8話 苦労青年は迎える
一時間待つことになったワカバは、診療所の二階に当たるリビングに向かう。通った廊下と階段は、よく掃除されてあった。薄茶色の木の木目は汚れておらず、見ているだけで何だか気分が良くなる。
リルマ、ああ見えて家事全般得意だからな……下手したら年上である私よりも。それは彼……シュウと共に暮らすようになったからか、それとも暮らす前から得意だったのかは定かではない。そういえば、訊いたことがなかった。
先ほどコウを連れ去った白い半袖に黒いミニスカートの女……いや、女の身体をしている男というべきか。つまり彼は、外見は女性だが中身は男性なのである。生まれつきではなく、とある事情によりそうならざるを得なかったと聞いている。
……そんな彼だが、趣味としている人体や生物の構造については誰よりも詳しいものの、それ以外がてんでダメなのだ。料理は掃除はもちろん、人との交流、生物以外の暗記や読解、芸術といった全ての事柄が凡人より劣る。
己の身体については熟知しているため死にはしないが、その生活っぷりにさしもの見かねたリルマが一週間に一度ほど手伝いに来ていたらしい。そうして数ヵ月余りが過ぎた頃、別の村で住んでいたリルマが自分が悪魔であることを知られてしまい居場所を失ったために、この診療所に住み始めたとのこと。
シュウとしては面倒な家事をしないで済むようになり、リルマとしても新たな住居が見つかったので結果的には良かったと言っていた。
……この世界では、悪魔は本当に生きづらい。悪魔と魔女の違いは使命と性別の違いだけだというのに、どうしてこうも扱いに差があるのか。
無論、魔女が生きやすいわけはなかった。何度も迫害を受けてきて、その度に別の街や村に移住した。
しかし、人間に言い伝えられている内容のせいというべきか、おかげというべきか……魔女はまだ受け入れられることが多いのだ。
それに比べて悪魔は……格段に、少ない。だから人間と子供を作るのも一苦労するし、場合によっては相手を騙さなければならない。まぁあの言い伝えは事実だし、まさに使命の違いがあったからこそあそこまで行動が異なってしまったわけなのだが。
……やっぱり、悪魔のことが理解できない。なぜあんな行動を取ったのか、わからない。
彼らが受け取った使命のことは知っている。昔から何度も何度も聞かされてきた。けれどあの姿から、どうしてそう解釈したのか理解に苦しむのだ。
それだけじゃない。どうして使命のためだからといって、あんな生き方をし続けられるのだろう――誰にも感謝されず、むしろ誹謗中傷を免れない悪魔としての使命を、なぜ憎まずにいられるのか。
確かにあの方から授かった使命は簡単に放棄できないものだ。だけど、かといって、ああも落ち着いていられるだろうか? ああも……あの方のことを……神様の嘆きを気にしないでいられるか?
