指輪と魔法使い
小さな少女が公園で泣いていた。
彼女は砂場に膝をつき、白いワンピースを泥に汚して、涙を流しながら地面を掘っていた。
泣き声は聞こえてこなかった。
太陽はすでに沈んであたりは暗くなりはじめている。
樹木に囲まれたその公園に、他に人はいなかった。
暗い空気に包まれつつある公園の端で、少女のぼんやりと白い背中が動いていた。
公園の中にある電灯はまだ灯っていなかった。
公園は住宅街の中にあった。
夕食どきのこの時間、通りかかるものもほとんどおらず、いたとしても少女には気づかなかった。
少女は公園の敷地を仕切る木々の影に隠れており、物音も潜めている。
耳を済ませても聞こえてくるのは、ざっ、ざっ、と砂を掘る音と少女のしゃくりあげるわずかな息遣いだけ。
少女は見つかることを恐れていた。
もし見つかれば、この年齢で、しかもたった一人で泣いている自分を、大人たちはきっと保護するだろう。
そうして、家に連絡をつけて母を呼ぶ……。
子どもはすでに家に帰っている時間だった。
自転車の乗り方を覚えたてのころ、楽しくて友達とつい遠くまで出かけてしまい、帰る道がわからなくなったことがあった。
傾いていく太陽に焦りを覚えながら必死でペダルを漕いだ。
結局なんとか道は見つけ出したのだが、帰りが遅くなった。
あのとき、母は怒ったのだ。
今はそのときよりももっと遅い。
外はどんどん暗くなってきている。
外の暗さに呼応して、希望も塗りつぶされていくような気がする。
これからどうすればいいのか。
まだ真っ暗というわけではないけれど、砂場の砂粒が影の中へと消えてきている。
少しの傾斜もわからない。
電灯は公園の真ん中にあり、端にあるこの砂場まで光を届かせてくれそうもない。
夜になったら終わりだろう。
時間はない。
叱られるときの母の顔を想像すると恐ろしかった。
その映像は、地面を掘る単調な音と、あたりの暗さとあいまって、頭の中に明瞭に描かれた。
母のことは好きだった。
優しくて、おいしいごはんを作ってくれる。
自分にはまだわからない、神様とか悪魔とかが出る難しい本を読んで、説明してくれる。
怒られることよりも、母から嫌われる方が恐ろしかった。
母はじっと見つめてくるだろう。
母の目は大きくて、自分の姿がその瞳の奥に映る。
それから一言、『どうしてそんなことをしたの?』そんな風にいうはずだ。
幼稚園にいる厳しい先生みたいに、大きな声をあげたりはしない。
それだからこそ怖くなる。
母は静かに、どこが間違っていたのかを訪ねて、教えてくれる。
手もあげないしヒステリックになることもない。
だけど、それを聞いていると、何か自分が大きな誤りを犯している気になる。
自分みたいな頭の悪くて何もできない子どもが母の子であること自体が間違いだったように思えてくる……。
「何をしてるの?」
そのとき背中から声がかかって、少女の体は硬直した。
それまで母のことを考えていただけに、一瞬、その声が母のものかと思った。
ついに見つかった。
柔らかで落ち着いた声質は母のものに似ていた。
しかし、声をよく頭の中で確かめてみると、別人のものだった。
母のものよりも高いし、言葉遣いも違う。
ゆっくりと振り返ってみるとそこには、自分の知らない人が立っていた。
見たこともない人だ、と少女は思う。
制服を着ている。
女の人だ。
年のころは十六、七。
その年代の人間に知り合いはいなかった。
近所に住む人たちや、友達のお母さんたちは、一番若い年代でも二十台前半だった。
けれども自分よりもはるかに年上のその女の人を、少女はおずおずと眺めた。
曲げていた膝を女の人に向け変え、心細さに体を縮めた。
この人はわたしに何の用だろう。
「何をしてるの?」
もう一度聞いてきた。
彼女は心配そうな顔をしている。
その目が自分の涙の流れを追っている気がして、少女は腕で涙を拭った。
じゃり、と腕についていた砂が頬にこすれて、なんだか情けなくなった。
また不意に涙が込み上げてくるが、何をしているのか、言うわけにはいかなかった。
母でこそなかったが、この人が母に連絡をとるかもしれないのだ。
口をつぐんで視線を落としていると、女の人があたりを見渡す気配がある。
見透かされないか、不安になる。
泥だらけの自分。
手にまだらに張り付き、そして爪の間の挟まった砂。
穴だらけの地面。
遅くまで帰らない小さな少女。
「……探し物?」
どきりとした。
それでつい、顔をあげて女の人をじっと見てしまった。
これじゃ正解といっているようなものだ、と気づいたときにはもう、遅かった。
背筋を冷ややかなものが走る。
失敗だ。
やってしまった。
それでも首を横に振って、言ってみる。
「違うよ。全然違う」
じっと女の人が自分を見る。
ここで目をそらせば、さっきの二の舞だ。
ウソだといっているようなものだ。
女の人の目は動かない。
瞳を通して、心の底までのぞき込んでくるような目をしている。
