺の蓮如がたてた古橋御坊に始まるのだって。

その後、騒乱で焼失。蓮如の10男(23番目の子)、実悟が再建して、寺名も願得寺としたそうだ。

前に京街道を歩いていて、実悟上人が荼毘に付されたってところがあった。そのとき知ったことには、実悟さんは土居御坊もたてた人だった。母は蓮如の5人目の妻で、畠山氏の人。

京阪電車の高架下(右には古川橋駅、左には大和田駅)をくぐり、南下を続けると、すぐに少し古い道標があって、「左 守口街道」とあった。守口街道(清滝街道)との交点であるらしかった。

このあたりは大西さん王国だった。古い洋館風の建物には「大西醫院」とあった。

右手には豊国神社。小さな神社で、門がつけられ、錠が下ろされていた。

それから右手に変電所。変電所はずっと続き、鉄塔だらけだった。道の左右は低くなっていて、堤道だったのだろうなと思われた。

左手に川沿いの遊歩道に入れる道があったけれど、ここにも錠がされていた。あまり治安のいいところじゃないのかな・・・? 川は古川で、ここからはずっと古川沿いの堤だった感じの道を南下していくようだった。


このあたりで青いのぼりを見た。堤根神社ののぼりだった。

堤根神社は大和田駅近く(宮野町)と、ずっと南のひえ島にあるらしく、距離から言って宮野町の堤根神社ののぼりかな。

それから右手、低い位置に、トタン屋根って感じの家々がひしめいていた。寿町で、左手は墓地だった。

門真大橋西詰交差点で広い道路(国道163号線)を渡って、さらに南下。

一番公民館があって、その横には「幣原兄弟顕彰碑」の案内があった。近くの民家の楠が立派だった。

ここは「一番町」というらしい。河内十七ヶ荘は分かれて村になったとき、「〇〇一番村」「〇〇二番村」とナンバリング。ここは門真荘だったのが「門真一番村(正しくは門真一番下村)」になっていた村だったところで、そのまま「一番町」になったみたい。

幣原さんは戦後、第44代の総理だった人で、その兄もたいした人だったとかで、その生家跡に碑がたっているのだって。行ってはみなかったのだけれど。

それから右手に広~いところがあって、どうやらここが門真試験場だったみたい。奥の方に立派な建物があって、道路横は試験場だった。車が一台走っていた。

東田町に入ると、大きな工場だらけだった。工場の敷地が大きくて、その一角で虫が鳴いていたりした。門真紙器を過ぎたら右折。旧家に行きついて、道は右に曲がった。すぐを左折。

ここは古い集落の感じのところだった。大きな旧家が多くて、空気も変わった感じがした。桑才寺院なる小さな寺があった。

田舎のお寺だったのかな?と思えたけれど、よく分からなかった。

桑才はここの地名らしい。けれどその由来とかもよく分からなかった。この一角だけ、古い感じのする、静かなところだった。

南下していくと、すぐにまたうるさい車通り(府道161号深野南寺方大阪線)に出た。そしてその先で道は左右に分かれ、右手には忠魂碑があって、その両サイドに道が通っているのが見えた。そちらに向かって行くのが小阪街道だった。

けれど暑くて疲れてきていて、ここから遠くはない門真南駅から帰ることにした。その前に、近くにあるらしい大きな楠を見に行くことにしよう。


161号線を東に向かっていった。すぐに桑才交差点があって、川を渡った。右手に三ッ島大橋公園(犬NG)。元はなんだったのか気になる感じの公園だった。

左手の二島小学校の手前で左折して、小学校沿いに進んでいった。

地名は三ツ島で、ここは「二島ふたしま」なんだな。その由来も気になったけれど、これもよく分からなかった。門真市は、地名の由来などについてあまり情報発信していないのかな。

小学校の北側を歩いていると、ピアノの音、先生の質問の声、子どもたちの「はい」「はい」って声が聞こえてきて、素敵だった。ミュージックを教育に当たり前に取りいれているのもいい。

小学校でも木が切られていた。台風21号の影響でかな。

このあたりでは赤いのぼりを見た。三島神社と書かれてあった。上三ツ島自治会館があり、そのまま東に進むと右手に公園が現れた。

布施邸跡の碑があった。江戸時代、薬種などを扱っていた布施家のおうちがここにあったのだけれど、平成初期に断絶。記念公園となったのだって。

大きな木が見えてきていた。そちらに進むと安通寺があって、古い家々があり、三島神社があった。「拉致対策本部」の古いポスターも。このあたりだけ、時が止まっているみたいだった。

そして鳥居の向こうには大きな楠。

「楠蓋樟」と呼ばれているらしい大きなクスノキ。それは鳥居の向こう、拝殿の前にど~んとたっていた。

樹齢1000年は下らないらしい。もっと大きくて、外の民家に枝が届くほどだったそうだ。けれど文明開化の頃、電柱をたてるのに邪魔で、枝を切っちゃったのだって。

言われてみれば、枝は切られていた。大きなクスノキって、たいていは枝を切られている。折れたりした場合も多いだろうけれど、「文明開化のために」なんてパターンもあったんだな。

鳥居越しに見ても大きかったけれど、誘惑に勝てず、おかあさんのだっこで拝殿の前まで失礼して見させてもらった。

前から見ても大きかったけれど、奥行きがすごかった! そして木の根元に一体になったような形で、江戸時代の碑がたっていた。

歌の詠まれた歌碑で、この歌から「楠蓋樟くんがいしょう」と呼ばれているのだって。

すごいものを見たなあと思いつつ、神社の前の道を南下していった。振り返ると、楠が1つの宇宙のようだった。


161号線を過ぎると、その先で道は2つに分かれ、左側の道に進んでいった。

右側に行くと堤根神社(ひえ島)などがあるようだったけれど、それはまた次回に。高速(第2京阪)に行き着き、下三ツ島公園があった。

下三ツ島公園といったら「一休生母の墓」があって、その西すぐが大阪メトロの門真南駅だった。一度来たことがあったけれど、別の方向からやって来ると「あの公園」だと気がつかなくて、そのまま高速の下を通って南下していった。なみはやドームなどがあって、門真南駅も見つかった。

水は結局500ml一本で足りたし、ましになったと思うのだけれど、日差しがあって、暑い一日だった。

けれど翌日には急に寒くなった。秋って、分からないものだな。

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