9.5獅子と鴉の戯れ
ギルバート視点番外編です。
前作のアランが出しゃばりますが、ちゃんと視点はギルバートです。
読まなくても本編に支障はありません。
黒い髪が風に揺れる。さらさらと流れる黒髪は、実の母親には酷く嫌われた。その理由はよく知らないが、同じ黒を持つ父も弟たちも、鴉と呼ばれて嫌われている。
最近嫁いで来た妻にも。
幼い頃の話をいつまで気にしているのだと言われれば何も言い返せないのだが、鴉は怖いと泣いていた彼女の顔が忘れられなかった。
「だからって仕事に逃げてどうするんです」
呆れた声で部下が言う。金獅子と呼ばれるこの男の様に、金色の髪だったらどうだろう。彼のような色ならば、彼女は私を怖がらなかっただろうか。そんな馬鹿みたいな事を考えて、ギルバートは小さく溜息を吐いた。
「きちんと毎日帰宅しているし、会話も無いわけではない。そもそもお前にとやかく言われる筋合いも無かろう」
じろりと部下を睨みつけたが、金獅子はそれくらいでは怯まない。
彼も最近結婚したばかり。そして子供の頃からの付き合いということで、仕事の合間にくだらない話をしに来るのだ。一応立場上上司と部下なのだが、彼はそれをあまり気にしない。
「新婚なら仕事をさぼってでも早く帰って、妻と一緒の時間を楽しみたいと思わないんですか?」
「さぼれる立場でもないんでな」
本来アランもさぼっていられる立場ではないのだが、新妻を溺愛している彼は仕事よりも妻を優先させた。期日までに仕事を済ませていればギルバートから文句を言う事は無いのだが、事ある毎に惚気を聞かせてくるのはやめてほしい。
「昨日はセレスが庭に出て待っていてくれたんです。彼女の黒髪が夜に溶けていくようでとっても綺麗だった!」
うっとりとどこを見ているのか分からない顔で、アランは自分の妻がどんなに美しいかを歌うように褒め称える。
よくもまあそんなに恥ずかしい事を言えたものだと呆れもするが、それだけ素直に愛を囁けるのなら、彼らの夫婦仲はとても良好なのだろう。それは少し羨ましい気もした。
「それから、これはセレスがくれたんですよ。どうです、可愛らしいでしょう?」
そう言いながら見せてくるのは、赤い薔薇が刺繍されたハンカチ。自慢げにふふんと笑っているが、もう何人にこれを見せたのだろう。きちんと仕事をしているのか疑いたくなるが、アランが妻を溺愛しているのは今に始まったことではない。
婚約前に「人生初めての恋をしたぞ!」と執務室に転がり込んできた時は一発殴ってやろうかと思った。だらだらと続けられた「セレスティア・ハンナ・ダルトン嬢がどれだけ美しく、我が心の光なのか」という話を思い出し、ギルバートは少しだけ頭が痛んだ気がする。
夜の黒髪、新緑の瞳、新雪の肌。わざわざ自然に準えねば話せんのかとイライラしたが、うっとりとした表情のアランは聞いていなかった。
その後も縁談を申し込んだだの、デートをしただの、プレゼントを贈ったりケーキを買って持って行ったが、元婚約者が強すぎると嘆いたり。婚約を受けてもらえた時は締まりのない顔で踊りだしそうな程の機嫌の良さで飛び込んできたものだ。
「お前は幸せそうだな」
「勿論。セレスが妻として隣にいてくれる、家で帰りを待ってくれているというだけで幸せですよ」
満面の笑み。それを部下に見せてやれば良いのにと溜息を吐くが、同じ新婚だというのにこの差は何だろう。
妻を溺愛し、毎日家に帰る事を楽しみに仕事をしているアラン。
妻との仲は微妙、家に帰るよりも仕事をこなしてしまいたいギルバート。
きっとアランは妻と食事を共にし、寝る前はお互いの一日を微笑みながら報告し合い、欠伸を一つ二つして共に眠るのだろう。
ところが自分はどうだ。帰りは遅く、食事は一人でさっさと済ませ、湯浴みをしたら妻が待っている寝室に向かう。ほんの少しだけ会話をして、明日も早いからとさっさと眠る。そんな日々を何とも思わなかったが、もしやこれは、妻にとっては不満なのでは?
初めて妻がどんな思いをしているかという事に意識が向いた。
「で、団長殿は毎日遅くまで職務を全うしておられるが、奥方はどうなされているのかな」
にっこりと微笑んでいるが、これは圧というやつなのだろうか。お互いの妻同士が仲の良い友人であるし、手紙のやり取りなどで何か不満でも書かれていたのだろうか。そんな不安から、ギルバートは素直に吐いた。
「ありえない」
まあそう言われるだろうなと、小さく唸る。アランは心底呆れているのか、可哀想なものを見る目で此方を見ていた。
「しかも夫の母と同じ屋敷に住んでいるのでしょう。珍しい話ではありませんが、いくら仲が良くとも義理の母と同じ家に住むというのは気を遣うものだと聞きます。それを…夫が殆ど家にいない中耐えているのですか」
「耐えるとは何だ」
「そうでしょう。ヘレナ様はどうにも、激しいお方ですし」
気性が荒い事は素直に認める。が、妻はその気性の荒い母とうまくやっていると思っていた。だがもしそれが、自分が見てみぬふりをしているだけだとしたら?