「そう。……じゃあどうして、帰らないの? おうちに帰りたくないの?」
そう聞かれて、言葉に詰まった。
帰りたくないわけじゃない。
いますぐにでも帰りたい。
でも、今のままじゃ帰るわけにはいかないのだ。
怖くて、申し訳なくて、母と顔を合わせるわけにはいかないのだ。
目の奥がまた熱くなってくる。
視界がぼやけはじめた。
「……本当は、帰りたいの」
涙をこらえ、下を向いてそう言うと、女の人は「うん、そうだよね」と優しい声で答えた。
※※※
気づけば、これまでのいきさつを説明していた。
母が大事そうに戸棚にしまっている宝石のついた指輪に憧れていたこと。
それを今日、母の目を盗んで持ち出して、別段誰に言うでもなかったけれど、ポケットにいれたまま公園に集まっていた友達たちと遊んでいたこと。
大事なものがポケットに入っている、それを知っているのは自分だけだ、ということに覚えた密かな満足。
そうして気づいたらポケットの中に指輪はなかった。
友達たちに協力してもらうわけにはいかなかった。
彼らは指輪が見つかろうが見つかるまいが、暗くなれば家に帰るだろう。
そうして指輪が見つかろうが見つかるまいが、家に着けば誰かがきっと母親たちに話すのだ。
そうなると、たとえ後で見つかっていても、指輪を一度はなくしたことが母に知られてしまう。
だから一人で探すしかなかった。
どこを探しても見つからない。
砂場のどこかに埋まってしまったとしか思えない。
夜の迫ってくる公園で、あてのない探し物をするのはすごく心細かった。
説明していたはずなのに、少女はいつのまにか声をあげて女の人の胸の中で泣いていた。
ひとしきり泣いた後、ふと、恥ずかしさと戸惑いを覚えて身を離した。
夜は深まっていた。
女の人の姿はほとんど、闇に包まれて見えなかった。
「ごめんなさい」
泥だらけの自分に抱きつかれて、服が汚れてしまっただろう。
それにいつのまにか女の人も砂場に膝をついている。
謝ったが、女の人は首を振った。
「謝ることなんて何もしてないよ。……それよりも、その指輪、どういうやつなの? 私に教えてくれない? なるべく、詳しく」
指輪は銀色の細いリングに小さな緑色の宝石がついていた。
細かな装飾はなく、半ば埋め込まれるようについている宝石もごく小さなものだった。
綺麗なものは他にもあったのに、母は妙にそれを大事にしていた。
何か、父との記念のものだったのかもしれない。
そうしてその指輪に憧れたのは、指輪そのものよりも、母のその指輪に対する態度のせいなのかもしれない。
「なるほどね。よし、私が作ってあげよう」
どうして知りたいのかわからない、指輪の細かな点まで聞き終えると、女の人は軽々とそう言った。
少女は目を見張った。
「すぐに出来るから」
楽しげな声で続けると無造作に、砂場に手を置いた。
女の人はそのまま動かない。
一瞬、あたりが静かになったような気がした。
女の人は瞳を閉じていた。
肺の奥から静かに息を吐き出していた。
眉がぴくりと苦しげに歪んだ。
やがてその目が開いた。
女の人はゆっくりと手をあげる。
少女と自分の間にその手を持ってきて、満面の笑顔を浮かべる。
「ほら、これでしょ」
その指先には砂に塗れた指輪がつままれていた。
銀色の細いリングに、緑の宝石がついている。
夢でも見ているような気分だった。
恐る恐る手のひらを差し出すと、女の人はぽんと指輪をその上に落とす。
砂を払い、自分でもつまんでみて、固い感触が指先の中にあるのを確かめる。
本当に指輪だ。
女の人は、いつ見つけ出したのだろう。
この暗さの中で。
それに自分は、すぐ足元にあったのに気づかなかったのだろうか。
あれほど探したのに。
ぽん、と女の人が自分の頭を軽く叩いた。
悲しさも不安もすべて消えてしまい、驚きの中で女の人を見ていた。
すっと彼女は立ち上がる。
「もう暗いから、それを持ってお帰り。探すのなら明日にしなよ」
女の人は穏やかにそう言ったが、その言葉の意味はよくわからなかった。
指輪はすでに見つかっている。
探す必要なんてもうないはずだった。
「あと、一つだけ約束して欲しいんだ。後で指輪が見つかっても、見つからなくても、お母さんにちゃんと本当のことを話して、謝るの。そうじゃないと、その指輪は渡せない。いい?」
自信はなかった。
けれど、少女は何度もうなずいた。
それを見ると、女の人は笑った。
少し悲しげな、自嘲にも似た笑いだった。
「それなら本当は、そんなもの、いらないんだけどね」
軽く首をひねってそう言うと、女の人は踵を返す。
歩みかけた女の人の背中を見て気づいた。
お礼を言うのを忘れていた。
「あ、ありがとう……」
女の人はちょっと立ち止まり、首だけをこちらに向けて答えた。
「……悪いけど、お礼言われるようなこと、何もしてないの。それ、……その指輪、ニセモノだから」
「え?」
手の中の指輪を確かめてみた。
肌触りも、暗い中に浮かぶシェルエットも、確かにあの指輪だ。
これがニセモノ?
