4:きっと、目の保養になるで?
約一週間後──二十四日の午後には、僕と緋村は漁船に揺られ、とある孤島を目指していた。この船は他の客人を乗せる為、流浪園の持ち主が予め依頼してあった物で、急遽それに乗せてもらったのである。
真冬の澄んだ青空の下、船は波を切って進んで行く。鳥取県某市にある某漁港を発ってから、すでに三十分ほどが経過していた。
しかし、デッキに立った僕たちの間に、大した会話はなかった。凛烈な潮風をまともに浴びながら、それぞれ別の場所へ目を投じ、互いに口を利こうとしない。
緋村はどうかわからなかったが、少なくとも僕は、これから訪れる場所でどのような事態が待ち受けているのか、不安で仕方がなかった。
僕たちは今、一週間前に井岡が面会するはずだった人物の元へ、向かっているのだ。
「君たち、軍司先生を捕まえに来たんやってなぁ」
不意にそんな言葉を投げかけられ、僕と緋村は同時に振り返る。
そこにいたのは、黒いPコートを着た恰幅のいい男性だった。年は六十代前半と言ったところか。コートと同じ色のソフト帽を風に飛ばされぬように抑えつつ、フランクな笑みを浮かべている。身に付けている物──高そうなの腕時計やブランド物のキャリーバッグ、それからついでに金歯──から、羽振りのよさが窺えた。
──さっき一緒に船に乗った時も思ったけど、やっぱりどこかで見たことのある顔だ。いったいどこで目にしたのだろう? 僕が密かに首を捻っている間に、緋村が代表して、彼の問いに答えた。
「捕まえるだなんてとんでもない。我々はただ、軍司さんのお話を伺いに来ただけです」
「ふうん、話ねぇ……。先生から聞いとるわ。なんでも、この間会う約束をしとった大学生の女の子が、誰かに怪我を負わされてもうたんやろ? 確か、車道に突き飛ばされたんやったか」
そう。井岡は軍司氏との面会に向かう途中、何者かに背中を押され、車道に飛び出したところを、運悪く通りがかった乗用車に轢かれてしまったのだ。全身を強く打ち重傷を負ったものの、不幸中の幸いと言うべきか、命に別状はなかった。
悪報を受けた僕たちが見舞いに行くとすでに意識も回復しており、普段どおり軽口を交えて話ができるほどだった。このまま術後の経過が順調であれば、一週間以内には退院できる見込みだそうだ。高級レストランでのディナーがキャンセルになってしまったのは可哀想だが、大事に至らなかっただけよかったと思い、諦めてもらうしかない。
「事件の真相を突き止める為に、わざわざこんな海の上まで来たわけや。随分と熱心やな。いや、友達が被害に遭うたんやから、躍起になって当然か。それとも、二人のうちどっちかが恋人やったり?」
再び金歯を覗かせて、ニンマリと笑う。顔のパーツが全体的に丸っこいこともあり、なんとなく『不思議の国のアリス』のチェシャ猫を連想した。
──無論、初めのうちは、事件の調査は警察に任せておくつもりだった。白昼の街中での出来事であり、犯人はすぐに捕まるだろうと踏んでいたのだ。
しかし、僕たちの予想に反し、捜査は早々に難航する。付近の監視カメラの映像に、犯人らしき男が騒ぎに乗じて立ち去る姿が記録されていたものの、マスクと帽子で顔を隠していた為、詳細な人相はわからず。冬場と言うこともあり、男は服を着込んでおり、背格好や年齢などの情報も非常に曖昧な情報しか得られなかったらしい。
強いて言えば、肥満してはおらず、さほど長身と言うわけでもなく、高齢ではないだろうと言う程度か。
それでも、顔認証システムがある以上、犯人が特定されるのも時間の問題だと思っていたのだが、その後、特に続報はなく……。何やら雲行きが怪しくなって来た折、緋村が突然こんなことを言い出した。
──流浪園とやらを訪問しようと思うんだが、お前も来るか?
