小阪街道を佐太から
10月の半ば、小阪街道を歩くことにした。
前に枝切街道を鳥飼まで南下していった後、淀川(仁和寺あたり)を渡って、続いて南下していくつもりだった。けれど途中で道を間違えて、途中までで終わっていた。
淀川を鳥飼の渡しで渡ると、枝切街道(ここからは小阪街道とも言う)は仁和寺(地名)スタートで南に向かって行く。近くには、少し西に佐太の渡しもあり、佐太の渡しで渡ると佐太スタートで東に。仁和寺スタートの道に合流して、一緒に南に向かって行くみたい。
仁和寺からの道は前回歩いたので、今回は佐太からの道で歩くことにした。
スタート地点の最寄り駅、大阪メトロ(谷町線)大日駅へ。谷町線の北の終点の大日駅に向かう途中、太子橋今市で人がどっと降りて、車内はがらがらになった。降りた人たちの年齢層から行って、大学があるパターンかな? 大阪工業大学などがあるようだった。
大日駅には京街道歩きでやって来たことがあった。周辺はスケールの大きな道路や大きな施設からなる、新しくできた町ってイメージだった。
4番出口から出て行って、右手にイオンを見ながら大日駅前交差点へ向かい、交差点を左折。北上していった。
すぐに右手に大日妙見堂が現れた。道のわきに小さくこじんまりとあったけれど、元は広い場所にもっとのびのびとあったのだろうな。
「白山神社御祭禮」と書かれた白いのぼりが立てられていた。
その白いのぼりは道々ところどころに見えた。地元でも秋祭りが近づいてくるとのぼりが立てられるのだけれど、地元の人に奉納金を募って、奉納してくれた人にはのぼりが渡されるシステムみたい。
ところどころ旧家も見えた。ぽつぽつと家が建っていたところに、どんどん新しく家が建てられていったのだろうなあ。
右手にとりわけ大きな旧家があった。庭の緑が茂り、道の反対側、左手にもさっきから緑が茂っていた。
あれが白山神社かも?と思って、右の旧家を過ぎたところで左折してみた。すぐに「大日會館」と書かれた素敵な建物があった。平屋の白っぽい建物で、風通しのいい、昔の田舎の小学校みたいな感じ。今でも使われていて、おばさまたちが教室を開いているみたいだった。
素敵な火の見やぐらもあった。
さらに行くと玉垣が現れて、細い道をずっと行けば白山神社だった(犬NG)。
ちょっと排他的な神社かな。白山神社は前に杉山街道を歩いた時、大阪城近くにもあった。詳細は不明。遠く東のほうでは、被差別部落によく白山神社があったそうだ。
元の道に戻って北上すると、途中交差した道は蛇行していて、以前は川だったんじゃないかなと思われた。水路の多い農村だったのだろうなあという感じがした。大日が新しくできた町だなんてイメージは、大間違いだったみたい。
西にすぐは大庭町や八雲だった。八尺瓊神社があって、弥生時代の玉作り工房の跡も見つかっているというあたり。淀川から神崎川が分かれるあたりでもあって、神崎川は水運にも使われて、平安時代にはたいそう賑わったそうだ。
神崎川は桓武天皇(平安京に遷都した50代天皇)に言われて和気清麻呂が淀川とつなげた川だった。それまでは神崎川は独立した川で、安威川と一緒に大阪湾に注いでいたみたい。
桓武天皇の母親の故郷が交野のあたりで、その地の水害をどうにかしたかったんだそうだ。交野はこの東の方で、淀川の水を神崎川に流して水害対策もしつつ、神崎川から淀川に船で行き来できるようにしたのだって。
その頃、淀川河口部は難波八十島あたりで、土砂が堆積したりで港としていまいちになっていたのかな。それもあって、神崎川河口をメインの港としたのかな。
10月だったけれど、暑い一日だった。予想最高気温は28度。
朝方早くには涼しかったけれど、気温はぐんぐん上がっているようで、ひなたは夏のようだった。また水1本(500ml)では足りないパターンかな?
