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流浪園殺人事件  作者: 若庭葉
第四章:魔獣の貌
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20:バフォメット

「代理母を務めた看護師が赤ん坊を引き取ったことは、私も知っていた。榎園くんとしては、その子を家族として迎え入れるわけにはいかなかったのだろう。産まれた経緯があまりにも特異すぎるし、何より無精子症の嘘が露見するのを恐れたんだな。──彼は産まれた赤ん坊を藍児と名付け、陰ながら養育費を援助してやっていた」

 緋村の指摘したとおり、軍司さんは初めから瀬戸の存在を知っていたのだ。そして、彼と誉歴氏が、血の繋がった実の親子であることも。

「誉歴さんから直接伺ったのですか? それとも……」

「自分で調べた上で、白状させたよ。秀臣がその代理懐胎に携わっていたことを学会にリークしたのも、私だ。

 その後、私は奴の経営していたクリニックを買い取った。保管されているであろう千都留の卵子──体外受精に用いられた物の余りを、手に入れたくてね」

「なるほど……つまり、一度は彼女のクローンを生み出そうと考えたわけですね?」

「さあな。自分でも本気でそんな絵空事を考えていたかどうか……今となってはよくわからない。が、いずれにせよ、私の目論見は外れた。彼女の卵子──秀臣は『生命の実』などと、気取った表現をしていたか──は、奴の手によって、すでに破棄されたあとだった」

 ここまでのやり取りを聞いて、ふとある考えが浮かんだ。誉歴氏がこの流浪園を建てたのは、亡き妻の霊魂を鎮める為だったと言う。しかし、本当はそれだけではなく、彼女に対する()()の意味も込められていたのではあるまいか? 懇意にしていたユタの元を訪れたのも、「妻は自分を赦してくれているのか」「もしそうではないのならば、どのように罪を償うべきなのか」と言った相談を、する為だったのかも知れない。

 ミシミシ──メリメリと、またしても大きな家鳴りがした。抱え込んで来たありとあらゆる秘密をたった一人の余所者に暴かれ、流浪園が苦しんでいるのか。

 ──いや。

 今のは、本当に家鳴りだったのか? これまでとは()()()()()()()()に思えたのだが……。

 一瞬不思議に感じはしたものの、僕の意識はすぐに、目の前にある状況に引き戻される。

「そう言えば、繭田が瀬戸くんの実家の近くで、私の姿を見かけたそうだな。あれはおそらく、秀臣のことだろう。奴は今、滋賀県米原市の絵ノ洲と言う片田舎で暮らしているらしい。自分の取り上げた代理懐胎子や、元部下を気にかけ、隠居も兼ねて移住したようだ」

「……いろいろと答えてくださり、ありがとうございます。腕を負傷しただけの価値はありました」

「まさか、それだけで済むと思っているのかね?」

 昏い瞳の奥に、再び妖しげな光が灯る。

「君たちは、あまりにも知り過ぎた。自分で白状したのではないか──とは言わせないぞ。私にここまで語らせたのは、他ならぬ君だ」

「無論です。しかし、いくらこんな状況下にいるとは言え、無茶なことはできないでしょう。僕たちを抹殺し犯人の仕業に見せかける、と言うのも現実味に欠ける。……何より、本当に殺意があるのなら、刃の側面でぶつようなことなどせず、斬り付けるなり突き刺すなりできたはずです。そうしなかった以上、我々に危害を加えるつもりは、初めからなかったのではありませんか?」

 緋村の言う通りだ──とは思うのだが、だからと言って、安心も油断もできない。今すぐに何かされる恐れはなくとも、彼ほどの人物を敵に回してしまったことに、変わりはないのだから。

 案の定、軍神様の顔には、嗜虐的な笑みが浮かんでいた。

「それこそ、『無論』と言うものだ。先ほどは我を忘れてしまったが、今はもう冷静になったよ。すまなかったな。思わず折檻してしまって」

 その言葉が嘘ではないとアピールするかのように、彼は手にしていた得物を、実に無造作に放り投げた。抜き身の日本刀が、僕の足元に転がる──思わず飛び退いてしまった。

「君たちに手出しはしない……が、それはあくまでもこの島にいる間の話だ。外界へ帰った暁には、覚悟しておきなさい。持てる力の全てを使い、私に歯向かったことを後悔させてやろう」

 ありがちな脅し文句だと一笑する気には、とてもなれなかった。彼であれば、無名の学生を叩きのめす程度、片手間にでも可能だろう。社会的地位も、財力も、一芸大生風情とは桁違いなのだ。それこそ指一つ動かすだけで、いとも容易く抹殺されてしまうのではないか。そんなイメージが、怖ろしいまでのリアリティを伴って想起された。

「ご心配いただかずとも、すでに腹を括っていますよ。……とは言え、あなたの罪が立証されてしまえば、報復に怯えて暮らす必要もなくなる──かも知れない──わけですが」

「できると思うのか? よしんば君が何らかの証拠を掴んだとして、単なる学生の言葉など、誰が耳を貸すものか。目立ちたがりの狂人扱いされて終わるのが、関の山だろう」

 言いながら、彼はユックリと──しかし大股で──歩き始めた。

 軍司さんは実に悠然とした足取りで、陳列台の向こうへと回り込む。

「ここにいる者だってそうだ。君らと私、どちらの話を信じるかと尋ねたら、みな何と答えるか……もちろんわかるだろう? それだけ想像力に富んでいるのなら」

 隣りの部屋──薬品室に続くドアの大半が、彼の体で隠れる形となった。地獄から脱出する扉を守る門番と、対峙したような気分だ。

 緋村の想像は、見事なまでに的中していた。しかしながら、それを他人に対し立証する手立てはない。加えて、肝心の殺人事件の真相は、未だ解明できていないままである。この三度目の対決に、果たして意味はあったのだろうか? ただ悪戯に、寿命を縮めただけではないか? 僕は形容し難い虚無感のようなものに、呑まれそうになっていた。