意外にも、彼は自ら進んで事件の捜査に乗り出したのだ。僕は当然迷いも戸惑いもしたが、結局は同行することを望み、こうして漁船に揺られている。
あんなに面倒ごとにかかずらうことを厭うていたのに、何故重すぎる腰を上げる気になったのか。事件の真相と同様に、僕にとってはこの点も大いに謎であった。
「いえ、二人とも違います。彼女の恋人には念の為、傍に付いていてもらうことにしました。もっとも、容態はすでに安定していますし、その点ではもう心配ないのですが」
「そうか、そら何より。私らも可哀想やなぁって、気にしとったんやで?」
「ところで、お名前を伺っても?」
「ああ、そう言えばまだ名乗ってへんかったな。失敬失敬。──私は招待客の一人で、楡基雄ってモンです。これでも、神戸と大阪で美容クリニックを経営しとります。《楡美容外科》って名前なんやけど、知らん?」
知っている。僕たちは同時にそう答えた。
そして、ようやく合点がいく。どうして彼の顔に見覚えがあったのか。
「こんな若い人にも知ってもらえとるなんて、嬉しい限りやな」
楡院長はそう言ったが、大阪に住んでいて《楡美容外科》の名前を知らぬ者の方が少ないだろう。テレビでもコマーシャルがよく流れているし、院長自身も度々ローカル番組に出演していた。無論、僕が目にしたのもそうした番組のワンコーナーである。
僕たちもそれぞれ名乗り、素性を明かした。それから、少し質問を放ってみる。
「榎園さんの別荘には、よくお越しになるんですか?」
「いや、四年ぶりに訪れるわ。昔は年に何度かみんなで泊まりに来とったんやけどなぁ」
「何かあったんですか?」
「まあ、ちょっとな……」わずかに表情が翳る。
が、それもほんの一瞬のことであり、彼はすぐさま話題を転じた。
「軍司先生なんかは、現役を退かれてからもちょくちょく来とるらしいわ。研究に行き詰まった時の息抜きや言うてな」
「軍司さんのご著書は何冊か拝読しています。元産婦人科医で、生殖補助医療の世界的な権威。お会いできるのが楽しみですよ」無論、これは緋村。
軍司氏のことは、僕たちもある程度事前に調べて来ていた。また、その過程で彼に関するある噂──あるいは疑惑──の存在もキャッチしていたのだが、敢えてそれには触れないでおく。不用意に話題に上げるのは憚られる物だったし、そんなことをして不信を買うような真似はしたくない。
「よう知っとるなぁ。あ、いや、ちゃんと下調べをして来たっちゅうことか。君の言うとおり、軍司先生は偉大な功績を幾つも残しておられる。元々、お父上が開業の産婦人科医やったそうで、ご兄弟揃って生殖補助医療の道に進まれたんや。本人は言わずもがな、弟さんも、それは優秀な医師やったらしい」
確か、軍司氏には双子の弟がおり、彼もまた元産婦人科医だったか。百科事典サイトにわずかな記載があった程度で、弟の方がどのような人物なのかまでは、よくわからなかった。
「そうそう、これは老婆心からの忠告やが、くれぐれも先生のご機嫌を損ねんように。あの人、キレるとおっかないで? 普段はどちらかと言えば明朗な人なんやが、いかんせん癇癪持ちでな。一度プッツンしてまうと手が付けられんくなる。拳や足が出るのはもちろん、酷い時には物が飛んで来るそうや。本人が言うには、気に入らん態度を取った相手のおでこ目がけて、灰皿をぶん投げたこともあるらしい。それもガラス製のゴツいのをな。『血がドクドク流れているのを見て我に返り、すぐにその場で手当してやった』言うて、笑ってはったわ。──自分で怪我をさせた患者を自ら治療する医者なんて、他におらんやろなぁ」
それはそうだろう。本人が笑い話にしている辺り、なかなか狂気じみている。
嫌な前情報を得てしまい、僕は俄かに気が重くなった。
「ま、要するに『取り扱い注意』ってわけや。同業者の間でも、『軍神』とか『将軍様』とか言われて、昔から怖れられとったらしい。名前の字面的にも、ピッタリの異名やな」
苦笑しつつ、彼は帽子を抑える手を入れ替える。激しやすい人だと言うことはわかっていたのだが、まさかそれほどとは。せいぜい軍神様の逆鱗に触れぬよう、気を引き締めて臨まなくては。
「気を付けることにします」感情の籠っていない声で、緋村が言う。その受け答えがすでに失礼に当たるのではないかと、俄かに不安が増した。
「そうした方がええな。いずれにせよ、先生が事件に関わっとるとは思えんが」
それから、今度は僕たちを励ますような口調で、
「まあなんや、目的はどうあれせっかく来たんや。用が済んだら、後は心行くまで楽しんでったらええ。幸い、あそこには珍しいモンがたくさんあるから、飽きることはないやろ。それに何より、どえらい美女が二人もおるんや。きっと、目の保養になるで?」
そのうちの一人が、瀬戸の描いていた女性──彼が夢の中で見たと言う、金縛りに遭う女なのだろうか?