「奥方は氷の妖精でしょう。妖精は嫌気が差せばすぐに消えてしまいますよ」
「…帰る」
「そうしましょう!俺も帰ります!」
とても良い笑顔で執務室を出ていったが、彼は何をしに来たのかふと疑問に思う。わざわざ一応上司の元に説教をしに来たのだろうか。友人として。
◆◆◆
昼間に帰宅するのは慣れない。昔から変わらない、綺麗に整えられた庭。
玄関扉に向かって真っすぐ歩きながら、今更妻に何を話せば良いのか迷い始める。共通の話題は何かあっただろうか。そもそも婚約期間に避け続けてきたのに、今更どういう了見だと怒らせてしまうのではと少し不安になる。どうしたものかと一人うんうん唸っていると、あっという間に扉を潜ってしまった。
サティア様をお呼びいたしますと頭を下げたメイドは、サティアの部屋ではなく、玄関ホールからすぐ傍の部屋へと入っていった。
「何だ、此処にいたか」
「お、お帰りなさいませ」
日当たりの良いサンルーム。刺繍針を取り落としそうになっていたのか慌てていたが、なんとか夫の帰宅を迎えてくれた。
テーブルの上に広げられた裁縫道具と、数枚の布。ハンカチだと理解し、なんとなしに手に取ってみた。
黒い糸であしらわれた、猫が座ったシルエット。可愛らしいなと少し撫でてみると、サティアはじっとこちらを見ていた。
「上手いな」
刺繍の出来を気にしているのかと思い、素直に褒めた。
「猫、お好きですか」
「どうにも嫌われるがな」
少し撫でさせてくれればよいものを、何故かあの毛玉たちはするすると逃げてしまう。
アランや他の部下たちにはすんなり触れさせているのに。
「でしたら、これ差し上げますわ。刺繍の猫なら逃げませんもの」
ハンカチを返そうとしたが、それは叶わない。半分強引に握らされたハンカチをじっと見つめていると、サティアは可愛らしく微笑んで言った。
「妻から夫へのプレゼントですわ。大切にしてくださいますわよね?」
「…ああ、大切にしよう」
「私刺繍が好きですの。でもいくら好きでも、あまり縫っては使い道に困ってしまうのです。ギルバート様へのプレゼントにさせてくださいまし」
私の妻はこんなによく喋る人だっただろうか。
いつも静かに微笑んで、あまり喋らないと思っていたのだが、実際は違ったらしい。
それと、妻からのプレゼントというのは存外嬉しいもののようだ。アランに見せびらかされたハンカチには何も思わなかったが、今は見せびらかしたい気持ちが少しだけ分かった気がする。
「それよりも、お仕事はどうされたのです?」
「午後は休みにした。流石に疲れた」
「一月もお休み無しで働くからですわ。折角ですから夫婦でお茶でもいかがです?」
意外だ。会話は少しだけ出来たし、これくらいで引き揚げようと思ったのだが、サティアの方から誘ってくれるとは。
サティアに椅子を勧められ、メイドにお茶を用意しろと急かす妻を見ながら、ギルバートは大人しく椅子に腰かける。
「…随分と、雰囲気が変わったか?」
「何も変わってなどおりませんわ。私はいつでもこのように」
そんなわけがあるかと軽く睨みつけるが、サティアも負けじと笑顔を張り付けてこちらを見つめてくる。
サファイアブルーの綺麗な瞳。日の光を浴びて輝くプラチナの髪。いつかアランが言っていた、妻が女神のように見えるとはこういう事なのだろうかなんて事を思うと、見ているのが恥ずかしくなって視線を外した。
広い庭。いつから足を向けなくなっただろう。ビルが毎日美しく整えてくれるお気に入りだった場所。
「素敵なお庭ですわね」
「ああ。庭師の腕が良いんだ」
「ビルとはお話しましたわ。とても良いお方でした」
「ビルがお前と話したのか」
あの偏屈な老人が。当主の妻相手にでさえ不躾な態度を取り、息子たちを堂々と叱りつけ、気に入らない人間には口を開くこともしないあの老人が。
そしてサティアはあの偏屈な老人を「良い人」と評価した。
「可笑しなこともあるものだ」
何とか耐えようとしたが、耐えきれずに笑ってしまう。夫が笑う事が珍しいのか、サティアはまじまじとギルバートの顔を見ている。見られていると思うと気恥ずかしいもので、さっさと表情をいつもの仏頂面に戻してしまった。折角穏やかに会話が出来そうな雰囲気だったのに、何をしているのだろう。
「ビルがギルバート様のことを坊ちゃんと呼んでいましたわ。仲が宜しいのですね」
「爺と呼んでよく構ってもらった。仕事をするようになってからはあまり会話もしていないがな」
あの老人は何をどこまで話したのだろう。子供の頃のちょっとした失敗談なんて話していないだろうなと不安になったところで、メイドが二人分の紅茶と茶菓子をテーブルに置く。
