16.5鴉は執念深い
ギルバートは目の前に積まれた大量の書類を前に、一瞬だけ眉間に皺を寄せる。朝からもうどれだけの仕事をこなしただろう。どれだけ片付けても、次から次へと積み直される紙の束を見るのも嫌になってきた。そろそろこれを燃やしてしまおうかとも思ったが、それでは無駄に時間をかけるだけなので、大人しく仕事を続けることにする。
どうにか片付けなければ、妻との休日は過ごせない。ここ暫くのギルバートは、妻と過ごす休日を楽しみにしているのだ。
そろそろ一緒に過ごすのが当たり前になってきたし、何処か外出にでも連れ出そうか。アランが言っていたパティスリーとやらに連れて行ってみようか、それとも何かアクセサリーでも買ってやろうか。あれは何も強請ってこないからなと口元を少し緩ませ、年下の可愛らしい妻が喜びそうな事をあれこれ考えながら、かりかりとペンを動かした。
「お忙しい中失礼いたします」
「何だ騒々しい」
息を切らして執務室に飛び込んできたのは、幼い頃からの顔馴染み。ぜいぜいと苦しそうにしているが、何故サティア付の侍女が此処に一人で来ているのかと疑問に思う。
「サティア様が屋敷を出て行かれました」
「はぁ?」
◆◆◆
馬を飛ばしてきたと言うクラリスに水を飲ませ、何があったのか詳しく聞いた。付き合う相手を考えろと言われたから出て行ったと言うが、それはヘレナではなく友人を取るということかと理解した。だが、夫の帰りを待つこともなく出ていくとは何事か。最近少しずつではあったが、歩み寄っていたはずだ。サティアも休日を楽しみにしてくれていると思っていたし、それなりに笑って会話をしてくれる程度には仲も深まっていると思っていた。それなのにどうして夫に何も言わずに出て行くなんてことになるのだろう。
「何処に…」
「ご実家にお戻りになられるそうです。先程馬車で出て行かれましたので、恐らく到着は夜になるかと」
窓の外は既に夕日が輝いている。馬車に乗って行ったことには安心したが、実家に帰られるのはショックだ。
「早く迎えに行かれませんと」
「いや、母上と揉めて出て行ったのなら、何もなしに帰ってこいと言ってもあれは帰らん」
儚げな見た目をしているくせに、サティアは少々頑固だ。氷の妖精という二つ名は、見た目の儚さから来ていると思っていたが、怒った時のあの冷たい視線から来ているのではないかと思っている。
「あの屋敷の主は母上のようなもの。母上がいる屋敷に戻る程、サティアは大人しくないだろう」
「ではどうされるのですか?ギルバート様次第で離縁でも構わないと仰せでした」
「何だと」
それは言い過ぎだろう。そんなに軽い存在だったのかと今度こそ頭を抱えるが、よく考えればほったらかしにする上、面倒事は全て任せきり、ヘレナの気質を知っている癖に、何も言われないからと見てみぬふりをしていたのだ。見限られても仕方がない。
「クラリス。今は幼馴染として聞いてくれ」
「なんでしょう」
「私は夫としてどうだろうか」
「最悪です」
きっぱりと言い切るクラリスは、今更何を言っているのだと冷たい視線を向けてくる。わざわざ聞いて傷を広げるのではなかったと後悔したが、クラリスの言葉は続いた。
「私は結婚式のあの日からしかサティア様を知りませんが、あの式は誰が見ても奥様のお好みです。サティア様はもっとシンプルで、大切な方々だけをお招きした温かいお式をお望みでした」
「そうなのか?」
「…ギルバート様。サティア様のお好みをご存じないのですね」
残念ながら何も知らない。つらつらとサティアの好きなものを並べていくクラリスは、夫よりも侍女の方が詳しいなんて可笑しいと思いませんかとギルバートを睨みつけた。
「サティア様はとてもお優しいお方です。奥様に泣かされた新入りメイドを慰めてやれと、小さな砂糖菓子をこっそり渡してくださるようなお方なのです。そのようなお方を放っておいてばかりで、ここ暫くの間ちょっと構ったくらいで良い夫になれたとでもお思いですか?」
クラリスがサティアを良く言うとは思わなかった。代々ハミルトン家に仕える一族の出身。その忠誠心はハミルトン家に捧げられているせいか、他所から来た者への評価は厳しい筈だ。それがどうしてこんなに褒められているのだろう。ギルバートは不思議に思ったが、クラリスが「貴方が仕事でいない間に屋敷を見ていたのは奥様ではありません」と言い切った。
「どうするのですか。サティア様がお戻りになられませんと、暇を貰うと言い出す使用人がどれだけ出るか」
「…そうだな。サティアがいないと私も困る」
「困るのですか」
「仕方ないだろう。あれは私の妖精なんだから」
大きく吹き出すと、クラリスは肩を大きく震わせて笑い出す。涙目になる程笑い転げると、ギルバートが睨みつけている事に気付いて漸く息を整えた。
「そういえば、昔そんな事を仰っていましたね」
子供の頃、初めてサティアと会った時。あの時ギルバートは妖精に会ったとクラリスに話したのだ。キラキラ輝いて、触れたら何処かに飛んでいってしまうと思う程儚げな女の子。六つ年下で、まだ五歳だったサティアに恋をすることは無かったが、成長する度に美しくなる彼女に会うのが何となく恥ずかしくて、仕事と言い訳をして逃げ続けた。
「八年ぶりに再会したら滅茶苦茶好みに育ってて、あんな可愛い子と夫婦とか考えただけで恥ずかしいとか仰ってましたね」
「言ってないが」
確かに八年ぶりに再会した時は、本当に美人になったと思った。正直好みだし、可愛らしく微笑まれると胸のあたりがぎゅうと苦しくなる。この人が妻なのかと時々再確認する時もあるが、その妻に現在逃げられそうになっているのだ。どうにかして繋ぎ止めなければ。
「母上を追い出す」
「方法はどうされますか」
「元々父上には、夫婦であの屋敷に住みたいから母上を引き取ってほしいと打診はしていた。引き取らないなら家は継がないとでも脅すか」
何やら恐ろしい事を言い出した幼馴染を止めようともせず、クラリスもニヤニヤと口元を緩ませる。敢えて言わないようにしていたが、クラリスはヘレナが嫌いなのだ。王都の屋敷から追い出せるのなら協力しようと、子供の頃一緒に悪戯をしていた時の顔をしてみせた。
「それと、最近母上が良くない遊びを覚えたようだからな。それも父上に報告しなければ」
「ああ、例の…何とかなりそうですわね」
「母上は少々やりすぎたな。妖精に逃げられては困る」
さっさと迎えに行きたいが、この仕事の山はどうしたものか。げんなりと視線を向けると、クラリスはにっこりと微笑んだ。
「眺めていないで、手を動かしてはいかがです?」
ああそうだった。この女はこういうやつだったと頭を抱え、ギルバートは大人しく机に戻る。遅くとも三日後の休日には迎えに行けるよう、今は目の前の山を崩すことに集中しなければ。
「そうだ、父上に手紙を書くから出してくれ。お前は屋敷にいろ。もし万が一サティアから離縁の申し出があれば全力で引き留めろ」
「かしこまりました」
今更と思われても良い。もう遅いと言われるかもしれないが、少しくらい足掻いてみよう。妖精はすぐに逃げてしまうかもしれないが、鴉は執念深い事を分からせてやらなければ。そう決意して、ギルバートは父への手紙を書き始めるのだった。




