4話 空虚少女は話し込む
ワカバの部屋が質素で、コウの部屋が騒がしい部屋だとしたら――彼の部屋は、一人であることが強調されたような部屋だった。
一人用の食事がせいぜいなテーブル。今は二つある椅子も、コウがここに来るまでは一つだった。それは木の皿とコップも同じだと彼は言う。
少ない衣服や棚。大量に積まれた分厚い本(読んだことはあるが自分には難しいものばかり)。暖炉の薪は燃えていて、絵がいくつか壁に飾られている。
コウを家の中に入れたデーウィは、彼女を片方の椅子にかけさせた。少女は麦わら帽子を脱いで、両の指先で持っておく。
テーブルの中央に置かれた蝋燭の先には、開かれた本が倒れていた。先ほどまで読んでいたのだろう。
彼は消えかかった蝋燭の火を一旦消し、先端部分に指を触れさせるだけで火をつける。その指先は、火傷していないようだった。
「それにしても、コウが事件絡みのことを訊きに来るなんて珍しいね。あの忠告は、普通の人間である君には危険だって意味なんだけど。魔女や悪魔なら……それも身体能力に優れてるあのしぶとい魔女なら、解決はできないだろうけど死にはしないよ」
「……うん。わかってる」
椅子に座って倒していた本に栞を差し込むデーウィの言葉に、コウはやや遅れて頷く。
「なら、いいんだけど」納得はするも、彼女の目線が沈んだことが気掛かりなデーウィ。
今回だけではない。この麦わら帽子の娘は、時々こういう反応をする。魔女を悪く言ったから、というのも考えられなくはないが、少し違う気がした。訊いてほしくなさそうだから何も訊かないし、何も言われないから直しもしないが。
それから少しの間沈黙が流れて、コウが目線を上げて口火を切った。
「ねぇ、デーウィはあの森に入ったんだよね?」
恐らくというか、間違いなく入ったのだろうが、念のため確認する。
すると彼は、なんだそんなことかと軽い声で応じた。
「そりゃあね。入って自分の眼で直接見ながら探索しないと、あいつらの探し人は見つけられないよ。千里眼は不確かで役に立つほど出来が良くないし」
「じゃあその時、変な世界に迷い込まなかった?」
「――変な世界?」
予測していないことを訊かれ、デーウィは眉を上げて訝し気に訊き返す。というかそもそも、その口調から察するにあの森に入ったことがあるのか。
「うん……もう一年前のことだし、僕もよく覚えてないんだけど……なんていうか、神秘的だなーって感じるような、そんな世界。同じ森のはずなのに、現実から乖離されたような……そんな空間に」
歯切れ悪く、曖昧な答え方をするコウ。言葉にしようと努力しているのは伝わってくる。
だが――
「いや、知らないな。そんな現象」
「……そう」
椅子の肘掛けに頬杖をつきながら答えるデーウィ。様々な本を読み漁り、噂には敏感で収集している彼だが、森に入ると別の世界に迷い込むなんて現象は聞いたことがなかった。
「具体的に何をしてた時に起きたの? それ」
「ワカバと一緒に歩いてたんだ。普通に。そしたら急に――切り替わったみたいに、森や空が変わった。色とか形とか、そういう具体的な何かが明確に変わったわけじゃないんだけど――不思議と感じたんだ。ここは別の世界だって」
「ふーん……」
それを聞いたデーウィは意味深長に相槌を打つ。その様子に、自分の記憶を洗い出してるのかなとコウは思った。
曖昧な答え方しかできないけれど、だからといって伝わらないかもしれないという不安は少女にはない。彼ならこれでわかってくれるだろうと、確信があった。
事実、彼は呑み込んでくれる。
「まぁ、わかったよ。それで? その話がコウがここに来た理由とどう繋がるのさ」
あの世界の話は何人かにしたことはあるけれど、こうして納得した者は今までいなかった。本当にデーウィは物分かりが良くて助かる。
ありがとうと内心思いながら、コウは答えた。
「その世界にね、妖って名前の虎がいたんだ。人を食らう――人食い虎が」
「強いの?」
「戦わなかったから実際にはわからないけど、ワカバは自分より強そうって言ってた」
「なるほどね。話が見えたよ」
ひとしきり彼は頷いて、両腕を組んで片目を開ける。
