3話 空虚少女は外に出る
我が家の部屋の有り様は、清潔で清らかだった。整理整頓されていて、夕陽には劣るが綺麗と称しても差し支えないだろう。掃除は定期的にしていて埃はなく、物は決まった場所にきっちり仕舞っているのだから。
……いや、シンプルという表現が最も近いのかもしれないけれど。
――もっと厳密に言うのであれば、上記に当てはまるのはワカバの使っている部屋だけで、自分の部屋は少なくともあまり綺麗とは言えなかった。
貰った玩具、植物、書物、日常用品……その他諸々が箱や棚から零れ出ている。一応、片付けてはいるのだが……欲しい物があるとすぐに飛びつく癖のせいで、油断するとすぐに散らかるのだ。
ワカバから部屋を貸そうかと訊かれたが、丁重にお断りした。理由はあえて伏せて。
そんな彼女の部屋はといえば……そう、シンプルなのである。これ以上ないほどに、物がない。
なぜなら――最低限度の用品や家具しか、置いてないから。
確かに整理整頓されていて、綺麗だった。壁は見えて、床も見えて、机の上にもやはり何もなく……生活感がないほどに、見本のように、綺麗だった。
やはり彼女は、綺麗すぎる。その髪色と瞳のように。
もっと荒れてもいいだろうに。もっと色んな色で塗られても、いいだろうに……。
だから彼女の部屋には、基本的に入らないようにしてる。
少し……恐ろしい気持ちになるから。そういえばここに来た初日以降、しばらく入っていない。
ダイニングキッチンは、コウの部屋ほどではないが緑が添えられていたり、ちょっとした装飾が施されていた。コウの仕業である。
火に近いところに飾るのはさすがに注意されたが、それ以外は何も言われなかった。
そんなダイニングキッチンで、今ワカバは調理をしている。切った野菜を煮込んでいるだけといえばだけの、簡素なもの。コウはテーブルに座って、待っていた。
「――ワカバ、あの森に行く?」
ずっと気掛かりだった問いを、ついに口にするコウ。デーウィに「行くな」と言われる時は、決まって命を落としかねない危ない事件である。いや、問題は事件の方ではなく、あの森には……。
しかし彼女は、調理の手を止めずにこちらに背を向け、あっさりと頷いた。
「うん、行くよ。助けを求めている人がいるなら、どれだけ遠くて危険なところでも行くし助ける」
「でも、もしも『あの世界』に迷い込んだら、また出られる保証はない……」
心配そうに無機質な声を湿らせるコウ。それを察したワカバは、こちらを向いて諭すような穏やかな顔を見せた。
「そうはいってもね、見捨てるわけにもいかないよ。せっかく掴めた情報なんだから活かさないと」
「……」
「だからって、ワカバが命を落とすリスクを抱える必要はない」と、過去にそう反論したことがある。
けれど彼女は、閉じた眼をカーブに曲げて、笑ってこんな言葉を返すのだ。
「私くらいの命なんて惜しくないよ。そうすることで誰かを助けられたなら本望だし、使命のために死ねたなら後悔はない。そのために死ねたことを喜ぶくらいさ。私にもしものことがあっても、コウのことなら村の人たちに世話を引き受けてくれるよう約束を取り付けてあるから、大丈夫」と……。
だから、そんなことを言わせたくないから、コウは口を噤んだ。代わりになんて答えるべきかと模索していると、ワカバが更に続ける。
「それにあの森には、事件を聞かされなくても近々行く予定だったよ」
「……え?」
初耳だった。でも、思わず訊き返してしまったけれど、彼女の性格を鑑みればすぐさま理由は思い当たる。
そうか。彼女は……
「また『あの世界』に迷い込んでしまうことがあれば、むしろ僥倖さ。『あの世界』についての謎を解き明かし、今度こそ神隠しの現象をきっちり止める。ついでにデーウィが教えてくれた洞窟の中にいる子も助けられたら御の字だね」