草のあるところでは少し大きくなったバッタが飛んでいた。しばらくいい香りを放っていた金木犀の花が道路に落ちていた。
庭窪小学校があり、飛来神社があった。小さな神社で、佐太天神宮の旅所だったと思われるそうだ。どうして「飛来」なのか気になるところだったけれど、詳細は不明。
このあたりからは白山神社の白いのぼりではなく、佐太天神宮の紫ののぼりを見るようになった。20日に秋祭りがあるらしい。
このあたりでユニークで素敵な建物を見た。つきあたりまで進んだら右折。
お寺(寶泉寺)が見え、近づくと建物に囲まれていて姿が見えなくなったけれど、その左手の道を進み、川に出た。
少しだけ、昔の風情を残していた。田舎だった頃の。
井戸端会議をしているおばあさんたちがいた。「なんともない家の隣はひどかったりしてねえ」。
道々、壁の落ちている家とかがあった。大阪北部地震の被害の話だろうな。
川沿いを東に向かっていった。
右手に水がひかれてた名残のところがあった。樋門ってやつかな。でも今では、水路の代わりに道路になっていた。
右手にずっと浄水場の施設が続いていた。その大きな施設の横の細い道を歩いていると、少し自分がミニチュアになった感じがした。
渡り鳥かなって鳥が群れで飛んでいた。左手には大きな道路(国道1号線)も見えてきた。
そのうち1号線に合流して、この大きな道を歩いて行った。空気が悪いところだった。そして左手(北側)には土手があって、その向こうは淀川。ここは前にも歩いたことのあるところ。古い昭和の時代の川沿いの感じの漂う家々も残るところだった。
次に現れた信号で右折していった。本当は次の佐太中町7丁目交差点で右折するのが正解だったのだけど、歩道橋に書かれた「佐太中町7丁目」の文字を見て、間違って右折。
前回、迷子になったのも、ここで間違ったからみたい。府道13号京都守口線まで歩いていってから、どうやら間違えているなと引き返し、歩き直した。
佐太中町7丁目交差点には佐太天神宮の鳥居があって、参道を行くと天神宮と来迎寺がある。前に京街道歩きでやって来たところだった。この交差点の北あたりが、佐太の渡し跡だったみたい。
来迎寺と佐太天神宮の間の道を東に進んでいった。
ここからが小阪街道で、街道あたりを境に北は寝屋川市のようだった。
古い空気の残る道だった。菅相寺なんかも、地味ながら昔のままを残している感じ。佐太天神宮の神宮寺(神社に付属したお寺)で、平安時代の創建と思われるそうだ。本堂は領主だった永井さんが再建。菅原道真公が大好きで、あちこちの神社に道真公を祀っていったという人ね。
菅原道真は平安時代の重臣だった人。能力があって天皇にも重用されたのだけれど、政局が変わると左遷されて、九州の大宰府に。左遷されて2年して亡くなり、その後、いろんな異変が起きたことから、道真公の祟りだと噂されたそうだ。
30年近くして平安京に雷が落ち、公家など複数人が死去。天皇も3か月後に崩御。道真が天神となって祟りを起こしたと噂された。そのことから天神と菅原道真が同一視されるようになったみたい。
大宰府に赴く時、道真公は京から淀川を下り、道明寺(寺)にいたおばに会いに道明寺に寄って、大宰府へ向かったのだって。その途中で立ち寄ったとされているところがあちこちにあって、そこも道真公を祀る天神宮(や天満宮)になっている。
おまけに江戸時代には、淀藩主になった永井尚政って人が道真公びいきで、淀川沿いの神社の多くに菅原道真を祀っていった。
そんなわけで淀川沿いには道真公を祀る神社がいっぱいある。中でも佐太は菅原道真の領地だったところで、古くから道真公を祀っていたそうだ。
途中、一般家庭のおうちが思いきり京阪バスのバス停のようになっているところがあった。道が二手に分かれるところで右手に進んで、府道13号京都守口線と交わる金田町5丁目交差点へ。
