21:流浪園の崩壊
ようやく上体を起こしかけ、軍司さんは三度唸った。傷口に触れたらしい左手の掌が、真っ赤に染まっているのが見える。
「い、衣歩くん……なのか?」
喘鳴の入り混じった声で、彼は問いかける。
そうだ。顔は見えないし、髪の毛も剥製の頭にしまわれているが……しかし、バフォメットの服装は間違いなく衣歩さんの物であり、手にしている凶器も、彼女の部屋にあったククリで間違いない。
──どうして彼女は軍司さんを刺したんだ? まさか──先ほどの話を聞いていたのか?
──信頼していた元医師の裏切りを知り、激昂した?
──だから、衣歩さんは、バフォメットと化した……?
思考が輻輳し、すぐには身動きが取れなかった。それは他の二人にしても、同じだっただろう。
軍司さんは蒼くなった顔中に脂汗を浮かべ、怒りの化身の姿を睨み付けている。
緋村もまた、唖然とした様子で立ち尽くすばかりだ。
まるで、この部屋全体が金縛りにでも遭ったかのように、誰もが動き出せずにいる中、彼女だけは違った。
衣歩さんは、突如ククリを放り捨てたかと思うと、今度は腰のベルトに差し込んでいた二つの瓶のうち、片方を取り出す。そして、素早くその蓋を開け──中に入っていた透明な液体を、彼の体めがけてぶち撒けた。
「このっ──いったい何の真似だ!」
謎の液体に塗れた彼は、鬼の形相で吼えた。
が、その時には彼女はすでに身を翻し、現れた部屋の向こうへと消えてしまっていた。
衣歩さんが入って来たのは、薬品室へ続く扉。それでは、彼女がたった今ぶち撒けたのは──劇薬か!
そう思い至った時、緋村が僕の横を通り過ぎ、軍司さんの元へと駆け寄った。
「織部さんに診てもらった方がいいでしょう。立てますか?」
「あ、ああ……大丈夫だ。君の手は借りんよ」
苦痛に顔を歪めながらも、彼は自力で立ち上がった。
「若庭、お前は織部さんにこのことを──」
「必要ない。……奴のところには自分で行く……。それより、君たちは衣歩くんを連れて来てくれないか? 彼女の誤解を、解かねばならん……」
「誤解? 何を仰っているんですか? あんなことをした以上、彼女は我々の話を聞いてしまったはずです。あなたの話に耳を傾けるとは」
「傾けさせるさ。君らに話したことは、全て嘘だったと言ってね。……私は、香音流の父親などではないし、彼のクローンを産ませるだなんてこと、するはずがない。それが事実だ……」
彼の顔からは血の気の失せており、傷口が痛む為か、時折苦しげに表情を歪ませた。しかし、それでも尚、軍神は嗜虐的な笑みを浮かべ続けた。
「……この程度のことで、邪魔をされて堪るか。私は……私は、約束したんだ……。今度こそ、愛を与えてやる、と……」
自らを叱咤するように呟くと、彼は蹌踉めきながら、戸口を目指して歩き出す。左胸からは絶えず血が滴り落ち、床の上に赤い足跡を残していった。
ほどなくして、どうにかそこに辿り着いた軍司さんは、傷口を庇っていない方の手で、ドアノブを握った。
──その時。彼の後ろ姿を見つめていた僕の視界の中に、ある意外な物が映り込む。それは、肉体を持たぬ侵入者。
ドアの下の隙間から、灰色の煙が、室内に流れ込んでいるのだ。
「──待て!」
緋村もその存在に気付いたらしく、切羽詰まった声で、彼を止めようとした。
