プロローグ②
勇気を振り絞り命を断とうと渾身の力を込めた手が動かない。
あまりの緊張から鈍くなっていた手の感覚が何か柔らかく暖かい感触を捉える。
よもや触手に縛られ自死を阻まれたかと少女が恐る恐る目を見開くと。
黒髪の若い女が少女の手を掴んで立ち、薄い唇を開く。
「もし宗教観や死生観から自死を選ばれるというならば次は止めません。ですが、『モンスターに殺されるくらいならば自死を』と言うのであればご安心を。この場は私が引き受けますので」
「え? あ、へ?」状況を飲み込めず口が回らない。
「申し遅れました。私は四季朔夜と申します。四季家現当主を務め、現在は探索者をしております。お見知りおきを」
涼やかな声で呑気に自己紹介を始めた、四季朔夜と名乗る女をまじまじと見つめる。
小さな顔の鋭く切れ長の目が印象強く、体躯はスラリと長身で、腰まで伸びる黒髪を白いリボンで後ろに纏めている。
白の道着に金糸で藤の花が刺繍された黒い袴を身に着け、腰には黒鞘の刀を佩き、右手には骨? で作られた片刃の剣が握られていた。
まだあどけなさが残る顔つきと風体は10代後半といったところか。
呆然と急に現れた相手を見つめた後で、少女は正気に戻る。
「危険です! 逃げてください、触手に襲われてて……襲われ、あれ?」
そうだ。
私は何で呑気にこの人と話していられるのだろう?
キョロキョロと周囲を確認すると、斬り落とされた触手がのたうち回っていた。
四季が口を開く。
「ご安心を。声をかける前に斬っておきましたので」
「これ、すごく硬くて」少女が震える手で触手を指さす。
「硬い、ですか?」
これの何が硬いのだろうと小首を傾げた四季が、おもむろに少女の胸倉を掴むと自分の後ろに投げ捨てる。
そして宙を舞う少女は愕然とした。
先ほどまで少女がいた場所の地面から3本の触手が槍のように突き出す。
まさか避けられるとは考えていなかったのだろう、終点守護の瞳が剣を握る女を標的に据える。
しかし、殺気を向けられる側の四季は、と言えば。
むしろ殺気が心地いいと言わんばかりに地面を右足で2度踏みしめ「さっさと攻撃してこい」と挑発する。
「ガアアアァァアッガアアア!!!!」巨大な口から衝撃を伴う怒りの咆哮が響く。
咆哮から数瞬遅れて四季の足元からも触手が現れるが、舞うような軽やかな動きで回避しつつ、いとも容易く全て斬り払う。
「奥の鰐さんが本体でこの触手で攻撃してるってところですか」チラリと少女の方へ目をやる。「すぐに終わらせますので暫しお待ちを」
言い終えると四季は斬ったばかりの触手を持ち上げ、切り口から流れ出る紫色のモンスターの血を、おもむろに頭から浴び始めた。
「ひぃっ!!」少女が思わず悲鳴を上げる。
異様な光景だった。
美少女と言って差し支えない女が、濁った紫色の液体を体の隅々にまで余すところなく浴びていく。
モンスターがそんな隙を見逃すはずもなく、地中からは続々と触手が攻め寄せる。
だが、まるで触手がどこから来るのか分かるかのように避けながら斬り、噴き出した血を嬉々としてその身で受けるではないか。
血を浴び身を清める儀式だとでも言うように続けられた行為は「はあぁ」と四季が恍惚の表情を浮かべ息を吐くと共に終わりを告げる。
少女は探索者としての経験が浅いながらも『何かが起きる』と固唾を飲んで女の背を見つめていた。にもかかわらず、四季朔夜の姿は少女の眼前から消失する。
「え?」何が起きたのか少女が知るすべはなく結果だけが眼前に提示された。
巨大な鰐の上半身が縦一線、真っ二つに斬り割かれそれでも死なず暴れ狂っていた。
「これで死にませんか。手ごたえもありませんね」足の筋力を限界まで強化し全速力を持って放った迅速の一太刀で絶命しない敵を観察する。
