プロローグ①
最高の一日になるはずだったのに。
「走れ! 逃げるん……っく!」背後から響く兄の撤退命令が苦悶で消される。
「舞奈振り向いてないで走んなさい!」兄を心配することも許されず背を叩かれる。「来渡に回復かけるから誠二とアグリはカバー!」
「俺はいいからフォーメーションを崩すな!」
「バカ! あんたが居なくてどう切り抜けるのよ!」
後方から数多のモンスターが津波のように押し寄せ彼らを飲み込もうとする。
弱くないはずだった。
兄も兄のパーティーの皆も十分な経験を積んでいる。
その彼らが難度ランクEの、下から2番目のダンジョン上層で壊滅の危機に瀕している。
「どうしてこんな次元深度の低い場所でカーニバルなんか」
「異層へ招かれるよりはましでしょ!」
「アグリ右だ!」
「『いと閃光の彼方に煌く宝剣よ降り注げ シャイニングフラッシュ』」
彼らの隙をつこうと右方へ展開していたモンスターの小集団。
フォーメーション中央の女は焦る心を必死に抑え、求められる仕事をこなす。
煌く魔力で精製された光の剣が嵐のようにモンスターの集団を襲い串刺しにした。
殿を務める男は自分のパーティーが死んでいないことを確信する。
これまでの経験が、仲間たちとの絆が、この状況での集団戦を可能としていると。
右翼を捌く器用な男、左翼を守る強気な女、中央で全体を牽制する知的な女、そして最後尾を引き受ける自分自身。
ふと、視線を最前へ向ければ小柄な少女が必死に走っている。
そういえば小さな頃から妹は泣きながら走る癖があったなと、この状況ですら笑みが浮かぶ。
いける。あと3階上がれば表層になる。表層ならどれだけの数が居ようが捌き切れるはずだ!
「皆、踏ん張れ! あとたっt——」
婚約者の激励が途切れたことに胸騒ぎを覚え、強気な女が後ろを振り返る。
視線の先には黄色の粘液の塊に包み込まれた最後尾を守る婚約者の姿。
スライムと呼称される強酸性のモンスターに飲み込まれ、男の皮膚は所々溶け落ちピンク色の綺麗な筋組織が顔を覗かせていた。
「イヤァ!! 来渡ぉ!」
悲痛な叫びと共に女は咄嗟に走るの止め愚策にも男へ駆け寄ってしまう。
「英梨さん戻って!」中央の女が叫ぶ。
「僕がカバーするからアグリは広範囲魔法の準備を頼む」
「はい」
以心伝心、言葉少なくやるべきことを仲間たちはこなしていく。
追いすがるモンスターの群れは先頭をひた走る1人を除いて、立ち止まった探索者たちを飲み込もうと怒涛の勢いをさらに増す。
恐怖が無いと言えば嘘になる。
けど、僕がここまでこられたのは来渡たちのおかげだ。
今までも、そしてこれからも僕たちは一緒でいなきゃいけない!
耐えがたいイジメの地獄から救ってくれた旧友。
器用な男が腰に下げた矢筒から緑色の結晶体が鏃に込められた一本の矢を引き抜く。
自分たちを貶めようとする敵に対して、しかし彼の手は震えることはなく矢を放つ。
【サウザンド・F】
器用な男の放った矢は彼のスキルと、鏃の魔導石により超常の力を発揮する。
魔力を込め放たれた矢は、1本が2本に、2本が4本にと凄まじい速度で分裂し降り注ぐ矢の結界と化した。
強気な女を慈しむように張られた矢の結界は、無謀にも突貫してくるモンスターへ一切の慈悲を与えず射殺していく。
最硬度を誇るモンスターすら貫く矢の結界にモンスターたちは攻めあぐね足を止める。
そこへ待っていましたとばかりに、追いうちの魔法が放たれた。
「『根源の赤、原初の光にして人の世の灯よ具現せよ レッドバースト』」
矢の結界の後方で攻めあぐねていた集団の頭上に小さな太陽が具現する。
太陽はモンスターが見上げる暇も与えず、目を蒸発させ、体を炭化し、命を瞬く間に奪い去った。
モンスターの第一陣たる集団を何とか食い止めることに成功する。