13号線は広い道で、空気は悪かった。飲食店のチェーン店がずらりと並んでいる、よくある感じの道。13号線を横切って、道の続きを歩いて行った。
左側には汚くなった水路が残っていた。よどんでいる水、それから乾いた泥、その次は暗渠になったか、姿を消した。
用がなくなった用水路は、そのうち蓋がされ、暗渠(蓋がされた川)となって簡易側道などになり、それもやがて埋め立てられるんだな、というのが散歩していて、分かるようになってきていた。そのいろいろの段階を散歩していて目にするから。
樋門が残っているところもあったけれど、その先は水路ではなく、道路になっていた。
ここで前足に何かがくっついて離れなくて、おかあさんに助けを求めた。初めて踏んじゃった、ガム! ガムは道に捨てないでほしい! そう簡単には取れなかった。
バス通り(府道15号八尾茨木線)に交差した。バス通りの向こうは寝屋川市。
右折して、このバス通りを南下していった。なんだか知っている道だぞ、と思った。細い道なのにバスも通っていく。すぐ右手には神社があって、その鳥居のあたりがバス停になっている。
前に仁和寺スタートで小阪街道を少し歩いたとき通った道だった。仁和寺スタートの道と佐太スタートの道が、ここで一緒になって南下していくみたい。
前回もやって来た、バス停のある神社は津嶋部神社。祭神は津嶋女神で、式内社。詳細は不明。
元は北東にある対馬江に鎮座していたそうだ。淀川流域の対馬江には渡来人が多く住んでいたらしく、彼らが津嶋部を構成していて、その祖を祀ったのが津嶋部神社じゃないか、云々といわれているみたい。他、中臣系にも津島さんがいたそうだ。
バス通りを南下して行くと、左手には「黒原城内緑地」と書かれていた。
地名が黒原城内町。ぽつりぽつり古い建物も見えた。詳しいことは分からなかったけれど、かつて黒原城という城があったところなのかな?
次の信号で、右手の分かれ道に入っていった。車止めの向こうに遊歩道が続いていた。バス通りには戻らないように南下を続けると、「大久保庄の道」と書かれた新しい道標が現れて、大久保中央公園へ続いているらしかった。
遊歩道がなくなり、15号線に戻ったら、最初の信号を左折。
前回はこのあたりで行こうとした中西家住宅が見つけられなくて、その後、どこを歩いているかも分からなくなってしまって、小阪街道を見失ったのだった。
すぐ右折して、右手に公園の入り口が見えている道に南下していった。
この公園が大久保中央公園で、中央と呼ぶには小さいけれど、気持ちのいい公園だった。他には誰もいなかった。ここには「大庭庄の道」と書かれた道標があった。
道の反対側には妙薬寺。1683年創建だって。
公園の東側、妙薬寺との間の道を南に進んでいき、すぐに道が2つに分かれると右へ。すぐまた左折して、この細い道を南下していった。
横に長い公園が現れて、その裏は旧家の塀だった。全部が旧家の敷地だったのが、一部、公園として提供されたのかな、という感じがした。
公園の東側の道を南下。
中西さんのお宅があって、その奥の細い路地が「もりぐち歴史館」の入り口になっていた。そこが「旧中西家住宅」だった。
犬の散歩はご遠慮くださいとあって、開館時間ではないらしく、チェーンがかけられていた。
前回、この旧中西家住宅が見つけられなくて、道に迷ってしまったのだけれど、この道は歩いたような気がした。速足で歩いていて、気づかなかったのだろうな・・・。
中西さんは太平記にも載る名家であるらしい。16世紀頃にここに移住してきたと思われるのだって。
そしてここの娘だったお亀の方は、バツ2で徳川家康に見初められ、側室となって子を産んだのだって。その子が尾張徳川家の祖となったそうだ。
武家で、門は長屋門っていうやつ。町屋(町人の住まい)との大きな違いは、この門があることだったみたい。町人は門のある家をもてなかったのだって。