言いながら彼女は、再び鍋の具材をかき混ぜるため、背中を見せた。
……。やっぱり。
未知なる非常に危険なことが二つも重なる場所に、こうも平然と飛び込もうとするなんて……ちゃんとわかっているのだろうか。
けど、理解させようとしてもきっと意味がない。これまで死ななかったのが不思議なくらいの命知らずである。それでも彼女は行くだろう。
……全ては、魔女としての使命のために……。
「だからコウ、今回の探索に君は連れていけない。明日は留守番しててくれる? もしかしたらすぐには帰れなくて、何日かかかるかもしれないけど、数日持つくらいには食料確保してるからさ。まぁそう不安にならないでよ。明日の朝、リルマと……できればシュウにも付いてきてくれるよう頼み込んでみるから――って、あれ? コウ?」
ふと鍋からコウが座っているはずのテーブルへと視線を変えれば、そこには誰もいなかった。
「一体どこに……」そう思って調理器具から手を離し、木造テーブルへと近づく。すると彼女が座っていたところをよく注目してみれば、一枚の小さなメモがあった。
『赤い実や木の実が食べたくなったから森に行ってくる。先に食べてて』……と、拙い字で書かれている。間違いなく彼女の字だ。
ワカバは窓を開けて、すっかり暗くなった外を眺めた。まぁ、もう結構な時間帯だけれど、村の明かりはあるし森に入っても彼女なら大丈夫だろう。慣れている。
それにしても、そんなに赤い実が好きだったとは……夕方のアレは、やはり遠慮してのことだったのか。今度畑に行った際には、少し貰っておこうかな。朝食にも少し多めに出してあげよう。
メモには先に食べててとあるが、さすがにそれは気が引けるので待つことにした。三十分経っても帰ってこなければ、様子を見に行こう。
ワカバは天然で考えなしの阿呆だから、あのメモに書いた建前を間に受けるだろう。誰かの口車に乗せられないか気が気でないが、ともかく利用させてもらう。あまり騙すような真似はやりたくないけれど、仕方がない。彼女の生存率を少しでも上げるためだ。
麦わら帽子を被るコウは、ワンピースを着ているにも関わらずスラスラと暗い山道を登っていた。この道のりは慣れ親しんでいて、眼を瞑ってもわかるくらいである。実際に眼を瞑りながら歩くととても危険なのでしたことはないが。
その身のこなしと体力は、とても齢七や八とは思えないほどにあって、軽々としていた。まるで彼女に重さなんてないかのように。
彼女が着ているワンピースが桃色のグラデーションの入った白い生地であることは暗くて見えないが、しかしひらひらと舞っているのはよくわかる。時々ワンピースの縁に飾られた花が散って、数枚の白い花びらを土に落とした。
けれど少女は、構わず山道を走る。ワカバにこれ以上の負担をかけないよう、できるだけ早く家に戻らないと。
息を切らして、飛んで行ってしまいそうになる麦わら帽子を片手で押さえた。
そして――十分ほど経つとようやく見えるのは、一つの心もとない光源。
――それは、丸太で組み立てられた一軒の家だった。
「はぁ……はぁ……」
扉の前まで来て、肩で息を整えてから規則的なリズムでノックするコウ。
この叩き方でないと、彼は出てきてくれない――このことを知っているのは僕だけだと、彼は言っていた。
案の定、扉は開き、薄暗い森に光が差し込まれる。
「デーウィ……」
扉を開けたのは――夕方にワカバを詰ったおどけた態度の少年。
けれど今は、神妙な目つきでコウの訪問を受け入れる少年だった。
「……夕方の件か?」
「……うん」
小さく首を縦に振るコウ。どんな要件で彼女がここに来たのかは、だいたい予想していたのだろう。彼は驚くことなく顎で部屋の中を指しながら「とりあえず上がりなよ。答えてやれる限りのことは答えてやる」と、コウを家の中に招き入れた。