そればかりか、どうして、彼らは我々の使命を否定するのだろう。彼らだって魔女と同じように使命を受けたのだ。共感できるはずだろう。
なのに、少なくともリルマからは、
『やめてくれよ。もう……そんな生き方、見てるだけで痛々しいから。おまえだって、本当は――』
――わからない。
リルマと知り合ってからもう二年は経つだろうが、未だに彼らのことがわからない――。
だから、本音を言えば、少し苦手だった。
彼と……悪魔と会うことに、躊躇いがないわけじゃない。
そして彼女は、ガチャリと扉を開ける。木の擦れる音と、匂いが鼻腔をくすぐった。
広々としたその部屋は、本は棚に仕舞われて窓から光が入り、リルマが手作りした木製の玩具がいくつか床に転がっている。
そんな部屋に、テーブルに着いて数冊の本に耽る、一人の男がいた。
「よぉワカバ、遅かったな」
茶色の短い髪に焦げ茶色のケープを羽織る悪魔――リルマである。
「ごめん。あれからちょっと、支度に手間取っちゃってさ」
「まぁ俺が行った時、朝飯すら食べてなかったみたいだしな。ちょうど少し話したいことがあったんだ。とりあえずそこかけろよ。適当に飲み物取ってくるから」
「……うん、ありがと」
話したいことって何だろうと疑問に思いながらも、礼を口にしながらワカバはリルマの座っていた向かいの席に座る。飲み物について最初は断ろうかとも思ったが、実をいえば喉が渇いていたので飲ませてもらうことにした。
その間に席を立ち、奥にあるキッチンでお茶を見繕いながら、リルマ。
「……って、そういやコウはどうした? 行く気満々だっただろ?」
「来るときに少し調子が悪そうだったから、今シュウに診てもらってる。一時間くらいかかるって」
「ああ、捕まったのか。あいつ、コウのことになると隙あらば診察室に連れ込むからな」
呆れつつも慣れつつあるような彼の物言いに、ワカバは眉をひそめた。
「捕まるって……言い方悪いよ」
「的確な表現だろ。あいつの場合」
パタンと、棚からコップを取り出すリルマ。お茶を淹れて、リビングに戻りワカバに手渡す。
「ほい」
「ん」
そんな短いやり取りを経て、ワカバの手元へと渡るコップ。口に流し込むと、乾いていた喉が潤っていくのを感じた。冷たく美味しかったので、みるみるうちにどこからともなく滲み出ていた疲れが回復していく。
その間リルマは席に座り、彼女の表情をそれとなく確認した後に本のページをペラペラと捲った。
「なに――調べてたの?」
半分ほどお茶を飲んだワカバが、分厚い本を前に首を傾げる。返ってきた答えは、意外なものだった。
「俺ら悪魔と魔女の先祖――正確にはまだそう呼ばれていなかった、最初に神から力を与えられた二人が見たっていう夢について、少しな」
「……なんで、急に」
そうやって神を軽々しく呼ぶのも、魔女としては考えられないことだった。彼ら悪魔は、あの方のことをどう認識しているのだろう。
だが、彼女の心中を知ることなく、リルマは問われたことを答える。
「今朝、神秘の森の話を聞いて、ふと思ってな――なぁ、あの世界に入った時、別の世界に来た感覚がしたんだよな」
「あ、ああ。凄く、変な感じだった……こことは違う世界だっていうのが、不思議と理解させられる神秘の場所だったよ」
「……なら、さ」
次に彼の口から発せられた言葉は、意外どころか、口に含んでいた液体を吹き出しかねないものだった。
「俺らの先祖が夢の中で見たっていう、神の住まう空間は、その神秘の森にあるんじゃねぇか?」
「――っ! ――っっ」
「……おい、吹き出すなよ。マジでやめろよ」
ワカバの向かいの席に座るリルマは、書物を抱えて声のトーンを低くさせる。その対応にワカバは咳き込みながらも言った。
「ふ、吹き出さないよ! それよりそれって、どういうこと? あの方が、神秘の世界にいるかもしれないって――!」
何とか堪えた彼女だが、しかし堪らず跳ねるように立ち上がってリルマに詰問する。荒々しくなりかけた彼女の口調を鎮めるように、彼は強調した。
「お、落ち着けって! まだ可能性の話だし、俺の思い過ごしかもしれない。それにおまえらが迷い込んだ時は妖って虎しかいなかったんだろう? あくまでもそうかもしれないってだけだ。とにかく順を追って説明するから座れって」
「……」
それから少女は、形相は相変わらず苦しいものだが、ひとまず渋々といった様子で席についた。
コップに注いだお茶には、手を付けない。
リルマは一息ついて、抱えていた本のページを開く。その文章は、ワカバが幾度となく記憶に焼き付けたものだった。
「じゃあまず、俺たちの先祖が見た夢の話を振り返るぞ」
「……うん」
小さく頷く彼女に、リルマは語った。
魔女と悪魔なら誰もが幼少期から聞かされる、神から使命を授かった最初の神話を。