が、しかし、わずかに遅かった。
彼が叫んだ時には、すでに扉は開かれており──
途端に大量の黒煙が、戸口から吐き出された。
※
そこから先は、ほんの一瞬の出来事だった。
煙で満たされた廊下で鮮やかな朱色の影が揺れているのが見えた──と、思う間もなく、赫灼たる炎が、彼の体を包み込む。
瞬く間に巨大な火達磨と化した彼は、人間の物とは思えぬような絶叫を上げ、しばし床の上をのたうち回っていた。
僕はどうすることもできず、立ち竦んだまま、その凄絶な光景を見つめる。
対して、緋村は機敏な動きで身を翻し、窓からカーテンを引き剥がす。すぐさま炎の扉の塊へと駆け寄ると、手にした物を叩き付けるようにして、鎮火を試みた。
が、しかし、それは思うようにはいかなかった。
朱色の衣は完全に彼の体を抱き込んでおり、その勢いは容易に衰えることがない。そうこうしているうちにもカーテンへ、周囲の床へ、そして壁から陳列棚へと──炎は次々に燃え移り、分裂と融合を繰り返しながら、見る間に朱い触腕を広げて行った。
「ちっ──」舌打ちと共に、緋村は六割ほど燃え落ちつつあるカーテンから、手を離す。
扉の前を二度、三度と往復していた火達磨は、そこで完全に動かなくなり、人間大の木炭のように、出入り口を塞ぐ形で横たわった。
軍神──軍司将臣は死んだ。
先ほど浴びせられた劇薬のせいで炎が飛び移り、抗う間もなく火焔に呑まれてしまったのだ。
人一人の命を容易く喰らい尽くした炎は、それでもまだ腹が満たされぬとばかりに、部屋の中にある物を、手当たり次第に蝕み、焼き焦がして行く。標本室の中は、噎せ返るような熱気と煙、そして業火に満たされた。
「……衣歩さんを探すぞ。彼女はもう一本、瓶を持っていた」
煙を吸ってしまわぬよう口許を袖で抑えつつ、彼は言った。僕も咳き込んでから、慌ててそれに倣らい──思い出す。
そうだ。確かに彼女のベルトには、二本の瓶が差し込まれていた。もし、残る瓶の中身も、引火性の薬品だとしたら……。最悪の事態が、頭をよぎる。
──それだけは、なんとしてでも阻止しなくては。
僕と緋村は隣室へと駆け込んだ。
果たせるかな、そこに彼女の姿はなかった。
代わりに首を失った剥製の残骸が、部屋の隅に打ち棄てられているのみだ。
衣歩さんはどこへ消えたのか──開け放たれたままの窓が、それを物語っている。
「俺たちも外に出よう」
異論はない。彼女を追うと言う意味でもそうだが、何より引火性の薬品に溢れたこの部屋に留まっているのは、危険極まりない。
僕は彼に続き、開いた窓から芝生の上へ飛び下りる。
着地すると共に、すぐ背後に聳える屋敷を振り仰いた。どうやら火の手は、東側の棟の一階から上がったようで、裏口に近い場所の壁から、幾筋もの黒煙が立ち昇っている。先ほどの廊下の様子からして、消火器を使っての鎮火が望める状況ではないだろう。
そして、この期に及んで、ようやく先ほど耳にした異音──それまで聞こえた家鳴りとは明らかに異なる、ミシミシ、メリメリと言う音の正体を理解する。あれは、流浪園が炎に焼き焦がされる音だったのだ。この屋敷に到着した時から、幾度となく感じて来た「崩壊」のイメージが、とうとう現実の物となろうとしていた。
──他の人たちは、脱出することができたのか?