「すぐにわかるよ。その指輪、明日までもたない。だから、まあ、ウソも方便ということだね。シンデレラだって、ウソの塊のようなものだし。ただ、キミがおうちに帰るためなら、そういうのも、アリだと思うんだ。……それじゃあ、元気でね」
指輪から少女が目を移すと、女の人はすでに数歩先へと進んでいた。
そのまま公園の出口へと消える。
明日までもたない。
どういうことだろう。
女の人の姿が見えなくなってすぐ、入れ替りに母の声が聞こえてきた。
はじめはわからなかったが、近付いてくるにつれ自分の名前を呼んでいることに気がついた。
その声に怒りは含まれていなかった。
わずかな不安と焦りが響きの中にあって、罪悪感を覚えて心がきゅっと縮んだ。
母に心配をかけてしまった。
そして同時に自分の中にあった恐れも意識した。
けれど、今はもう手の中に指輪がある。
ぎゅっとポケットの中で握りしめると、不安がどこかへ退いていく。
声のする方へと歩んだ。
公園を出て、街灯の灯った路地へ。
家はそう遠くない。
いるとすれば公園だ、と母も考えたのだろう。
母の姿は、道路の奥にある、蛍光灯の光の中にあった。
母がこちらに気づき、駆け寄ってくる。
自分も走った。
母の足元に、申し訳なさと共にすがりついた。
母の体のずっと後ろ方で、曲がり角に隠れていた誰かの姿がさっと動いた。
さっきの女の人かもしれなかった。
※※※
その日の夜。
リビングの扉の隙間からは明るい光が漏れていた。
父はさっきお風呂に向かって歩いていった。
寝室で耳を済ませてそのことは確認していた。
家に帰ってすぐ、疲れて眠ったのはいいけれど、夜にふと目が覚めてしまった。
時計を見ると、もうすぐ日付が変わろうとしたいた。
リビングの奥にはテレビの音声が響いている。
スポーツキャスターの興奮気味の声。
そっと扉を開けてみた。
母ははじめ、父が戻ってきたと思ったのだろう。
何気なくこちらに視線を向け、次いで戸惑ったように視線が下へ向き、それから驚いた顔になった。
「……どうしたの? 目、覚めちゃった?」
少女は首を振った。
目が覚めたのは確かだった。
だけど、それだけだったら部屋にいて再び眠ろうと試みていただろう。
リビングに足を運んだのは、話したいことがあったからだった。
「お母さん、ごめんなさい……」
今日あったことを、母に語った。
上手く話せたとは思わない。
指輪を戸棚から持ち出すあたりでは、母の顔を見ることが出来なかった。
それからおずおずと目を上げると、母は真剣な顔をして聞いていた。
話の合間に何度もうなずくその顔には、興奮も、怒りも、軽蔑もなかった。
大きな目で真直ぐ見つめられて、また怖れが心の中に生まれてくるのがわかったが、それでも話をやめるわけにはいかなかった。
公園で指輪を探し続けたこと。
そこで、不思議な女の人と出会ったこと。
彼女にこれまでのことを語り、その人から新しく指輪を受け取ったこと……。
そこで母親の顔がはじめて変化した。
ぱちぱちと瞬きをして、驚いた表情で首を捻った。
まるで自身を落ち着かせるように、ゆっくりと母は聞いてきた。
「ちょっと待って。……じゃあ、その子から指輪をもらったのね? 本当に?」
少女はうなずいた。
母が驚くわけも十分に理解できる、と思ったのだが、自分の驚きと母の驚きがずれているのはすぐにわかった。
「それじゃあ、その指輪、返さないと」
母の言葉を理解して、少女は首を振った。
違う。
話したいのはそこじゃない。
母は自分が、女の人から代わりの指輪をもらったのだと思っている。
かわいそうな少女を見かねて、そのとき持っていた彼女の指輪を与えたのだと。
でも違うのだ。
