1:最後の一葉
胎児よ
胎児よ
何故踊る
母親の心がわかって
おそろしいのか
夢野久作『ドグラ・マグラ』(巻頭歌)
翌、一月五日──十六時四十分。
阪急甲陽線苦楽園口駅に降り立った僕たちは、タクシーを二台呼び、分乗して榎園家の本邸へ向かった。最寄駅にもかかわらず、徒歩だと二十五分もかかってしまう為、少し贅沢をすることにしたのだ。
六甲山麓に位置する苦楽園は、緑豊かな高級住宅地であり、通り過ぎて行く建物は、どれも豪邸ばかり。立地上眺望にも優れており、少し調べてみたところ、場所によっては大阪湾を含む阪神全域を見渡すことができるらしい。
かつて、この地を訪れた与謝野晶子は、
武庫の山 君なき世にも遠かたの
打出の浜の 見ゆる路かな
と、その絶景を歌に詠んだと言う。
最愛の夫を喪った女流歌人の詠歌に想いを馳せながら、急勾配の道を上ること、約五分。僕たちを乗せた二台のタクシーは、目的地である邸宅の前で停車した。
流浪園とまでは行かないが、小洒落たアイアン門扉と、広い庭を備えた豪邸である。三階建ての屋敷のデザインも非常にモダンで、古い怪奇小説の舞台然としていたあちらとは違い、精錬された雰囲気を纏っていた。
会計を済ませ全員が車から降りたのち、緋村が代表して、門の横に備え付けられたインターホンを押した。
『ようこそお越しくださいました。門を開けますので、中へお入りください』
スピーカーから聞こえた織部さんの声を、妙に懐かしく感じていると、鉄の門扉が自動で開いた。
一行は適当な隊列で、榎園家の敷地につい足を踏み入れる。
「こうして見ると、案外似合っとるなァ。卒業後は、葬儀屋にでも就職したらどうや?」
と言う最年長の軽口に対し、
「田花さんこそ。いつもの服装より、そっちの方がマシですよ」
僕は精一杯やり返した。すると、彼は何故だか嬉しそうに「言うようになったやないか」。どうやら、今日はすこぶる機嫌がいいらしい。こんな格好をして、こんな会に参加すると言うのに。
僕たち六人はみな、羽織った上着の下に、喪服を着ていた。
殺人事件であり、身元確認を行っている最中と言うこともあって、衣歩さんたちの遺体は未だに返って来ないそうだ。年末の時点でそれを見越していた楡夫妻の提案により、葬儀に代わり、事件の被害者たちを悼む集いが執り行われることとなった。であるから、TPOとしてはこれが妥当だろう。
実際、他の参列者たちも、みな喪に服していた。
待ち構えていた織部さんが開けてくれたドアから、屋敷の中に入る。
その際、田花さんはサングラスを外すと共に、携えていた紙袋を、使用人に手渡した。中身は日本酒であり、聞くところによると、瀬戸の実家で買い求めた物らしい。是が非でも僕と緋村に振る舞うべく、わざわざ持って来たと言うから、呆れてしまう。
日本酒は会食の際に供される運びとなり、僕たちは織部さんの案内で、ダイニングとひと続きとなったリビングに通された。二つの部屋の仕切りを完全に取っ払い、その中央に置かれた二台のテーブルを囲む形で、背もたれの高い椅子が並んでいる。
「本日はご足労くださり、ありがとうございます。初めましての方もいらっしゃいますね。今回の集まりを主催致しました、楡幸恵と申します。それから、こちらが夫の基雄です」
唯一和装である幸恵さんが、深々と首を垂れてから、自身と夫を井岡たちに紹介する。流浪園で会った時は赤かった髪を、今は黒く染め直しており、唇に差した紅も、暗い色味の物だった。
主を喪った榎園家の本邸は、楡夫妻が譲り受けたそうだ。夫婦は別居生活に区切りを付け、今はこの屋敷で共に暮らすべく、引越しを進めているのだとか。──かつて神母坂さんの口にした予言が、現実となったのだ。
また、屋敷だけではなく、誉歴氏の遺産も、唯一の親戚である幸恵さんが相続したらしい。
そんなことを思い出していると、不意に楡さんと目が合う。「やあ」と言う代わりに右手を挙げた彼は、少々やつれて見えた。
「あと二人お見えになりますので、もうしばらくお待ちください」
そのうち一人は東條さんだとして、最後のゲストは誰なのだろう? 気になりはしたが、どうせすぐにわかることだと考え、敢えて誰にも尋ねなかった。
ひとまず、部屋の奥にある祭壇を拝見しつつ、彼らの到着を待つことにする。
壁一面に張られた暗幕を背に、大輪の白薔薇をふんだんに敷き詰めた生花祭壇が設けられていた。あの純白の薔薇は──フラウ・カール・ドルシュキーか。薔薇の女王たちに囲まれ、四つの遺影が等間隔に並ぶ。
無論、あの島で亡くなった四人だ。死んでしまった人たちが、黒い額縁の中で笑っている。不思議な気分だった。つい二週間ほど前には、彼らはみな生きていたはずなのに、こうして眺めていると、遠い過去の住人のように思えてしまう。
いたたまれなくなり、目線を下げた時、僕は初めてその存在に気が付いた。
祭壇の中央に飾られた衣歩さんの写真の下には、棺の代わりに白いクロスの敷かれた角テーブルが鎮座しており、そこに小さな遺品が一つ、置かれていたのだ。
見覚えのあるそのロケットペンダントは、言うまでもなく、衣歩さんの物だった。そう言えば、燃え盛る流浪園から避難する際、幸恵さんが拾っていたのだったか。
「あの、見てもいいですか?」
「ああ。構わんで」
近くにいた楡さんの許可を得、その遺品を手に取った。右の掌にペンダントを乗せ、荊の意匠の施された蓋を開く。
その中には、二葉の古い写真がしまわれていた。
そのうち、本体の方にはめ込まれていたのは、一組の男女──夫婦を写した物だった。幼い頃に他界したと言う、衣歩さんのご両親なのだろう。こちらに関しては、ある程度予想が付いた物だったのだが、その反対側──蓋の裏面にある写真を目にした時、僕は少なからず驚かされた。
そこに写っていたのは、二人の少年。年恰好は、小学校中学年くらいか。仲のよさそうに肩を組み、撮影者にピースサインを作った手を向けている。
「……香音流くんと明京流くんや。昔、流浪園を訪れとった時に、鮎子さんが私のカメラで撮ったもんやな。他の写真と一緒に現像して、彼らや鮎子さん、それから衣歩ちゃんに贈ってあげたんやが……衣歩ちゃんは、えらい大事にしてくれとったらしい。この頃は、まだ二人も仲ようしとったし、衣歩ちゃんにとっては、大切な思い出やったんやろう」
僕の隣りに立ち、祭壇にいる衣歩さんを見やりながら、楡さんが教えてくれた。おそらく、そのとおりなのだろう。だからこそ、衣歩さんは「お守り」として、ペンダントを肌身離さず身に付けていた。
決して戻ることのない日々を、喪ってしまった大切な人たちのことを、いつまでも忘れぬ為に……。
僕は改めて、自らの手の中にある物を、見つめる。それは、この事件を通して僕が目にした「その男の写真」の、最後の一葉だった。