「エ、エィリ」スライムから脱した男が焼け爛れた喉で愛する女の名前を呼ぶ。
「黙ってて平気だから! すぐ回復するからね」零れる涙で歪む世界で女は回復術を想い人へ行使していく。「『我はエイドフの子にして遍く命に首を垂れし生の僕 キュア』」
焼け爛れた男の皮膚や呼吸器が、時間が巻き戻るかのように元の姿へ戻っていく。
「英梨! 僕が後ろに立つから君は来渡を連れて中央へ」
器用な男が2人に駆け寄り後方の警戒を引き受ける。
最前線のモンスターを片付けはしたが、奥から続々とモンスターの波が迫って来るためだ。
これはモンスターカーニバル。
次元深度の揺らぎで発生する、ダンジョンにおいて2番目に最悪な事態。
本来ならあり得ない数のモンスターが生み出され、ダンジョン内部を駆け抜ける悪夢の祭り。
しかし、器用な男の警戒をよそにモンスターたちは離れた場所で彼らへ吠えるのみ。時折ゴブリンなどが石や手斧を投げて来るが届くはずも無く地面に落ちる。
先ほどのスキルと魔法での広範囲攻撃で恐れおののいているのか? だとしたら好都合じゃないか。さっきのは切り札だ、僕もアグリももうあれほどの規模の攻撃を仕掛けることは出来ない。
状況を整理しようと器用な男が後ろを確認する。
「ほら来渡、早く立ちなさいよ」
「すまない。手間をかけた」
回復されたとはいえ強酸で全身を焼き溶かされた苦痛は男を疲弊させていた。
手を貸し起き上がらせると、強気な女は慈しむように婚約者の髪を撫でる。
器用な男は届かぬ憧憬の人への思いを胸に、それでも彼女が笑顔ならと微笑む。
青春とも取れる一幕だがここはダンジョン。
広範囲魔法を放ち一時的な極度の魔力消耗に襲われ、激痛と疲労に苛まれる知的な女から声が上がる。
「仲睦まじいのはいいですが、お早く! 逃げるなら今しかないのですよ」
苛立ちが含まれる声も詮無きことだろう、知的な女は魔力欠乏から肉体強化すら危うい状況。魔法を主な攻撃手段にする彼女にとって、魔力の乏しい今は最も弱っているタイミングなのだから。
「アグリさん」
不意に後ろから声をかけられ心臓が跳ねる。
「ひっ!? ま、舞奈さん? どうして逃げていないのですか?!」
振り返ると先に走らせていたはずの友人の妹が怯えながら立っているではないか。
「凄い音がして、英梨さんの悲鳴が聞こえて、怖くてその」怯えながら呟く。
「あなたはわたしたちほど肉体強化が出来ず足が遅いんです。先に行って下さらないとわたしたちが……いいえ、ごめんなさい」
知的な女は非難めいた自分の言葉を途中で止め瞳を潤ます少女の頭を撫でる。
「心配するのは当然ですね。大丈夫です、わたしたちは強いんですから」
端正な女の頭を撫でる手の暖かさで、少女は一瞬だけ恐怖から解放される。
そっか、大丈夫、なんだよね?
私たち皆、帰れるんだもんね。
少女が控えめな胸を撫でおろし笑みを返そうとした瞬間だった。
地面が揺れたかと思ったその時、轟音を上げ地中から巨大な物体が姿を現す。
知的な女が少女を庇うように杖を構えつつ後ろを見ると。
「だめ……ダメ!」意味のない否定の言葉が知的な女の口から零れ落ちる。
視線の先、先ほどまで仲間たちがいた場所。
そこには巨大な鰐と形容できるモンスターが上半身を地中から露わにし、大きく開かれた地獄の谷のような口を空中へ向け拡げていた。
モンスターの口のよりも更に上には、3人の哀れな餌が浮かんでいる。
3人は足元からの奇襲じみた体当たりが直撃し、まるでクラゲのように宙を揺蕩っていた。
混濁する意識の中でリーダーの男は戸惑いを隠せない。
全身が痛い、視界が歪むなんだこれは、俺は何をされた?
少しでも情報をと軋む首を曲げ視野を広げると。
上半身が圧壊し纏っている装備でしか人物の判定が出来なくなった肉塊が目に映る。
英、梨?
嘘だ、嘘だぁ!!
そんなことあり得ない!!
