17.鴉の反抗
久しぶりに戻った気がするハミルトン邸。馬車から降りるのに差し出された手を取ると、そのまま逃げられないようにと握られた。手を繋いで歩くのは初めてだ。
想っていたよりも嬉しいものだとサティアは小さく口元を緩ませた。
「おかえりなさいませ」
クラリスが待ちわびていた様子で夫婦を迎える。手を繋いでいるのを見られた事が少々恥ずかしいが、ギルバートは手を離す気は無いらしい。一晩実家に泊まらせたが、一晩中どれだけギルバートがサティアを大切に想っているかを聞かされたせいか、振りほどく気にはなれなかった。
「奥様がお待ちです」
クラリスがそう言うと、談話室へと促される。大丈夫だから任せてくれと馬車の中で言われたばかりだが、何を言われるか分かったものではない。
「随分とあっさり戻ったわね」
これから謝罪されると思っているヘレナは、優雅に紅茶を飲みながらソファーに沈み込んでいる。今日も豪奢なドレスに身を包み、濃い化粧を施して、自信たっぷりに微笑んだ。
「母上、お話があります」
「何かしら」
「この屋敷から出て行ってもらいたい」
何を言われたのか分からないのか、ヘレナはきょとんとした顔でギルバートを見つめる。そして意味を理解したのか、白粉で整えられた肌が真っ赤に染まった。
「何を、言っているのかしら?私はこの屋敷の主よ」
「ここは父上の屋敷です。主は母上ではない」
「母親に向かって何を…妻に頭を下げさせるために迎えに行ったのではないの?」
怒りで顔を赤くしていても、口調は落ち着いたもので、それが少々不気味だ。
「サティアを迎えに行ったのは、この屋敷で共に暮らす為です。私は母上よりもサティアを取る」
「ずっと放っておいたくせに今更何を言っているのかしら?」
「それはサティアに詫びました。全てを許してくれたとは思っていませんが、これから先認めてもらえるように努力することは出来る」
隣で黙ったままのサティアの肩を抱き寄せ、ギルバートは真直ぐにヘレナを睨みつけた。
「おやおや、待っているよう書いた筈だが、待ても出来んのかお前は」
呑気そうな声がすると、ヘレナの顔は苦々しく歪む。白髪が混ざり始めた黒髪をオールバックに纏めた長身の男性が、ヘレナの向かい側の席に腰かけた。ハミルトン家現当主、アーサーだ。
「おかえりなさいませ、父上」
「ああ。ヘレナ、話は聞いた。少々遊びが過ぎたな」
「何ですの、知らせもなく突然お戻りになるなんて」
「知らせを出したら逃げるだろう」
ぷいと顔を背け、さっさとこの場から逃げたいのか立ち上がるが、出口は既にクラリスが塞いでいる。思い切り睨みつけるが、クラリスは動こうともしないし、怯みもしない。出られない事を悟ったのか、悔しそうにもう一度ソファーに腰を下ろし、不貞腐れた顔で窓の外を睨んだ。
「ほら、今帰ったばかりだろう。お前は良いかもしれんが、サティアは座らせてやりなさい」
小さくすまないと詫びながら、ギルバートはアーサーの隣の席にサティアを座らせ、自身も隣に腰かけた。
三人から責められるような恰好になっていると気付いたのか、ヘレナは更に不貞腐れる。
「さて。話は粗方聞いている。使用人相手に随分と乱暴な態度を取っているようだね」
「粗相をするからですわ」
「粗相をしたとして、カップを投げたり段差に向けて突き飛ばすのはやりすぎだろう。それに重たい本まで投げたそうじゃないか。当たり所が悪ければ大怪我をするところだ」
そんなことまでしていたのかと、サティアは眉間に皺を寄せた。人に向けて何かを投げる行為は、サティアには信じられない。
「それから、息子夫婦の事に口を出すのはやめなさい。もう子供じゃないんだから」
「孫を楽しみにしていて何が悪いのです?」
「それが駄目だと言うんだ。二人には二人の考えとタイミングがある。私たちは黙って見守っていれば良いんだよ」
お前も嫌だったんだろう?と諭すが、ヘレナはまだそっぽを向いたままだ。叱られた子供が不貞腐れているようで、サティアはヘレナが可哀想に思えてきた。誰もこの人を叱ったりしなかったのだろうか。子供の頃から甘やかされていたのか、美貌を持て囃されている間に歪んでしまったのか。
