6:迷宮から、抜け出す時が来た
「少々話が滞ってしまいましたが、再開させていただきます。──さて。ここまで来れば、あとは簡単です。初めにも言いましたが、犯行が可能だったのは誰なのかを考えればいい。
朝の注射のあとで、繭田さんのインスリン製剤に毒を仕込むことができたタイミングは、ケースやバイアルが広間に放置されていた間しかありません。すなわち、最初の死体が発見されてから、繭田さんが一足先に部屋へ戻るまでの間です。しかし、東條さんも仰っていましたが、この時、我々は全員行動を共にしていました。五人がかりで遺体を図書室に安置する間、残りの方々には先に食堂で待機していてもらい、一仕事終えたあとは、合流して話し合いを行いました」
それだけ聞くと、犯行が可能だった者は一人もいないように思える。しかし、実際は違ったのだ。
「裏を返せば、あの時姿を見せなかった人間になら、犯行は可能だったと言える。そして、それは言うまでもなく、二日目の朝の時点ですでに殺されていたと思われていた二人しかいません。つまり──春也さんと神母坂さんのうち、死の偽装を行うことのできた人物が、犯人と言うわけです」
「そ、それじゃあ……あの時、本当は生きていたと言うことですか? 二人のうち、どちらかが?」
血の気の失せた顔で、東條さんが問う。無論、青年は首肯した。
「そう考えれば、繭田さんのインスリン製剤のバイアル全てに、毒が仕込まれていたことに説明が付く。生きていた人間全員にアリバイがある以上、被害者だと思われていた彼らの中に、死の偽装を行った真犯人が紛れていたことになります」
「せやったら、犯人は春也くんで決まりやな」
「どうしてそう思われるのです?」
「どうしてって、あんな状態で鮎子さんが生きとったなんてこと、あり得へんやろ。彼女は首だけの死体に、仔牛の剥製が縫い付けられとったんやぞ? 死の偽装なんて、できたはずあらへん。あの首の顔は、多少歪んどったが、確かに彼女の物やった。もちろん、鮎子さんには双子の姉妹なんて、おらんかったしな」
院長の言葉に、織部さんが頷く。
「楡様の仰るとおりです。わたくしも間近で神母坂様のご遺体を見ましたが、間違いなく、あれはご本人だったかと……」
「そうなると、問題は『あの死体がホンマは誰の物やったのか』ですね」わずかに首を傾げつつ、幸恵さんが話に加わる。「先ほど緋村さんは、『コンサバトリーで発見された死体は春也さんの物だった』と言うてはりましたけど、彼が犯人やとしたら、あれは別の人やったわけでしょう? 二十四日の午前中の時点で、瀬戸さんが島の外で殺されていたのなら、いったい誰の死体を身代わりにしたんやろう?」
「誰の物でもありませんよ」
斬り捨てるように、緋村が言った。
「あの死体は、やはり春也さん本人としか考えられません。我々以外に島に上陸した人間はおらず、春也さんは人一人が入れるような大きな荷物は持ち込んでいなかった。つまり、春也さんには、身代わりとなる死体を運び込む方法がなかったのです」
春也さんの荷物は、旅行鞄一つのみだった。あの中に、人間の体が収まったはずがない。
また、あまり気分のいい話ではないが、一度バラバラに切断してから、他の人間──例えば、同じ船でやって来た繭田さんと分担し、持ち込んだと言うことも考えられなかった。そんな形跡があれば、死体を図書室まで運んだ時や、緋村がタトゥーの有無を確認した際に、気付いただろう。
「なら、流浪園を訪れる前に予め島に運び込んでいた、と言うのはどうですか? もちろん、死体の腐敗が進まないよう、冷凍するなりして、館の外──例えば森の中に隠したとか」
「それもあり得ません。何日もの間、死体現象の進行を防止する処置が、どう言ったシロモノなのか想像が付きませんが──ひとまず、東條さんの仰るようなことができたとしましょう。しかし、コンサバトリーで発見された死体は、どう見ても『死後何時間かしか経過していない』様子でした。死後硬直は肩の辺りまでしか進んでいませんでしたし、両手首の断面も、まだ比較的真新しかった。──この点に関しては、楡さんと軍司さんにもお墨付きをいただいているので、確かなはずです。
また、死体ではなく、身代わりとなる人間を『生きたまま事前に潜伏させておいた』と言う可能性も、考えられません。一日目の朝、織部さんが島を見て回った際、誰かが潜んでいた形跡は見受けられなかったそうです。大雨の降ったあとでしたが、足跡すらなかったんでしたね? なら、やはりその時はまだ、島には誰もいなかったんだ」
そして、何度も言うように、二十四日と二十五日にかけて、島へ渡った人間は僕たち以外にいなかった。それが犯人にせよ、春也さんの身代わりにせよ、第三者が知らぬ間に上陸していた可能性は、やはりあり得ない。
「もし仮に、密かに館に侵入し、雨風を凌いだとして──その時の形跡をうまく誤魔化せたとして──、朝になって誰かがやって来る前に外へ出たのであれば、やはりどこかしらに足跡が残ったはずです。
