7:真相が、錬成される
「……間違いないんだな?」
「う、うん……確かに、あの女性やった。戎橋で見かけたのも、瀬戸くんがスケッチしとったのも」
「結構。それが聞きたかったんだ」
満足げに目を伏せ、口角を吊り上げる。──そして、再び瞼を開くと、関係者たちのリアクションを待つことはせず、緋村はロジックを突き進める。
「井岡が神母坂さんと思しき女性を戎橋で見かけ、尾行したのは、十二月九日の十五時過ぎ。しかし、奇妙なことに、同じ日の同じ時間、神母坂さんは西宮市の外れにあるご自宅で、幸恵さんと共に、お茶をしていました。幸恵さんが彼女の家を訪れたのも、ちょうど十五時頃。それからお二人は、二時間ほど話し込んでいた。──そうですね?」
問われた幸恵さんは、数拍遅れて首肯した。その顔には、怯えたような表情が浮かんでいる。
事件よりも何よりも──たった今目の前にいるこの青年の方が、よほど怖ろしい存在であるかのように。
「これでもう、おわかりいただけたはずです。同日同時刻に、一人の人間が別々の場所に存在するなどあり得ない。と言うことは、神母坂さんと同じ顔をした人物が、もう一人いたと考える他ありません。そして、流浪園で発見されたのが、このもう一つの首の方だったとすれば──神母坂さんには、死の偽装を行うことが可能だったと言える。
彼女は荷物の中に身代わりを忍ばせ、流浪園にやって来ました。体とは違い、首だけなら旅行鞄に入れて持ち込むことができる。もちろん、腐敗が進んでしまわぬよう、保冷剤などを一緒に詰めて」
──Solve et Coagula。すなわち、「分解して統合せよ」。十九世紀フランスの魔術師が残した心得は、やはり推理にも通ずるのかも知れない。
事件を通して得た様々な情報や証言が、緋村によって「分解」され、そして「統合」されて行く。
真相が、錬成される。
「もう一度言いますが、犯人は二日目の朝以降、繭田さんのインスリン製剤に毒を仕込むことができた人物であり、それはあの時すでに死んでいたと思われていた、春也さんと神母坂さんのどちらか一人。そして、彼らのうち、死の偽装が可能だったのは、首だけの状態で発見され、尚且つ同じ顔を持つ首がもう一つあった、神母坂さんのみ。……つまり、犯人は彼女です」
そう告げられて、すぐさま反論する者は、一人もいなかった。みな、言葉を失っていたからだ。
それにしても、死の偽装──犯人の用いたトリックさえも利用し、ロジックに組み込んでしまうなんて。先ほどの幸恵さんの反応ではないが、空恐ろしい。
──この男もまた、悪魔なのではないか?
しばしの間、悪魔の声だけが、室内に響く。
「神母坂さんの物と思われていた死体は、首しかないことにより、死後硬直の進行具合が不明瞭でした。死後硬直は体の一番上にある関節──顎から始まり、次第に下の関節へと進んで行きます。ですが、顎が硬直していても、他の部位がなければ、開始からどれほど経過しているのかはわからない。
加えて、あの首には仔牛の剥製が縫い付けられていました。その為、首の断面が隠され、切り口の鮮度を確かめることもできなかった。よって、我々はあの首の持ち主も、春也さんとほぼ同時に殺されたのだと錯覚してしまったのです。『死後間もなくではないがそう時間は経っていない』と見られる春也さんの死体が発見された直後でしたから、無理からぬことでしょう。──おそらく、自室に模造の林檎を残し、衣歩さんがコンサバトリーへ行くよう仕向けたのも、この効果を狙ってのことだったのだと思います。先に春也さんの死体を見付けてほしかったわけですね」
そこまで計算に入れた上で、幻獣の見立ては行われたのだ。猟奇的な演出などではなく、彼女の犯行は全てに意味があった。
「そうそう、これは僕の他には、若庭と繭田さんしか知らないことですが、僕たちは春也さんの部屋で、神母坂さんのイヤリングを見付けました。のみならず、彼の部屋のバスルームはまだ乾ききっていない水溜りが残っており、洗面台の下にはごくわずかな血痕まであった。これだけ見ると、まるでそこで神母坂さんが殺害され、犯人がバスルームで首を切断したように思えます。実際、僕も最初はそう考えました。……しかし、言うまでもなくこうした『痕跡』は、全て神母坂さんによるフェイクです。念には念を入れた、と言うことでしょう。告白文に書かれていたとおり、彼女は春也さんの部屋で殺害されたと見せかける為に」
そこまで言うと、ようやく悪魔は息を吐いた。そして、唇を舐めて湿らせる──今度は蛇のようだ。