元の道に戻って南下を続けた。また「大久保庄の道」の道標があった。
田舎らしくなってきて、稲刈りが行われていた。刈られて、逆Vの形に干された稲穂も見えた。
砂原さん、砂口さんとか、砂のつく名前の表札が多い気がした。
15号線に合流する直前に、15号線から分岐する別の道に移って、南下を続けた。左手に玉垣が見えて、行ってみると、天社宮とあった。説明書きによると、土御門神道の主神を祭るということだった。
ここ、旧藤田村の村民は陰陽道歴代組に属し・・・って、額田村と同じだな。おそらくは神がかり的な力を持ち、陰陽道の土御門家(安倍晴明の末裔)に師事し、祭礼の補助も行っていたという額田(東大阪市)の歴代組。
藤田村の人々もかつては陰陽道の役所(陰陽寮。トップは代々、土御門家)に勤め、明治時代に廃止になった後も、暦を作っていたという人々で、陰陽師集団の村落を形成していたみたい・・・。今では、すっかり住宅密集地になっていた。裏は藤田公園だった。昔の田園の感じをちょっと残しているような公園だった。
天社宮から南下していくと、観音堂と極楽寺があった。古そうだったけれど、詳細は分からなかった。額田の歴代組の神社(鎮宅霊符社)のそばにも極楽寺があったな。
少し西の元の道を南下していった。
藤田商店街と交差したけれど、もうほぼ商店街ではなくなっているような・・・。喫茶店などが多くて、ちょっとした盛り場だったのかなって感じがした。
散歩してきた経験から言うと、近くに大きな工場がいっぱい建っていて、労務者が多く住んでいて、そこにいろんなお店ができていたところなんじゃないかなという感じだった。安治川沿いとかに似た感じ。
また「大久保庄の道」の道標があり、右手には「弥治右衛門記念碑」のある広場。
左手には「弥治右衛門記念碑前公園」というそのままのネーミングの公園。古めの道標もあって、「すく右○○」「すく左○○」と書いてあったけれど、よく分からなかった。
小泉弥治右衛門さんは、ここ、茨田郡大庭大久保庄の庄屋さんだった人だそうだ。低湿地で、水はけが悪く、農作物がうまく作れなかった。そして、あちこちの「〇〇衛門さんの碑」によくあるパターン同様、幕府の許しを得る前に解決策を強行。
悪水を抜くための樋が必要だったのだけれど、そういうことには幕府の許しが必要で、けれど幕府はなかなか動いてくれない。
「○○衛門さんの碑」の数々を見てきたイメージでいうと、誰かが強行して死刑にならないと幕府は動いてくれないって感じだな。ここでも庄屋さんが、ではわたしが、と立ち上がって、人々のために樋を設けたのだろう。
庄屋さん一家4人が処刑され、樋は残ったそうだ。
それから大歳橋なる橋を渡った。川は流れていなくて、緑道になっていた。元々はここを古川の支流が流れていて、ここから北が守口市、南が門真市。このすぐ東で古川に合流していたのかな。
淀川の南のこのあたり一帯は茨田郡だったところらしい。
かつては淀川の支流で、太間(寝屋川市)から南に流れ、住道あたりで大和川(大和川支流や深野池、新開池など)と一緒になる川があったらしく、その支流で茨田郡は2分割されていた。そしてその西側半分には「河内十七箇所」と呼ばれた17の荘園があったそうだ。門真や守口あたりね。
今、寝屋川が流れている太間から萱島までや、古川の流れている萱島から住道まではその支流の流れをくんでいるのかな。
大久保(大窪)荘、大庭荘というのも河内十七箇荘の1つ。最初は藤原氏の荘園が多かったのかな。やがて皇室領となったけれど、南北朝時代、戦国時代には多くの戦いの舞台となって、取り合いされていたみたい。
右手に古川橋小学校が現れて、地名も古川だった。
それから高台になっていって、地名は御堂町に。このあたりも藤田町と同じく、盛り場だった感じがした。