 ──せめて、衣歩さんにこのことを伝えなければ。

 彼の悪意に満ちた「研究」がどこまで進捗しているのか定かではないし、もしかしたら、永遠に結実することはないのかも知れない。

 とは言え、明京流さんの精子はもうどこにも残されていないのだ。彼女の願いは、決して叶うことはない。ならばこそ──たとえ彼女を傷付けることになったとしても──真実を、伝えるべきだ。僕は密かに、そう決意していた。

「……最後に、これだけは教えてください。香音流さんのクローンを実現する準備は、どこまで進んでいるのでしょうか?」

「ふん」鼻から息を抜くように、笑う。「いいだろう。教えてやるとも。──結論から言えば、技術その物はとっくに確立されている。あとは幾つかのささいな問題を、クリアするだけだ。私の研究チームは、あと一歩で悲願を達成できる。……いや、すでにこの手に掴みかけていると言っても、過言ではないのだよ」

 その言葉がどこまで事実であるか、定かではない。が、少なくとも、全くの出鱈目と言うわけではないようだ。今すぐにとはいかずとも、そう遠くないうちに彼の野望は果たされる。そう思わせるに足る説得力が、その声、その態度の端々から感ぜられた。

「鮎子くんのお祖母さんが予言したとおり、私を止められる者は誰もいない。今から楽しみだ。もう一度、香音流と出逢える瞬間が……」

 彼の大きな手が、展示物の一つを掴み取った。初めてこの部屋で対峙した際にも弄んでいた、瓶詰めの嬰児だ。

 まるでその赤ん坊に、まだ見ぬクローンの姿を重ね合わせるかのように、瓶を目の高さまで掲げ、陶然と見つめる。彼はすでに、今は亡き息子との再会を確信しているのだろう。

 そして、ユタの予言したとおり、誰も彼を阻むことはできず、イヴはカインを産み落とすこととなる。彼女の切実な希いが蹂躙される様を、僕たちは指を咥えて見ているしかないのではないか──そんな昏い想像が、黒雲のように、瞬く間に膨れ上がった。

 僕は暗澹たる気持ちで、瓶詰嬰児を掴む男の姿を、眺めていた。緋村がどうしていたかはわからない。ただ、確かなのは、三人が三人とも黙り込んだ為、死体だらけの部屋の中に不吉な静寂が訪れたこと。そして──

 それは、そう長くは続かなかったことだ。


 突如、軍司さんの背後にある扉が、静かに開かれた。──彼の大きな体に隠れてその姿は見えなかったのだが、()()()()()()()()()()()()のだ。

 まるで亡霊のように、音もなく……。

 その為か、軍司さんは数拍遅れてそれに気付く。意外そうな表情を、一瞬だけ僕たちに見せながら、彼は背後を振り返った。

 ──直後、ウッと言う呻き声が発せられたかと思うと、彼の巨躯がグラリと揺らぎ、その手から瓶が溢れ落ちる。

 嬰児の標本は床にぶつかり、小さく音を立てて転がった。軍司さんは喫驚したように目の前に現れた何者かと、自らの胸の辺りとを交互に見比べる。その体の向こう側で、誰かが動く気配がした。

 と、思った時には、元産婦人科医の体から、鮮やかな真紅(あか)い飛沫が一筋、二筋と噴出され、空中で弧を描きつつ床へ注ぐ──これだけの出来事が、一分にも満たないほど短い間に巻き起こった。

「ウ……ウゥ……」

 唖然とし立ち尽くす僕の視界の中で、軍司さんは再び低く呻きながら、陳列台へ倒れ込む。今度は派手な音を立てて、標本の入った瓶やケースが、床へとブチまけられた。

 彼の体が沈んだことにより、ようやく闖入者の姿が露わとなる。

 その人物──()()は、黒いワンピースに身を包み、胸の前で、鮮血の滴る刃物を握り締めていた。体の前面に浴びた返り血の為に、その両手や折襟、わずかに覗く喉の白が、真紅の汚れに染め上られている。

 それだけでも十二分にオドロオドロシイ光景なのだが、そんなことは、この場合に限っては、大した問題ではなかった。

 ワンピースの襟元から生えた首の先にあったのは、本来そこにあるべきはずの物──人間の頭()()()()()()

 それは、黒い体毛に鎧われ、後方に向けて捻れながら生えた二つの角を持つ、獣の頭。


 ()()()()()だ。


 おそらく、隣りの薬品室にあった剥製を斬り裂き、無理矢理頭から被っているのだろう。黒山羊の顔は酷く歪んでおり、飛び出した二つの硝子の目玉は、今にも零れ落ちそうだった。

 実際の彼女の瞳は、山羊の首の辺りに作られた裂け目の向こう側にあるのが、辛うじて見えた。その昏く虚ろな双眸が、倒れ込んだ男に、酷薄な眼差しを注いでいる。

 そして、彼女の胸のすぐ真下には、赤く濡れたククリの刃が。ククリの刀身の根元にある窪みは、一説によれば、シヴァ神の陰茎を模した物とされる。──つまり。

 ()()()()

 今の彼女は、二つの性を同時に有し、黒山羊の頭を持つ悪魔──


 バフォメットが降臨した。

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