魔王の化けた蛇、か。
「神母坂さんが潜伏していた場所は、屋根裏部屋並びに屋根裏でしょう。おそらく、告白文に書かれていたのと同様の仕掛けが、屋根裏部屋のドーマー・ウィンドウに施されていたはずです。すなわち、あの窓は、窓枠ごと外に開く扉のように、改造されていた。両面テープで固定しておけば、簡単に開けられてしまう心配はありませんし、そもそもそんな発想など、抱きようがなかった。……とにかく神母坂さんは、屋根裏部屋を調べに来た我々を、屋根の上に逃げてやり過ごしたんです。
事実、事件の起こる一ヶ月ほど前に、一組の男女が野戸島に渡ったと言う証言がありました。そのうち男の方は顔を隠していた為、若者だったことしかわかっていませんが、女の方は『よく榎園さん家の別荘に泊まりに来ていた女性』だったそうです。……この男女は、おそらく春也さんと神母坂さんでしょう。屋根裏部屋の窓を改造する為に、彼女は春也さんを伴って、島を訪れていたんです」
「ち、ちょっと待ってください」
ようやく彼の独壇場を終わらせたのは、東條さんだった。
「確か、僕たち三人で屋根裏部屋に入った時、緋村さんは窓から首を突き出して外を見ていましたよね? しかし、その時は何も発見できなかったはずだ。もし鮎子さんが本当に屋根の上に隠れていたのだとしたら、緋村さんが気付いたんじゃありませんか?」
「ああ、それは簡単なことですよ。あの時、彼女は塔屋の裏側に回り込んでいたんです。だから、窓から首を突き出して周りを見回しただけではわからなかった」
ちょうど、窓がある場所の反対側に、彼女は身を潜めていたのだ。必死に息を殺して……。
「危険なことではありますが、足を滑らせぬよう気を付けさえすれば、一時的に塔屋の上に留まっていることは、十分に可能だったはずです。
また、僕と若庭が二度目に屋根裏部屋へ入った時、屋根の塗料の一部と見られる破片が、床の上に落ちていました。そんな物、朝の段階では見当たらなかったはずなのに。そうですね? 東條さん」
「え、ええ、まあ……」
困惑しつつも、彼は頷き返す。
「にもかかわらず、午後に再び入った時には、落ちていたんです。であれば、それまでに誰かが屋根に出ており、その人物が中に戻って来た際、足に付着していた物が落ちたとしか思えません。つまり、例の『扉』を通って、神母坂さんが再び屋根裏部屋に帰って来たことを、示していたのです」
「……少し、気になることがあるのです」
唐突に、境木が声を発した。それまで黙っていたのみならず、気配を消すかのようにジッとしていたのに、どうしたのだろうか。
「なんだ?」
「足音です」彼は僕たち同回生に対しても、独特の敬語で接する。「もし本当に屋根裏に潜んでいたのなら、移動する際、足音がしたと思うのです」
「変人その二のクセに、いい質問じゃねえか」その一は僕か。「確かに、どれだけ忍び足で移動したとしても、普通は少なからず足音はしただろう。しかし、当時流浪園の屋敷では頻繁に家鳴りがしていた。だから、足音が聞こえたとしても、『また家鳴りか』くらいにしか思わなかったかも知れない。──もちろん、これだけじゃないぜ? 神母坂さんは、たぶん安全な場所を選んで移動したんだ」
「安全な場所? そんなところがあったのですか?」
「ああ。──みなさんは、当時の部屋割りを覚えていますか?」
全員覚えていた。流浪園に滞在する際は、いつもあの部屋割りだったからだ。
「東條さんと衣歩さんの部屋の間には、空き部屋が二室ありました。そして、廊下を挟んだそれぞれの向かいには、手前から神母坂さんと春也さんの部屋が並んでいた。屋根裏に潜んでいた神母坂さんは、こうした無人の部屋と廊下の真上を歩くことで、万が一足音がしてしまっても、気付かれ難くしたのでしょう」
二つの空き部屋の真向かいにあるのは、どちらも主を喪った部屋だ。中にいる人間に足音を聞かれる恐れはない。
そして、このことを思い付いたからこそ、緋村は部屋割りが、推理の「補強に必要だ」と感じたのだろう。要するに、神母坂さんが屋根裏に潜伏可能だったと説明する為の、「補強」だ。
「唯一、幸恵さんの部屋の上を通る時だけは注意が要ったでしょうが……まあ、うまくやったんだろうな。──そもそも、神母坂さんは、普段からあまり足音を立てずに歩いていたそうですね? そのことは以前楡さんに指摘されて自覚していた。だから、あまりを音を鳴らさずに移動できる自信があったのだと思います」