また、そうではなくずっと野営していたのだとしたら、織部さんが見回った時、すぐに気付いたでしょう。野戸島には洞窟の類いはなく、森の中ではロクに身を隠すこともできませんでした。
ついでに言っておくと、流浪園の屋敷──誉歴さんの部屋の地下には、実は隠し部屋がありました。衣歩さんからその存在を教えられた僕と若庭は、彼女と一緒にそこに下りたのですが、その際、最近人が入った様子は見受けられなかった。かなり埃が積もっていましたし、ところどころに蜘蛛の巣も張っていましたからね」
「と言うことは、身代わりとなる人間を事前に連れ込み、あのお部屋に潜ませていた──あるいは監禁していたと言う可能性も、考えられないのですね?」
「そうです」我が意得たりとばかりに、織部さんの言葉を首肯する。「改めて言いますが、身代わりを用意する術がなかった以上、コンサバトリーで発見された春也さんの死体は、本当に彼の物だったことになります。つまり、彼は犯人ではない」
「でも、春也さんやないとすると、いったい、誰が犯人なんでしょう? 神母坂さんにしてみても、死の偽装とやらができたとは思えません」
「ところが、できたんですよ。何故なら彼女には──首が二つあった。仔牛の体が縫い付けられたあの死体は、そのもう一つの首だったんです」
二つの首。そう聞いて、僕は彼女のシルバーイヤリングを想起する。
円環状の双頭の蛇を。
──彼女はアンフィスバエナだった。「冷血動物」と、かつて自分で口にしていたように。
「何を仰っているんですか? 神母坂さんに首が二つあったやなんて……。いえ、もちろん比喩えなのはわかっていますけれど、何だってそんなことを」
幸恵さんが戸惑うのも、無理からぬことだろう。
「要するに、神母坂さんと同じ顔をした人間が、実はもう一人いたと言うことです。──そのことを証明する前に、一つみなさんに聴いていただきたい話があります」
そう言うと、緋村は友人の一人に視線を向けた。井岡だ。
彼女は膝の上で両手を握ったまま、俯いていた──その横顔は、酷く蒼褪めている。
それを見た僕は、確信した。緋村の考えは、やはり何もかも的中しているのだと。
「そこにいる井岡は、昨年の十二月九日に、大阪の戎橋である女性を見かけ、尾行したことがありました。何故そんなことをしたかと言うと、その女性は、退学する直前に瀬戸くんが描いていたスケッチのモデルと、よく似ていたからです。……しかも、瀬戸くんは『彼女に会いに流浪園へ行く』と言って、大学を去りました。彼女と話すことができれば、瀬戸くんの行方もわかるのではないか。そう考えた井岡は、その女性のあとを追いかけたのです」
それが、ある意味では全ての入り口だった。井岡が「金縛りに遭う女」を追跡した時、すでに事件は動き出していたのだ。
「このささやかな尾行劇は失敗に終わったものの、井岡はある偶然から、女性の素性を知ることができました。彼女を追って入った雑居ビルには《Sunny tourist》と言う旅行代理店のオフィスがあり、その会社の従業員が、彼女のことを知っていたのです。……井岡が尋ねると、彼はこう答えたそうです。彼女は『エゾノさんのお嬢さん』であり、『グンジ先生のご紹介で弊社にお越しいただいたことがある』と」
「エゾノさんのお嬢さんって──衣歩ちゃんやったんか? その、スケッチのモデルとやらは」
今度は夫の方が問う。
「僕たちも、初めはそう思いました。しかし、実際に衣歩さんに話を伺ってみたところ、《Sunny tourist》を利用したことはまだ一度もないとのことでした。……では、あの日井岡が見かけたのは別の女性だったのか。それとも、衣歩さんが我々に嘘を吐いていたのか……。確かめてみることにしましょう」
彼は再び、流し目で友人を見やり、
「井岡」名前を呼ばれた彼女は、小さく体を慄わせた。「あの日お前が尾行した女性──瀬戸くんのスケッチのモデルは誰だったのか、教えてくれねえか?」
「……う、うん……わかった」
意を決したように頷き、井岡は蒼白な面を上げた。
「礼……」
その隣りに座った渋沢さんが、幽かな声音でガールフレンドの名を呟いた。彼が心配げに見守る中、井岡の右手がユックリと持ち上がる。
聖女の糸が、今まさに、僕たちの目の前に現れようとしていた。迷宮から、抜け出す時が来たのだ。
「私が戎橋で見たのは──あの人です」
わずかに慄える白い指の先を、みな一斉に追いかける。そして、誰もが瞠若し、息を呑んだ。
井岡が指し示していたのは、白薔薇に囲まれた遺影の一つ。
榎園衣歩──の左隣りで、その人物は婉然と微笑んでいた。
流浪園で過ごしていた時の、黒ずくめの格好とは対照的に、白いチェスターコートと薄ベージュ色のセーターを着たその姿を、僕は見つめる。
──神母坂鮎子。
「金縛りに遭う女」の正体は、彼女だったのだ。




