5:俺が緋村チャンに殺されてまいそうやな
「でも、本当にバイアルの中身は増えとったんでしょうか? ただ単に、一回あたりに投与する量が少なくて、薬液がたくさん残っただけかも知れません」
「僕も初めは、幸恵さんと同じことを考えました。──実を言うと、インスリン製剤の残量に関しては、繭田さんの部屋で目にした時点で、少し違和感を覚えていたんです。しかし、その時は単に少量ずつ投与していたか、あるいは──ケースの中に空のバイアルはありませんでしたが──、島へ来る直前に新品を卸したのだろう、と決め付けてしまいました。……ところが、実際にはそうではなかったことを、昨日知ったんです。薬液の量は、間違いなく途中で増えていました。少なくとも、赤いラベルの物に関しては」
彼は僕の事件記録を読み、その決定的な証拠に気付いたのである。
「二日目の朝、僕たちがコンサバトリーへ向かう直前、広間に残った繭田さんは、ちょうどインスリン注射を行う準備を始めていました。その際、彼がテーブルの上に取り出したのは、以前も言ったとおり赤いラベルの製剤だった。僕と若庭だけではなく、一緒にコンサバトリーまで付いて来てくださった東條さんや、後から一階に下りて来た楡さんも、その様子を目にしています」
だから何なのだと言いたげに、幸恵さんは眉をひそめる。他の三人も──いや、僕と緋村以外のこの場にいる全員が、彼の意図を測りかねている様子だ。
心配せずとも、答えはすぐにもたらされるのだが。
「ここまではいいとして、一つだけ奇妙なことがありました。なんとその時点では、赤いラベルのバイアルに入った薬液は、瓶に対して七割ほどしか残っていなかったんです」
そうだ。朝の注射を打つ前の方が、繭田さんが亡くなったあとに比べ、薬液の量が少なかった。通常あり得るはずのないことが、起きていたのだ。
「僕自身が目にしたわけではないのですが、若庭が密かに書き綴っていた記録の中では、確かにそう描写されていました」
緋村の「知りたかったこと」そして、「見ていなかったもの」とは、これだった。もし朝の時点で薬液の残量に注目していれば、彼はもっと早く、犯人を突き止めていたに違いない。
「東條さんは、その時のことを覚えていますか?」
「……いや、ラベルの色は見ていましたが、薬液の量までは……気に留めていなかったな」
「では、楡さんはどうでしょう? 楡さんが広間に下りて来た時、バイアルの中身はどれくらい残っていたか、思い出せませんか?」
問われた院長は丸っこい拳を顳顬に添え、しばし渋面を浮かべる。懸命に記憶の襞を掻きわけているのだろう。
──ほどなく、彼は愕然とした様子で細かった目を瞠り、叫んだ。
「そ、そうや! 確かに、朝見た時はそれくらいしか残ってへんかったはずや! 少なくとも、満杯近くなんてことはなかったで!」
「……よかった。もしかしたら、楡さんにも証言していただけるんじゃないかと思っていました。
我々が見かけた時だけではなく、その後楡さんが広間に下りて来た際も、赤いラベルの製剤は、七割程度しか残っていなかった。つまり、我々がコンサバトリーへ向かったあとで、繭田さん自身が注ぎ足したとも考え辛い。──いや、そもそも繭田さんは予備の製剤を持って来ていなかったようですし、七割も残っている状態で薬液を足す必要はありません。さらに言えば、使いきっていないインスリン製剤に新しい薬液を注ぎ足すなんて使い方を、するはずがない」
早口になっていることに気付いたのか、緋村はそこで一度、呼吸を整える。
「繭田さんが死の直前に投与していたのは、青いラベルのバイアルです。そして、赤いラベルのバイアルの中身が増えていたと言うことは、毒物は青だけではなく、少なとも赤の製剤にも混入していたことなる。つまり、犯人が罠を仕掛けたのは、必然的に二日目の朝──繭田さんが注射を打ったあとだとしか、考えられないのです」
※
「はァい、緋村センセー。一つ疑問がありまーす」
この場に相応しくない戯けた声と共に、田花さんが挙手をする。これに対し、緋村センセーは、容赦なく舌打ちをした。
「そんなに人の邪魔をするのが楽しいのか?」
「まあまあ、先輩をそう邪険に扱うもんやないで?──いやな、お前の推理に穴がある気がしたから、指摘してやろ思ってなァ」
先輩はヘラヘラと笑いながら──彼は、わざとそんな軽薄な態度を演じている節がある──、意外な反論を口にした。
「緋村チャンは、一つ見落としとることがある。インスリン製剤に毒を仕込んだのは、やっぱり繭田さん本人やったんかも知れん。他ならぬ彼自身が犯人やったわけや。……おそらく、緋村チャンの苛烈な追及から逃れられんと観念して、自ら命を絶ったんやろう。可哀想になァ……。
それと、お前はインスリン製剤に毒を盛って自殺するんは不自然やと考えとるようやが、初めから自分自身もターゲットに含めていたとしたら、あり得んことやないやろ? つまり、繭田さんは全ての罪を息子になすり付けた上で、被害者として死ぬつもりやったわけや」
確かに、その可能性は考えてもみなかった。一見して異常な発想とも思えるが……しかし、最初から自殺を計画に組み込んでいたとすれば、あり得ないとも言いきれない。