男が千切れて無くなった左腕を懸命に婚約者だったモノに伸ばすが、例え彼の腕があったとしても届くことは無かっただろう。
モンスターは空中に放り投げたポップコーンでも食べるような気軽さで、3人の探索者を丸呑みにした。
これだったのね、これが他のモンスターたちが私たちを襲うのを躊躇した理由。
あり得ない、カーニバルとは言え終点守護が、終点の置物風情がこんなところにまで上がって来るなんて。
仲間の死を受け入れる以前に、居てはいけない存在がここにいる事実が知的な女の脳を停止させる。
が、そんな無防備な時間は少女の悲鳴で幕を閉じる。
「おにいちゃぁあんんん!!」
絶叫する少女が無謀にも駈け出そうとするのを必死に押さえつける。
「止めないで! お兄ちゃんが——」言いかけるも頬を叩かれる。
「現実を見なさい!」女は揺るがぬ瞳で言う。「逃げます!」
泣きじゃくる少女を脇に抱え、今できる限界まで肉体を強化し女は駆けだす。
終点守護とは言え表層へは上がって来られない。それはダンジョンの絶対ルール。あと3階、何としてでも逃げ切って見せる!
来渡さん、英梨さん、誠二さん、ごめんなさい。
絶対に仇は打ちますから!!
いつか必ずあいつを殺してみせる、今は無理でも必ず殺す!
だから今は引こう。
この子だけでも守り切って。
魔力欠乏で全身を激痛が襲うのを厭わず、魔力を絞り出し肉体を更に強化。
少女を抱えてなお速度を増す脚力で敵との距離を着実に開いていく。
上の階層に昇るための階段まであと少し。
あと少しで、というところで。
強い衝撃が知的な女の豊かな左胸を貫く。
「ぽぉはぁ」血を大量に含んだ空気が強制的に吐き出される。
何が起きたのか、女が胸に手を当てると粘性がまとわりつく太い触手が、胸に突き刺さっているではないか。
戸惑う頭とは裏腹に訓練を積んだ体は腰の短剣を引き抜くと、胸に刺さる触手に刃を立てる。
しかし、膨大な魔力で強化された触手は非常に硬く、表皮を傷つけただけで短剣の刃が零れ切れなくなってしまう。
小さく傷つけた場所から濁った紫色の液体が数滴落ちたのが、彼女の攻撃の戦果だった。
紫色の液体を見て女は状況理解に努める。
モンスターの血? つまりこれはスキルやアビリティじゃなくて終点守護の体の一部なの?
どこから来た攻撃なのかと目線で胸元の触手の出元をたどると、階段の手前の地面から生えていた。
なるほど、鰐の上半身に気を取らせ、地中に隠した下半身の触手で更に奇襲を仕掛けたのね。
来渡さんたちを襲った地中からの奇襲、当然わたしにも来るだろうと予測して防御力を極限まで高めていたのに。これほど、これほどまでに容易く貫かれてしまうものなのね。
聡い女は絶望的な敵との力量差を鋭敏に察し、瞳から生きようとする光が消える。
「こいつ! 離して!」
足元では必死に触手を掴み引き離そうとしている少女。
知的な女は『何を頑張っているのだろう』とその姿を冷めた目で眺める。新人探索者であの少女には彼我の実力差が分かっていないのだ、と。
早く逃げればいいのに、どうせ掴まって貴女も死ぬだろうけど。
生きることを諦めた女の手から杖が落ちる。
肺を傷つけられ呼吸困難になりながら朦朧とする女を、触手は縛り上げるように何重にも巻いていきギリギリと締めあげながら口へ運ぶ。
触手は骨が折れる音を響かせ、内臓が潰れる感覚に苦悩の声を上げる哀れな獲物を口の上へ掲げる。
そして雑巾でも絞るかのように女の体をねじ切ると、噴き出す血や臓物を喉を鳴らして楽しんだ。
「なに、これ……もうやだぁ」
地面にへたり込み震えることしかできなくなった少女の眼の前で、流れ出るものが無くなった女の残骸が巨大な口の中へ投棄される。
終点守護は次の獲物と言わんばかりに少女の方を見た。
死ぬんだ。
私もお兄ちゃんたちみたいに。
嫌だ、あんな死に方したくない!
カチカチを歯を鳴らし怯える少女の周囲には、成人男性の腕ほどの太さの触手が無数に生え、ユラユラと揺れ動き獲物を狙っている。
少女は知的な女の落とした杖を拾い上げ、刺突用に加工された杖の先を白く細い喉に当てる。真っ赤な血がつーっと流れ出し官能的に少女の体を伝っていく。
死のう、こんな奴に殺されるくらいなら自分で死んだ方がましだ。
「お兄ちゃん、勇気を貸して」
恐怖から涎と鼻水で可憐な顔を崩し、嗚咽混じりの声で今は亡き兄へ問いかけると。
少女は目を強く閉じ、震える手で杖を喉へ突き立て命を絶った。
……はずだった。