あの人の言葉は今になってやっとわかる。
指輪は、ニセモノだったのだ。
母が聞いてくる。
「その指輪、いま、持ってる?」
少女はうなずいた。
あの指輪はポケットの中にまだあった。
戸棚に返すわけにはいかなかったのだ。
なぜって、……返したくてももう、本物の母の指輪はすでに、戸棚の中にあるのだから。
砂場で指輪をなくしたと思っていたのは、自分の勘違いだったのだ。
指輪が見つかったのは、今日の夕方、母と共に家に帰ったときだった。
玄関の扉を開けると母が不意に声をあげた。
「あら」
身を屈めて、玄関に落ちていた何かを拾った。
拾い上げたものを観察する母の指先にあったものを見て、心臓が止まりそうになった。
指輪だ。
銀色の輝きが母の手の中にある。
「どうしてこんなところに……」
頭の中が一瞬真っ白になった後、急にすべてが飲み込めてきた。
公園のどこを探してもなかった。
当然だ。
指輪は公園まで持っていかなかったのだから。
公園では一度も指輪をとり出さなかった。
ポケットにあるのを確認すらしなかった。
失くしたのは公園の中だとばかり思っていたが、指輪はその前からすでになくなっていたのだ。
玄関で靴を履いたとき、何かの弾みで落としたのだろう。
そのとき、母は自分に疑いの目を向けなかった。
不思議そうにしながらも、傷や歪みの有無を確認し、指輪を戸棚の中に戻していた。
少女はほっとしたが、安心の中に、しこりが一つだけ残った。
あの女の人はどこから、指輪を拾い上げたのだろう。
その指輪を、いま、ポケットから出して母に差し出す。
母の目が、驚きで見開かれる。
「これって……」
母が指輪をつまみあげる。
しばらくしげしげと眺めてから、信じられないという声を出す。
母が戸棚にしまった本物の指輪と、何も変わらない。
「同じものを持っていたのかしら……」
言葉ではそう言いつつも、母の声には疑念が多分に詰まっていた。
しかし少女は確信していた。
同じものを持っていたのではない。
あの女の人は、同じ物を作ったのだ。
シンデレラ、という話は少女も知っていた。
舞踏会に行けないはずのかわいそうな少女の元に魔法使いがやってきて、汚れた服を綺麗なドレスに、かぼちゃとネズミを白馬の引く馬車に、魔法で変えてくれる。
きっとあの人も同じだ。
ないはずの指輪を、砂場の砂で形作ってくれたのだ。
指輪はニセモノだ。
だからあの人が与えてくれたのは、指輪じゃない。
明日までもたないその指輪は、母をだましきることは出来ないはずだった。
それでも母が公園まで探しにきたあのとき、もしも指輪がなかったら、自分には母の元に帰る勇気は出なかっただろう。
あの女の人は、そのきっかけをくれたのだ。
そしてあの人は自分が、母に真実を語ることを望んでいた。
自分はそれに、すぐには応えられなかったけれど……。
遠くで壁についた時計が振り子を揺らしていた。
時計は一時間ごとに一度、オルゴールめいたメロディーを鳴らす。
首を傾げる母の向こうで、その針が十二時を指そうとしていた。
少女は手を差し出し、母の目を見つめた。
時計が十二時を指したそのときに、指輪を持っていたかった。
少女の視線に気づき、母が指輪をその手に返す。
指輪をじっと見つめる少女の耳に、時計の音が響いた。
その音の中で、少女の視線を受けながら、指輪は静かに変わっていった。
少女の肌に触れた部分から、リングの先に輝く宝石へと砂への変化が昇っていく。
砂をまとめ、色まで変化させていた力がほどけ、リングは少女の手に飲み込まれるようにその形を失った。
指輪は細かな粒子に変わり、少女の小さな手の中に残ったのは、一掴みもないわずかな灰色の砂だった。