「繭田さんであれば、父親なわけやから、春也さんの部屋に忍び込むことも可能やったやろう。コッソリ鍵を複製するか、なんなら合鍵をもらうとかしてな。
また、兄の方の軍司さんに関しては、すでに告白文にあったのと同じ罠を、仕掛けとったんやろうが……まあ、いろいろと予想外のことがあって、それとは無関係に死んでもうたってところか。確か、軍司さんの死体には、誰かに刺されたような痕があったんやろ?」
「田花さん、話の腰を折るのはよくないのです」
境木が見兼ねたように窘めたが、彼は意に介さない。
「黙っとれボランティアフェチが。──なあ、どうや? 俺の言うてること、間違うとるか?」
体を前に傾け、挑戦的な視線を緋村に送る。
この予想外の伏兵にどう対処するのか。単純にも不安に駆られた僕は、思わず彼の姿を見た。
「……はあ」まっさきに放たれたのは、大きな溜め息だった。「何をそんなにはしゃいでんだか、俺には理解できないね。──結論から言えば、田花さんの指摘は、矛盾しています」
「ほほう、なんでや?」
「まず第一に、あのタイミングで自殺するのはあまりにも早すぎる。田花さんは『苛烈な追及』なんて言い方をしましたが、実際には大して追い詰められていたわけではありません。あの時点では、俺は全く真相を掴めていませんでしたからね。
それに、俺たちは彼に、死体の身元確認を要請していたんですよ? もし本当に繭田さんが犯人だとして、例の告白文を認めたのも彼なのであれば、そんな状況で自殺するわけがない。どうせなら俺たちに付いて行って、死体が春也さんではないと証言すればよかったんだ。犯人のシナリオでは、『春也さんは瀬戸くんを身代わりにして死の偽装を行った』と言うことになっていました。そのストーリーを補強する機会を、みすみす逃すとは思えません」
「それよりも、犯人やと疑われへんことを、優先したのかも知れん」
「第二に、事件の被害者のように見せかけたかったのなら、朝死体を発見してから、部屋に籠る必要はなかった。そんな行動を取ったせいで、生きている人間には誰にも毒を仕込むことができない状況が生まれ、自殺説が出てしまったんです。軍司さんなどは、彼が犯人であると決め付けていたほどだ。もし被害者だと思わせたかったのなら、『犯行の機会』を作っていたはずです」
「だとしても、可能性としては」
「第三に」叩き斬るような、スルドい語調。「屋敷に火を放つ前に死んでしまっては、告白文の内容と矛盾してしまう。あれはあくまでも、犯行後に島を脱出した春也さんが認めた、と言う体で書かれた物です。火事が起こらなければ、それだけであの文章は偽物──犯人は春也さんに罪を被せようとしていた別人であると、いっぺんにバレてしまうじゃないですか。
無論、自動的に火災を起こすような装置の存在も、考えられません。繭田さんが亡くなったのは昼頃。その直前にそんな謎の仕掛けを施していたとして、夜になってからそれが問題なく作動したとでも言うんですか?」
怒涛の反撃に、さしもの田花さんも、黙り込むしかなかったようだ。
しかし、緋村は容赦しなかった。
「あんたは知らないだろうが、繭田さんは亡くなる直前、俺を見てこう言ったんですよ」
──春也……よかった……。
僕はその時、ようやく繭田さんの最期の言葉を、知ることができた。
「そして、彼は微笑みを浮かべていた。おそらく、俺のことを春也さんだと勘違いして、こんな言葉を口にしたんでしょう」
「……どうしてそうなるんや? その時点で、春也さんはもう殺されとったのに」
「直前に、俺が死体の身元確認を頼んでいたからです。その際、今朝の死体が本当は春也さんの物ではなく、別の誰かであり、彼がまだ生きている可能性があることも、伝えていました。だからこそ、繭田さんは俺に春也さんの姿を幻視し、『よかった』と口にしたんです。微笑みながら、ね。……つまり、あの時繭田さんは、息子の無事を知り安堵していたんだ。もし仮に、繭田さんが犯人だったとして、そんな言葉を遺すと思うか? 自分が手にかけた人間の名を呼びながら、笑みを浮かべるなんて……いったいどんな神経をしていたら、そんな死に方ができるんだ?」
先輩を追い詰める緋村の声からは、絶対に反駁することは許さないと言う、確固たる意志が感じられた。それこそ、「苛烈」なほど。
おそらく、緋村は怒っているのだろう。自らの看取った者の尊厳を、踏み躙られたと考えて。
果たして、田花さんは答えぬまま、彼の視線を見返していた──が、ほどなく、その唇の端を不敵に持ち上げる。
「ホンマは『春也を殺せてよかった』って意味やったんかも知れん──なんて言うたら、俺が緋村チャンに殺されてまいそうやな」
田花さんは、どこか満足げに、ハンズアップしてみせた。
「わかったわかった。大人しく負けを認めたるわ。悪かったな、しょーもないこと言うてもうて」
「なら、しばらく──いや、できれば最後まで黙っていてください。それができないんだったらもう帰れ」
辛辣なセリフと共に、彼は仕切り直す。