噴水のように噴き出す血を浴びつつ敵が隠そうとしていた気配の元を見つける。「なるほどこちらは囮で下半身が本体ですか」言い終えるや後ろに飛ぶ四季の眼前に、地中から本体が文字通り顔を出す。
地中から出て来たのは烏賊を思わせる無数の触手の足を持った下半身。
触手に守られるようにして中心には人面に似た不気味な顔が怒りを浮かべていた。
鰐の部分も含めれば8メートルはあろうかと言うモンスターが全容を表す。
怒りに打ち震える終点守護など災厄に近い存在だが。
四季朔夜は姿を現した本体を前に喜びから綻んでしまう。
カーニバル中の終点守護、この気迫と言ったら胸が高鳴ってしまいます。
クロエが「ボクの感が外れたことあるかい? きっと大きなカーニバルだよ!」などとのたまっていたのを茶化してしましましたが。
これは後で洋菓子派の彼女に、お団子でも買ってあげねばなりませんね。
喜びを露わにするように右手に持った片刃の剣をぽいと捨てる。
クロエが表層のモンスターで錬成した粗悪品ではこの方の命を奪うには失礼ですから。
腰に佩いた家宝の名刀『流転☆キラ☆キラ☆彡』を抜く。
先日の打ち直しにより改名した愛刀の名前を思い出しげんなりするも、粗悪品とは異なり手になじむ柄巻きの感触が心地いい。
クロエも毎回これくらい趣向を大事にしてくれればいいのですが。
目の前の敵から行動の起こり、攻撃に転じようとする意志の間を感じる。
敵さんも本気を出してきましたね。先の一手、手ごたえがなかったと思ったら、まさかそっちも触手だとは。
真っ二つになっていた上半身が解け、無数の触手に別れバラバラに蠢きだす。
終点守護は数千に及ぶ触手全てに膨大な魔力を惜しげもなく注ぎ込み、目の前の矮小な異物を殺すためだけに動員する。
嬲らず遊ばず驕らずにただ確実に殺すと決定を下した。
上下左右地中、全ての面を覆うように四季へ襲い掛かる触手は、これまでよりも早く強靭であったが四季はそれでも難なく避けて見せる。しかし、違和感がぬぐえない。
終点守護ほどの魔力保持者ならばアビリティなりスキルなりを行使できるはず。必殺の一撃足りえるそれがきていない以上、この攻撃はブラフでしかないと。
そしてその瞬間がくる。
頭上と背後から迫る触手を避けた時だった。
避けた先、何もない空間が捻じれそこから触手が現れると四季の大腿部を貫く。
咄嗟に刺さった触手を斬ると、追撃の触手をいなし防御しながら転がり、地中からの攻撃を回避する。
大腿部を通る太い血管が傷つけられ血が溢れ出すのを尻目に、四季は敵の狙いを悟る。
こちらの回避行動の後、無防備な瞬間を狙い撃っての空間を超越しての奇襲ですか。素晴らしい! 多用してこないことを考えると魔力消費が多いのでしょうね。いくらダンジョンとはいえ空間と空間を捻じ曲げて繋げるのは、事象改変にもほどがありますから。
だからこそ、急いて急所を狙うのではなく、足を狙って動きを鈍らせた後、弱るのを待ち動けなくなったところを殺すのが狙い。
お見事。しかし、もう少し戦っていたかったですがそれも叶いませんか。
傷口からの出血量を見て意を決する。
次で終わらせましょう。
終点守護は動きを止めた異物を観察し勝ちを確信した。機動力を削ぎこのままじっくりと逃がさず攻めて行けば勝てるのだ、過信でも無ければ驕りでもない。
ただ失策があったとすれば、異物が規格外だっただけのこと。
四季が構えを解き棒立ちにも似た姿勢を取る。
肉体や刀を強化する魔力すら全て解除した今、裸一貫と言える無防備な状態だった。
敵は四季の行動に生きるのを諦めたと見るも警戒を解かず、むしろ全力での攻撃を選択する。
四季の頭上、目視出来ない死角の空間を歪めると最も強靭な鋭い触手を最大速度で解き放った。