「つまり――僕に後ろからこっそりついてきてほしいんだろ? あの魔女のために」
「……」
何も言わずに、静かにうんと首を振るコウ。こんな頼みは、初めてだった。
彼が魔女を嫌っているのは知っている。けど、それでも、なりふり構ってもいられる状況ではないのだ。
ワカバは行くと言ったら絶対に行く。力づくで止めようにも止められない。たとえ命を落とそうとも……それでいいとさえ思っている人だ。
そんな彼女を守る手段は、もうこれくらいしか残されていなかった。
魔女より、悪魔なんかより、もっとずっと、ずーっと強い彼でないと――きっと守れない。
……しかし。
「行かないよ。あんな奴を守って、僕に何のメリットがあるってのさ」
メリット……そう、そこが肝心なのだ。嫌な思いをしてまで、嫌いな人物を生かす理由が……ない。
けれど少女は、彼女を守りたい思いで真剣に考え、己を指さして声を振り絞る。
「僕の悲しむ顔を見ないで済む」
「……」
おや? 苦し紛れで考えたことなのだが、案外効果があったようだ。思いの外、デーウィはこちらを向いて黙り込んでいる。これなら、もしかしたら了承――
「それでも僕は行かない。そんなことするくらいなら知識を蓄えていた方が有意義だし、あんな魔女くたばった方が君のためさ」
――してくれるはずもなく、彼は手のひらを上げて再び断った。
「……そっか。そうだよね」
そして少女は、透明な瞳を下に向ける。これは……今回ばかりは覚悟しなければならないのかもしれない。
彼が入った時にはならなかったというし、あの世界に遭遇しなければいいのだけど。
――あの現象を止めるのは、巻き込まれるのは、ワカバじゃなくていい。
コウは麦わら帽子を摘まんだまま、椅子から立ち上がった。
「そろそろ帰る。無茶な頼み事してごめん」
「別にいいけど、今回の探し人については何も聞かなくてもいいの?」
こちらを見上げて訊いてくるデーウィに、コウは麦わら帽子を被りながら答える。
「うん。これ以上長く居ると、ワカバ心配して探しに来るだろうから」
「……そうか」
気に入らなそうに、彼はトントンと肘掛けに乗せた指で音を鳴らした。
その不機嫌ぶりに、顔をほんのりと斜めに揺らすコウ。
「……そんなにワカバのこと、嫌い?」
「嫌いだね。魔女は全員嫌いだ」
デーウィはそっぽを向いて、包み隠さず率直に答える。予想通りといえば、予想通りの反応だ。
彼は何もかもを嫌う。魔女も、悪魔も――人間も。
過去に何があったのかを聞かされたコウとしては、どうしても同情的になってしまった。
でも、だからといって肯定もしない。何も返事をせず、コウは外に通ずる扉へと歩き出す。
「最後に訊くけどさ」
ドアノブに手をかけて開けようとするも、背後からデーウィに声をかけられて動きを止めた。
振り向いて「なに?」と訊き返すコウに、彼は言いづらそうに目線を逸らして問う。
「……コウはあの森に行くの?」
「行くよ」
そう――幼き少女は即答した。
「守れないどころか、足手まといにしかならないけど……ワカバに生きようって意思を持たせることくらいはできるだろうから」
何も――できないかもしれないけれど。それでも僕は行くよ。
それから「じゃあね」と、コウは無表情を少し緩めて別れの言葉を告げ、扉を開けた。
どれくらい話し込んでいたのだろう。外は真っ暗で、星と月明り、そしてデーウィの家から漏れる光しかなかった。来るときより暗い……いや、そんなに変わらないかな?
とにかく、早く家に戻らないと。ワカバが森の中を探索するかもしれない……もしかしたら、村の人たちまで話がいってるかも。最悪の場合、ここに誰かが来てしまう。
そう思って、コウは駆け足で山を下りる。
彼はしばらく動かなかった。テーブルの上に置かれた蝋燭の明かりが、本の背表紙と少年の童顔、青髪を音もなく照らす。
それは揺らり揺らりとした、小さな灯だった。少年はその瞳に、小さな灯を納める。
次第に彼女の足音は聴こえなくなり、パチパチと背にある暖房の音だけが耳の中に入ってきた。
そこへ、新たな音が追加される。
少年の口から発せられた――溜まった息を吐く、ため息の音だった。