「どんな人たちなのでしょう? 教えてくださいますか?」
「気になるんか? まあ、男なら当然やな」
院長はニンマリと笑い、
「一人は榎園衣歩ちゃん言うて、先月亡くなった流浪園の持ち主──榎園誉歴さんの娘さんや。と言っても、養子やから血の繋がりはないんやが……。これがまた、えらい可愛らしい女の子でな。『お人形さんみたい』なんて褒め言葉があるが、そんな形容がピッタリな娘や」
榎園氏の養女──と言うことは、二週間ほど前に井岡が尾行した女性も、衣歩さんだったのだろう。
それはすなわち、瀬戸が夢の中で目にし、そして現実で会いに行くと言っていた相手でもあるわけで、彼女に話を聴くことができれば、いっぺんに真実へと辿り着けるかも知れない。
「ついでに言うと、衣歩ちゃんは今回の集いの主役でもある。明日は彼女の誕生日でな。そのお祝いも兼ねて、久々に流浪園に集まろうってことになったんや」
衣歩さんは、明日で二十五になると言う。
「しかし、お誕生日を祝うだけでしたら、わざわざ島にお越しにならなくてもよかったのでは?」
「いや、確かにそれも今回の目的の一つやねんけどな。私らが今日流浪園に集まるんは、誉歴さんの遺言書を公開してもらう為でもあるんや」
遺言書の公開──推理小説などでは比較的馴染みのあるフレーズだが、実際に行われる場に居合わせるのは始めてだった。どのように執り行われるのか、興味が湧いて来る。
それと同時に、そんな重要な日に押しかけてしまったことを、なんだか申し訳なく感じた。せめて会が行われている間は、別の場所にいようと思っていたのだが、
「検認が済んで、晴れてお披露目できるってわけやな。と言っても、内容は大方わかりきっとるし、ちょろっと読み上げてもらうだけなんやが。──今晩の夕食後にやるそうや。なんなら、君らもその場にいてくれて構わんで?」
そう言うことなら……滅多にない機会だし、後学の為に立ち会わせてもらおうかな。
「不躾なことを伺うようですが、みなさんもご遺産を相続される可能性がある、と言うことですか?」
「かも知れんな。取り敢えず、あの別荘にあるコレクションやったら、どれでも好きなもんをもらってええそうや」
「先ほども、珍しい物がたくさんあると仰っていましたね」
「ああ。誉歴さんには収集癖があってな。流浪園のお屋敷にはありとあらゆるジャンルの珍品奇品が所蔵されとるんや。謂わゆる驚異の部屋って奴やな。せやから、我々は流浪園をこうも呼んどる」
楡さんは船の進む先へ細い目を向け、こう続けた。
「“珍奇の園”」
蒼褪めた空を映す海原の前方に、平べったい島影が見え始めた。あれが僕たちの目的地──珍奇の園が建つ、野戸島なのだろう。




