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15.羽を伸ばしたい時もあるのです

なんて素晴らしいのだろう。何も気を使わなくて良い。いつ使用人にカップを投げつけられるかなんて事を気にしなくて良い生活。それがこんなに有難いことだなんて。


「全く。急に大荷物を抱えて戻ってくるだなんて…一体何を考えているのかしら」

「良いじゃない。ちょっとした家出よ」


母、シェリルは文句を言うが、それでも追い返さずに家に迎え入れてくれた。

それが昨日の夜の話。詳しい話は起きてからだと部屋に押し込まれたが、今は早く何があったか話せとせっつくような視線が突き刺さる。


「使用人にカップを投げつける人をどう思う?」

「どうかしていると思うわね」


当然の感想。何を言いたいのか分からないと言いたげな顔で、シェリルはサティアの言葉が続くのを待つ。


「機嫌が悪いからと、何も悪くない使用人を怒鳴りつける人なの」

「…それで?」

「いくら使用人でも、相手は人間なのよ。それを忘れて物を投げつけたりするの」

「だから飛び出してきたとでも?」


怒っている。それくらいで何だとでも言いたげな顔で、シェリルはサティアを見据えた。


「私の友人を、友人本人の目の前で貶したの。一番のお友達よ。それに、私の旦那様を鴉と呼んで蔑むの。嫌になるわ」


微妙な顔をしているが、それでも夫を放り出して実家に逃げ帰ってくる事は良くないと言い、気持ちは分かるから何か言ってやりたいというような、何を言えば良いのか分からない顔。


「ギルバート様にはなんと?」

「何も。書置きだけしてきたわ。お母さまに出ていけと言われましたので出ていきますと」


馬鹿娘と小さく毒づいて、シェリルはげんなりと頭を抱える。かつて姑と出て行く行かないで揉めたことなど無い。それなりに良好な関係を築けていただけに、サティアの苦労が分かってやれないのだ。


「どうするつもりなの?離縁でもする気?」

「ギルバート様次第では、そうなるかも」

「何を言っているのこの子は!」


ついに声を荒げたシェリルを気にする事もなく、サティアは優雅にお茶を啜る。王都の屋敷は長男夫婦が越してくる予定だし、あまり長い事居座るわけにもいかない。どこか別荘にでも籠ってしまおうか。それとも領地に引き籠ろうか。呑気にそんな事を考えて、サティアはふとセレスの事を想う。

昨日は気分を悪くして帰っただろう。ティナも相当怒っていたし、もしかしたら嫌われてしまったかもしれない。セレスのことだから、嫌われたということは無いと思うが、それでも暫くは獅子からあまり良い顔はされそうにない。


「全く…良い事。暫くはうちにいると良いわ。でもあまり長い事居座る事は許しません。早い事ギルバート様とよくお話をして、さっさとハミルトン家へ帰りなさい」

「だからそれはギルバート様次第だと…」

「分かったわね!」


ギッと睨みつけられてしまえば、何も言い返せない。大方子供が全員片付いたから、そろそろ家督を長男に譲って夫婦でのんびりしようと思っていたのだろう。

娘が戻ってくるとその計画も台無しだ。それは少々心苦しい。

だが、少しはゆっくり羽を伸ばしたい。まだ納得していないシェリルを宥めながら、サティアはまた紅茶を啜るのだった。


◆◆◆


実家というのは本当に気楽だ。少しくらいならば我儘を言っても笑って許される。今迄どれだけ甘えさせてもらっていたのか実感しながら、存分に甘えさせてもらっている。


「本当居心地が良いわ!義理の母親と同居なんてするものじゃないわね」


ぐいぐいと背筋を伸ばすように伸びをして、サティアは庭を歩く。実家の庭も手入れが行き届いているが、ビルの整えるあの庭には及ばない気がする。

もしかしたらすぐに迎えに来てくれると思っていたギルバートは、まだ迎えに来ない。

もう実家に戻って三日。手紙の一つも、遣いの一人も寄越さない。やっぱり、少し歩み寄ってみようと思ったあの行動は全て無駄だったのだろうかと少々落ち込んだが、すぐに気を取り直す。どうせまた仕事に勤しんでいるのだろう。少しだけ、ちくりと胸が痛んだ気がした。


「お嬢様、そろそろお戻りになられませ」

「そうね、少し寒いわ」

「では温かいお茶を」


気心知れたメイド。穏やかに微笑みかけてくれるのが嬉しい。ハミルトン家のメイドたちは、皆どこか余所余所しいのだ。

普段あまり気にしないようにしていても、やっぱり少し寂しいものがあった。


「サティア」


勢いよく掴まれた肩が痛い。無理に引き寄せられたせいで、視界が不安定で、足元がふらついた。


「お前は…勝手に出て行くな!」

「…ギルバート様?」


ふわりと香るギルバートの香りと温かさから、抱きしめられているのだと理解する。驚きのあまり動くことも出来ず、小さく悲鳴を上げたメイドが顔を赤くしながら口元を手で覆っているのが見えた。


「何故此処に?」

「夫が妻を迎えに来たのがそんなに可笑しいか」


ぎゅうぎゅうときつく抱きしめられるのが苦しい。痛いですと文句を言いながら体を押しのけようとするのだが、長身の男を押しのけられる程サティアは力強くない。

メイドに見られているのが恥ずかしくて堪らないのだが、ギルバートはそれどころではないらしい。


「クラリスから話は聞いた。先程ゴールドスタイン家へ謝罪も済ませてきた」


相変わらず離してもらえないまま、サティアは諦めて大人しく話を聞いてやることにした。少し肌寒かったが、ギルバートの体温で温かい。


「アランは母上に腹を立てているようだが、奥方は笑って許してくれた」

「セレスらしいですわね」

「気にしていないから今度ゆっくり茶をさせてくれと言っていた。快諾してある」


漸く少しだけ体を離したギルバートは、顔色が悪い。どうせまた夜遅くまで仕事をしていたのだろう。眠れていないのか、目の下の隈が酷い事になっていた。これでは本当に鴉のようだと思った。


「母上に何を言われたかも聞いた。聞いたがまさか俺に何も言わずに出ていくとは…」

「だって本当に頭に来たんですもの。私の一番の友人を目の前で貶し、私の夫を蔑むんですのよ?怒っても許されますわ」

「だとしても、俺は捨てられたと思ったぞ」


それは申し訳ないことをした。てっきりさっさと離縁することになるのだろうと覚悟していたが、案外ギルバートにその気はないらしい。どうやらサティアを迎えに行く時間を作るために仕事も無理に片付けていたそうで、迎えに来るのが遅くなったと詫びられた。手紙も遣いも出さなかったのは、それよりもさっさと仕事を片付けて、一刻も早く迎えに行かなければと、それしか考えていなかったからだそうだ。なんとも、不器用なギルバートらしい。


「本当に、頼むから俺に黙って消えないでくれ」

「書置きはしております」

「実家に帰りますだけで消えるなと言っているんだ」


眉間に深く皺を刻み、威圧感たっぷりにサティアを睨みつける。その視線に少しだけ罪悪感を抱いたが、出て行けと言ったのはあの屋敷の主であるヘレナなのだから仕方ないと思った。


「貴方たち、いい加減外ではなくて個室でやったらどうなの?」


呆れたような声で、シェリルが声をかけにくる。母親に見られていたという事に気付いたサティアは、今度こそギルバートを押しのけるのに成功したのだった。


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