瞬時にそこまで考え、屋敷の裏手へと向かいかけた緋村を追った──
直後、つい先ほどまで僕たちがいた部屋の辺りで、爆発が起こる。
爆風と熱波に煽られ、僕はその場に倒れこんでしまった。
まさしく間一髪、だ。脱出するのがあと幾らか遅れていたら……こうしてこの事件記録を書くことも、できなかっただろう。
「立てるか?」
「あ、ああ……」
幸い、多少手を擦りむいた程度だった。
緋村に手を貸してもらい立ち上がった時、屋敷の入口のある方から、東條さんと織部さんが駆け付けて来る。
「お二人とも、ご無事ですか!」
「どうにか」織部さんの声に、緋村は簡潔に応じる。「楡さんたちは?」
「大丈夫です。ひとまず、安全なところに避難していただいております。それより、衣歩様と軍司先生のお姿が、見た当たらなくて」
「衣歩さんなら、おそらくコンサバトリーに向かったはずです。軍司さんは、もう……」
「そんな……!」
絶句する二人に対し、
「とにかく、今は衣歩さんの元へ向かうべきです。手遅れになってしまう前に」
言うが早いか、緋村は体の向きを戻し、さっさと駆け出してしまう。僕たちもすぐに彼に続いた。
「どうしてコンサバトリーだとわかるんだ?」走りながら、問う。
「衣歩さんは薬品室の窓から外へ出た。そして、織部さんたちが姿を見ていない以上、彼女はコンサバトリーの方へ向かったとしか考えられない」
愚問だったと後悔し、僕は口を噤む。
彼女の無事を祈り終えるより先に、僕たちはコンサバトリーの前に到着した。
すると、ガラス張りの壁の向こうに、人影が見えた──火の手は彼女のすぐ近くまで、迫っていた。
裏口の扉が燃え落ちたのか、それとも衣歩さんが閉じなかったのかは、定かではない。
が、とにかく、煌々と輝く炎が渡り廊下の屋根を伝い、巨大な鳥籠を手中に収めんとしているではないか。
「衣歩ちゃん!」
東條さんが、彼女の名を叫んだ。
コンサバトリーへと駆け出そうとした彼を、すかさず織部さんが止めた。
炎の侵蝕に耐えきれず、ガラスの壁や天井が、音を立てて崩れ落ちた。
その残骸が降り注ぐ合間から、彼女の姿が、わずかに見えた。
「衣歩──」
織部さんに羽交い締めにされた東條さんが、再びその名を叫びかけた──途端に、彼女のいた場所で一筋の火柱が上がる。
直後、燃え盛るイミテーションの楽園に、絶叫が木霊した。
ひしゃげた鳥籠の骨組みが、音を立てて崩れ始めた──業火に抱かれたバフォメットの姿は、すぐに見えなくなってしまった。
たった数瞬のうちに、それだけのことが目の前で起きた。
にもかかわらず。
僕はただ、見ていることしかできなかった。
東條さんが力なくうなだれ、その場に崩れ落ちた時、屋敷でひときわ大きな爆発が起こる。僕たちは各々の顔を伏せたり腰を落としたりして、その衝撃に堪えた。
爆発は連鎖し、屋敷は本格的な崩壊の時を迎えることとなる。
僕たちはそれ以上そこに留まっていることができず──火山噴火の如く、屋敷の残骸が火の雨となって降り注いでいた──、緋村と織部さんが二人がかりで東條さんを立ち上がらせ、半ば引き摺るようにして退避する。
その後、どうにか楡夫妻との合流を果たした僕たちは、敷地内にいるのは危険だと判断し、迷宮の跡地のある辺りまで、丘を下って行った。
その道中、僕はあることに気付く。幸恵さんが、何かを大切そうに、胸の前で抱えているのだ。
彼女の手の隙間から銀色のチェーンが垂れ下がり、足早に歩く振動で、わずかに揺れる。──どうやら、その「何か」は、衣歩さんのペンダントであるらしい。
そう言えば、バフォメットとなって僕たちの前に現れた彼女は、ペンダントをしていなかった。事前に、幸恵さんに託して来たのだろうか?
気になりはしたものの、その時はそれどころではなかった。
ひとまず避難を終え、屋敷の方を振り返る。
珍奇の園からは、鮮烈な朱色の光と黒煙が、星空を焦がすかのように、絶えず噴き上がっていた。僕たちが為す術なく眺め続ける間、幾度となく爆発が起こり、その度に、轟音が夜陰を震わせる。
さながら、断末魔のように。
──燃えて行く。何もかもが。
剥製も、標本も、美術品も、古武器も、劇薬も、悪魔も……。
地下室の秘密や、「分身」と呼ばれた奇形の蝶も……。
ありとあらゆる蒐集物や、死体たちを道連れにし……珍奇の園は、最期の時を迎えようとしていた。
僕たちはしばらくの間、そこに立ち尽くし、半ば見惚れるような心地で、見届けた。
流浪園の崩壊を。