0.1秒にも満たない間に四季の頭頂部へ迫った触手が、彼女の髪を数本削った時勝負が決まる。
『四季流剣術 秋の勢 月代遠雷』
江戸時代の御前試合において間合いで勝る長物相手に、刀で挑み必勝を得るために生み出された先の先を攻める術理。
攻撃に移る動作、視線、気配を削ぎ落した四季家最速の一手。
もちろん、ただの人間が繰り出す技であれば、強大なモンスターには通用しない。
しかし、祖先が編み出し脈々と受け継がれてきた術理に、彼女のアビリティ【家伝具想】が合わされば。
その一刀は因果律を逆転させ敵を斬ったという結果を先に生み出す、絶対の先手を約束する一閃と化す。
終点守護は自身の体内に厳重に隠していた、心臓部たる魔石のみが斬られ命を絶たれたのだと悟る。
魔力の供給が無くなり、動かせず崩れ去っていくのみの体を眺めながら、どうして負けたのが自分なのか、一切の理由を知ること敵わず死んでいった。
あっけなくついてしまった勝負の結果。
四季は現実世界では絶対にありえないファンタジーな攻撃に、未だに慣れないなと息を吐く。絶命し倒れ伏した終点守護が、魔力を失い粉々に砕け散る様へ残心を続けながら考える。
先ほどの技は燃費が悪いですね。
終点守護が持つ最高純度の血をあれだけ浴び、あまつさえ大きな血だまりの上を選んだというのに血の全てを使い切ってやっと。
もし敵が複数なら確実に負ける状況ですが、もともとが一対一での戦闘を前提とした技なので詮無きことですかね。
刀を振って鞘に戻すと先ほど投げ捨てた剣を拾い直し奥を見る。
この大物がいなくなったからには奥のモンスターの群れが行動を再開するでしょう。
そうなる前に後ろのお嬢さんを逃がしてしまわねば。
後ろを振り返りつつ言葉をかける。
「お怪我などは大丈夫ですか?」
「平気さ。どこかの猪娘があらかた道すじのモンスターを片してくれていたからね」
聞き慣れたくもないのに聞き慣れてしまった声の主。
フランス人形を思わせる丹精な顔に嫌な笑みを浮かべた女が立っていた。
「先ほどのお嬢さんはどこへ?」
「君の変態的行為に泣きながら逃げて行ったよ。安心したまえ、護衛用の人形は付けたさ」
「変態的行為ではありません。戦うために必要な行為なんです!」
「モンスターの血を浴びて性的興奮を得るのが変態的じゃないと? これは驚きだ」
勝ち誇った顔を浮かべたドヤ姿にはもう慣れたものです。
1つだけ誤解のないように言わせて頂ければ、性的……気分が高揚するのはモンスターの血の副作用であって私がみだらな女であるとか、そういったものでは決してなくてですね。
はぁ、まあいいです。
嫌味が人間の形をしている彼女に口で勝つにはまだ足りません。
いつかは口でもやり込めてやりますよ、と睨みつけると小瓶を投げてきます。
「君にそれほどの傷か。大物だな」
小瓶の中身の液体を足の傷にかけつつ「魔石だけでなく素材も落ちればいいのですが」と答える合間にみるみる傷口が塞がり元通りになる。
「ぱっと見ただけでも純度の高い魔石だ。今使った上級の回復薬を鑑みても十分以上に利益はでるさ」
小瓶を投げ返し前方を指さします。
「私はこのままあの集団を片付けて下に降りようと思います」
「終点守護も片付けたことだしそれがいいだろう。ボクは魔石と素材を漁りつつゆっくり君の後を追うとしよう」言うが早いか終点守護の死骸へ向かう。
さて、私も働かねば。
モンスターの集団へ足を進めつつ、先ほどの少女の事を思い出す。
せっかく助けて差し上げたのに。
何も告げずに逃げ帰ってしまわれるとは。
……いくら鈍い私でもそれは些か、傷つくのですが。
剣の重みがいつもより増したような、意味のない錯覚を感じつつ。
自分が彼女と同じ弱かった頃。
探索者の道を選んだ最初の頃を思い出していました。