「あれは女性には少々粗暴に見えるだろう」
「仕事が出来る方ですもの。良いお方でしたし、私は何も気にしておりませんわ」
「…変わった人だ」
女性には絶対に好かれないであろう庭師を気に入ったようだ。本人の仕事の腕を見て評価しているところに好感を抱いたが、それでもあの老人の粗暴な態度は少々どうにかせねばなと思う。
妻とこんなに穏やかに話したのはいつぶりだっただろうか。きっとこれが初めてだ。子供の頃は婚約者という存在がなんとなく恥ずかしかったし、年ごろになっても婚約者はまだ幼く、当時のギルには疎ましく思えていた。ところがどうだ。八年ぶりに顔を合わせたサティアは美しい令嬢に成長して、今はこうして自分の妻として支えてくれている。そんな彼女を、今まで放置していたのは自分なのだが。
「ギルバート様、お願いがありますの」
「何だ」
「私がこの家に嫁いでから、殆どギルバート様と一緒に過ごしていませんわ」
当然の不満。ぐっと息を詰まらせて、ギルバートは目を閉じた。仕事ばかりで放置している自覚はある。なんなら今日早く帰宅したのは、部下から同じような苦言を呈されたからだ。
「いつもお仕事でお帰りは遅いですし、会話らしい会話は今初めてしている気がいたします」
「…すまん」
「毎日毎日クラリスとお母さまとお話してばかり。私は貴方の妻ですのよ」
サティアの視線が痛い。その綺麗な瞳で睨みつけないでほしいが、今は黙って言葉の続きを待つ他ない。何か宝石やドレスでもねだられるだろうか。それとももっと悪ければ別居か離縁か?と嫌な事ばかりが頭の中をぐるぐると廻った。
「もう少し夫婦の時間が欲しいのです」
「夫婦の、時間」
思わず同じ言葉を繰り返してしまったが、何をすれば良いのかよく分からない。
「そうですわ。婚約期間中も八年も放置され、結婚してからも毎日お仕事お仕事…お母さまが可愛がってくださるのは嬉しいですが、見知らぬ方々ばかりのお茶会もパーティーも疲れてしまいます!」
一気にまくし立てて、サティアはまだギルバートを睨みつける。サティア本人は睨みつけているつもりは無いのだが、少し釣り気味の目で、後ろめたい気分の時に見つめられるとなんだか睨まれているような気がするのだ。
「お疲れのところ責めるような物言いになってしまって申し訳ございません。ただ私は、寂しいだけなのです」
何だ、この人は意外と可愛らしいところがあるんだなと思った。氷の妖精と呼ばれてはいるが、社交界でつんけんしているのは婚約者がいたからで、そうさせていたのは滅多にエスコートをしなかったギルバートのせい。本来のサティアはよく笑うし、こうしてまっすぐに夫を見つめ、要望をしっかりと言葉で伝える事も出来る。何故だか先程からまっすぐにサティアを見ることが出来ないが、視界の端でサティアが紅茶を飲んだのが見えた。
「どうすれば、お前は満足する?」
「週に一度、半日だけでも良いのです。二人でこうしてお茶をしたり、お散歩をしたり、会話をゆっくり楽しめる時間が欲しいですわ」
「…繁忙期は難しいぞ」
「ではその時は穴埋めを。それと、私はお前ではなくサティアです。きちんと名前を呼んでくださいまし」
つらつらと並ぶ言葉。ぱちくりと目を瞬かせて、ギルバートはふっと笑う。もっと初めからきちんと話していれば良かった。彼女が自分を怖がっているかもしれないと不安に思っている暇があるのなら、怖くないと示す努力をすれば良かったのだ。
今からでも、少しずつ仲を深めることが出来るだろうか。アランのようにとはいかないが、もう少し、サティアを笑顔にさせるくらいはしてみたいと思った。
「分かった、週に一度休めるよう努力しよう。他にサティアの望みは?」
「次回までに考えておきますわ」
そう言いながら微笑むサティアは、とても可愛らしいと思った。
◆◆◆
「どうだ」
「おや、貰ったんですか」
次の日早速ハンカチを職場に持って行った。わざわざ用もないのにアランの所へハンカチを見せびらかしに行くなんてらしくもない事をして、ギルバートは「私だって妻から刺繍入りのハンカチを貰えたぞ」と自慢をした。
「良かったですね団長殿」
「ああ。妻からの贈り物は嬉しいものだな」
素直な感想だったのだが、心底意外だと言わんばかりにアランは動きを止める。そしてすぐに腹を抱えて笑いだすのだが、ギルバートは自慢だけして満足したので、さっさと自分の執務室へ戻って行く。
半日で良いと言われたが、出来れば丸一日休みを取ろう。今度はどんな話をしよう、何をして過ごそうかとあれこれ考えて、ギルバートはいつもよりも張り切って仕事をこなすのだった。




