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流浪園殺人事件  作者: 若庭葉
第四章:魔獣の貌
82/108

19:鏡像

 時遡り、約一日前。

 渋沢たちの訪問を受けた日の夜、夕食を終えた秀臣の元に、今度は瀬戸夫妻が訪ねて来た。彼らは藍児の件で報告したいことがあり、やって来たと言う。

「家内と話し合って、警察に相談してみることにしました。一応、今朝電話した時はちゃんと出てくれたので、無事やとは思うんですけどね。ただ……やっぱり心配やと、こいつが言うもんですから」

 鉄次は心配げに、隣りを見やる。そこに座った美由紀は、青白い顔を俯け、落ち着かなそうに膝の上で指を動かしていた。場所は、渋沢たちが通されたリビングだ。

「何かあったのかい?」

 努めて穏やかな声音で、秀臣は問う。

「……さっき、家の用事で郵便局に行って来ました。その時、ふと気になって、あの子の口座の預金額を確かめてみたんです。榎園さんからいただいたお金を預けておいた、口座です。そうしたら……()()()()()()()()()()()()()……」

「本当かね?」

 思わず尋ねると、美由紀は背中を丸めるようにして、頷いた。

 当然ではあるが、藍児の口座を開設したのは育ての両親である。そして額が額であるだけに、二人の方でも管理が可能なよう、彼に渡した物の他に、予備のキャッシュカードを発行していた。そのカードを利用し──基本的に美由紀が保管していた──、郵便局に立ち寄ったついでに、預金額を確認したのだ。

「藍児からは、そんな話は聞いていませんでした──あの子のことやから、あんな大金を使うような機会があれば、事前に報告くらいしてくれたはずです。遺産相続の件にしてみても、私たちに何の相談もなく決めてしまったみたいですし……もしかしたら、何か事件に巻き込まれとるんやないかって、急に不安になって来て……」

「なるほど、それで……。藍児くんには、連絡してみたのか? 今朝は電話に出てくれたんだろう?」

「それが、どう言うわけか繋がらないんです。何度もかけたんですけど、ずっと電源を切っとるみたいで……」

 美由紀は再び俯き、両手を固く握り締めた。秀臣が何と声をかけてよいものか迷っているうちに、震えた声でこう続ける。

「もしも、あの子の身に何かあったんやとしたら……私、チヅちゃんに顔向けできません」

「事件性のあることとは限らないだろう。確かに心配ではあるが、必要以上に悪い風に考えることもあるまい」

「でも……」

「警察に相談するぶんには、もちろん賛成だ。彼を引き取った経緯に関して訊かれるようなことになれば、私からもキチンと事情を説明しよう。だから、ひとまず落ち着きなさい」

 気休めの言葉をかけるのが、精一杯だった。

 美由紀は曖昧な反応を示しただけで、さして勇気付けられたようには見えない。

 その細い肩に夫が手を添えると、ようやく彼女は冷静さを取り戻せたようだ。

「……取り乱してしまい、すみません。先生には、病院に勤めていた頃から、お世話になりっ放しですね」

「気にすることはない。私は君たち家族の味方だ。この手で藍児くんを取り上げた時から──いや、千都留さんの遺言に従い、代理母出産を行うと決めた時から、すでにそうなる心構えはできていた。私は私なりに、責任を取らねばならないんだよ」

 秀臣は、渋沢たちに嘘を吐いていた。本当は、何もかも知り及んでいたのだ。

 千都留が自殺した動機も。

 藍児が本当は、誉歴と千都留の子供であることも。

「……ありがとうございます。先生がいらしたから、私もチヅちゃんも、希いを叶えることができました」

「千都留さんの望みはわかるが、君もと言うのは?」

「……お話ししたことありませんでしたっけ? 私が代理母を引き受けたのは、自分の夢を叶える為でもあったんです」

 美由紀の細面に、奇妙な微笑が浮かぶ。思いも寄らぬ言葉と表情に、秀臣は戸惑いつつ、重ねて問うた。

「どう言う意味かな?」

 彼女はそれに答える代わりに、徐に眼帯の紐に手をかけ、

「おい、美由紀──」

 夫が止めるのにも構わず、それを外した。

 妻の左目の周囲に広がる痣が、露わとなる。

 細い眉の下から頬にかけて、肌が赤紫に変色していた。元医師である秀臣にとって目を背けたくなる、と言うほどではなかったが、本人が覆い隠したいと考えるには十分な大きさである。

 秀臣が美由紀の痣を目にするのは、久方振りのことだった。具体的に言えば、彼のクリニックで看護師をしていた時以来、だ。

 噂によれば、まだ看護学校に通っていた頃に同棲していた男のDVが原因で、一生残る痣を、刻まれてしまったらしい。そして、病院を辞めてからは、極力他人の目に触れさせぬように過ごして来たようだ。絵ノ州町で秀臣と再会した時、彼女はすでに眼帯をしていた。