「私の事を嫌っているのはもうこの際諦める。三人も息子を産んでくれただけで十分だ。愛してもらえなくても良い。だが、良くない遊びを覚えたのは宜しくないな?」
良くない遊びという言葉に、ヘレナが僅かに反応する。聞いても教えてくれなかった遊びは、良くないものだったのかとサティアは納得する。だから教えてくれなかったのかと。
「金持ちのご婦人相手に商売をしている店に入り浸っているようだな。夫のいる身で行く店ではない事は、分かっているな?」
「お友達とお酒を嗜みに行っているだけですわ」
「表向きはそうだろうな。だが、あそこは若い男と遊ぶ店だろう」
詳しい事は言葉を濁されているが、金を積んで若い男と「そういうこと」をして遊ぶ店らしい。酒を飲んで気分が良くなったところで、店の男が売り込みに来るのだ。
ヘレナは酒を飲んでいただけで、男は断っていたと何度も繰り返すが、アーサーはそこはどうでも良いようだ。侯爵夫人がいかがわしい店に出入りしていたという事実だけを責める。勿論内心傷付いているだろうし、怒っているだろうが、今のアーサーは息子と同じ真っ黒な瞳で妻を見据えた。
「王都に置いておくとお前は羽目を外しすぎるようだ。ハミルトン家の名を汚す前に選びなさい。夏の避暑用の別荘に行くか、私と共に領地に戻るか」
避暑地と言えば響きは良いが、森と湖に囲まれた田舎の屋敷。周りに遊べるような場所は無いし、夏以外周辺の屋敷は誰も住んでいない。それに比べて領地は栄えているし、王都程ではないが遊ぶ場所もある。ただ一つ、大嫌いな夫と一緒に生活する以外は、快適に暮らせる筈だ。
「私はこの屋敷に留まります」
「それは許さない。二つに一つだ」
再び顔を真っ赤にして、ヘレナはアーサーを睨みつける。握りしめた拳は怒りで震え、噛み締めた唇からは血が滲み始めていた。
「お前が来てから良くない事ばかりだわ」
そう言いながら、ヘレナは冷めたカップをサティアに向かって投げつける。固く目を閉じ、痛みを覚悟したが、いつまでも痛みは襲ってこない。咄嗟にギルバートが払いのけたらしく、着ていたドレスが濡れただけで済んだ。
「大丈夫か」
「ギルバート様は」
「なんともない。母上、サティアは何もしていないではないですか。八つ当たりも大概にしていただきたい」
どうして、この人はこうも簡単に人に向かって物を投げつけられるのだろう。もし当たり所が悪ければ。それが割れてしまったら。そんな簡単な事も考えられないだなんて。そう思うと、サティアはふつふつと腹の奥底が熱くなる。
「もう良いわ。こんな子さっさとポーター家に返してしまえば良いのよ。可愛くないわね」
「サティアを望んだのは母上でしょう。色素の薄い血だけを目当てにしたくせに、今更何を?それに私はサティア以外を妻にするつもりはありません」
また何か飛んでくることを警戒しているのだろう。サティアを庇うようにしながら、ギルバートは母親に噛みついた。普段落ち着いた声で話すくせに、今はこんなにも怒りに震えた声をしているのね、なんてぼんやり考えながら、吐き出しようのなくなった怒りを大きく息を吐いてやり過ごした。
「選んでください。父上と共に領地にお戻りになるか、お一人で別荘に行かれるか。選ばないのなら私がサティアを連れて出ていきます」
それは流石に困る。そう言いたげなアーサーの視線を感じるが、ギルバートは母親から目を離さない。暫くの間無言が続いたが、漸くヘレナが口を開いた。
「この人と共になんて絶対に嫌よ」
「では別荘に。父上、あとの話は夫婦でしてください」
じろりとアーサーの事も睨みつけて、ギルバートは優しくサティアの手を引いた。結局殆ど何も喋る事が出来なかったが、守ってもらえた嬉しさの方が勝った。
きっと、この人なら一緒に歩んでいける。そう胸の中で思いながら、サティアは大人しく手を引かれ続けるのだった。