「私、この痣のせいで、ずっと前から諦めていたんです……結婚も、出産も。でも、チヅちゃんはそんな私に、自分の子供を託したいと言ってくれました。夢を叶える機会を、与えてくれたんです。例えそれが、旦那さんに復讐する為やったとしても……とても、嬉しかった。自分の産んだ赤ちゃんを、この手に抱くことのできる日が来るなんて、思ってへんかったから」

「そうだったのか。だから、君は……」

 単に親友の頼みと言うだけではなく、彼女自身の望みでもあったからこそ、代理母になることを決心できたのか。

「……お見苦しいですよね。ごめんなさい」

「見苦しくなんてないさ。痣があろうとなかろうと、君は素晴らしい女性だと思うよ。──そうでしょう?」

 秀臣が水を向けると、鉄次は大袈裟なほど強く、頷いた。

「もちろんです。夫の私が言うんやから間違いありません。私も千都留さんに感謝せなな。こんなええ嫁さんをもらうことができたんやから」

「……そんな風に言われると、少し面映ゆいわ」

 彼女は照れ隠しのように、眼帯を付け直す。

「……実は、まだあの子には伝えられていないんです……代理母出産のこと。こんなことになるんやったら、ちゃんと言っておくべきやった。『あなたの遺伝上の母親は私じゃない。けれど、あなたを産んだのは、私なの』『あなたには、私とチヅちゃん、二人のお母さんがいてるのよ』って……」

「今度、ちゃんと話してあげたらいい。彼なら、きっと受け入れてくれるだろう」

「……はい」

 やはり、美由紀の不安を完全に取り除くことは、できなかったのだろう。彼女の返事は、酷く弱々しいものだった。

 とにかく、また何かあったら相談してほしいと言い、秀臣は二人を帰した。

 シンシンと雪の降る暗い庭を、夫婦は寄り添いながら歩いて行く。秀臣も表に出て、しばしその後ろ姿を見送った。──庭の入り口近くに停めてあった車に乗り込む間際、夫が妻を勇気付ける声が、聞こえて来る。


 二人の馴れ初めは、秀臣も知っていた。

 産まれたばかりの藍児を抱えて帰郷した美由紀に、頼れる者はいなかった。彼の出自があまりにも特殊である為、家族にさえ全ての事情を打ち明けることができず……結果、美由紀は父親のわからない子供を産み、連れ帰って来たことになってしまった。

 狭い町のこと、彼女の噂はすぐに広まったそうだ。

「東京でロクでもない男に引っかかったんやろう」だとか「どうも誰かの愛人をしていたようだ」と言う程度ならまだいい方で、中には「あの痣のせいで捨てられたんや」などと、心ないことを口にする者までいたそうだ。

 こうした事情から、美由紀はたった一人で、初めての育児に臨まなければならなかった。

 しかし、鉄次だけは違った。

 彼は町民たちの噂や偏見に流されることなく、美由紀に接したそうだ。

 どうやら、初めのうちは美由紀の境遇を見かね、幼馴染のよしみとして、いろいろと手を貸してやっていたらしい。それがいつの間にか、彼の方が先に好意を抱き、藍児が一歳の誕生日を迎える頃には、二人は夫婦となることを決めていたと聞いた。

 秀臣が絵ノ洲に移り住んだのは、彼らが結ばれる直前のこと。美由紀や赤ん坊の身を案じての移住だったのだが、鉄次の存在を知り安堵したことを、今でもよく覚えている。鉄次が純朴な人間であることはすぐに理解できたし、何より美由紀は彼の助けを必要としていた。

 ──この人なら、真実を知った上で、彼女を支えてくれるかも知れない。いや、彼女と結ばれ藍児くんの父親になるのならば、知っておくべきだ。

 そう考えた秀臣は、藍児の出生に隠された秘密を、知り得る限り彼に話した。言うまでもなく、秀臣の予想は当たり、鉄次は──戸惑ってはいたし、事情を呑み込むまで何度も質問を放ってはいたが──、ちゃんと受け入れてくれた。


 美由紀は、本当にいいパートナーと巡り会えたと、秀臣は思う。藍児が無事に育ち、大学に通い、好きだった絵の勉強をできていたのも、彼がいてくれたからだろう。特殊な経緯で形作られた家庭であっても、彼らは幸福だったはずだ。

 それなのに。

 藍児は誰にも何も告げずに、大学を辞めてしまったと言う。

 美由紀には心配するなと言っておきながら、秀臣自身も、俄かに不吉な予感を覚えた。もし本当に、藍児が何らかの事件に巻き込まれているとしたら……。

 ──まさか、()()()が関わっているんじゃないだろうな?

 玄関に入り靴を脱いだ秀臣は、左手の壁にかかっている鏡の前で立ち止まった。そして、そこに映る自らの鏡像を睨み付ける。

 自分と同じ顔貌(かお)をした悪魔の姿を、鏡面の向こうに幻視して。

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