17:もう手遅れだ
次の瞬間には、体を前に傾けた緋村が、苦痛の表情を浮かべていた。その左腕は、力なくダラリと垂れ下がっている。反射的に顔を庇ったのだ。
「大丈夫か⁉︎」思わず声を上げ、僕は彼に駆け寄った。
「……ああ。少し、調子に乗りすぎたよ」
自嘲するように笑い、すぐにまた顔を歪める。おそらく、刃で斬り付けられたのではなく、刀身の側面で殴打された──謂わゆる平打ちをされたのだろう。服の上から見た限りでは、出血している様子はなかった。が、そうでなくとも骨に異常を来している恐れはある。
早く、織部さんに診てもらうべきなのだろうが──それにはまず、この場を切り抜けなくてはならない。
僕は恐々と、背後を振り返る。
軍司さんは、怒りが暴発した反動の為か、広い肩を上下させ、荒い息を繰り返していた。灰色に見えていた顔が今は赤黒く紅潮しており、見開かれた瞳は、焦点が定まっていないのではないかと思われた。
激憤のあまり、気が触れてしまったかのようだ。
「……お、お前のような、若造、が……この私に、説教を垂れる、のか? ……ええ? ……何が、正しいことを、していない、だ……罪が門口で、待ち受けている、だと? そんな、こと──そんなこと、お前に言われずともわかっているんだよ!」
ようやく息が整って来たと思った直後、再び怒声を上げる。やはり、彼の怒りは容易に鎮まりそうにない。
「……わかっている? それはつまり、僕の話が事実だと、認めてくださるのですね?」
「ああそうだ! 認めてやるとも!──お前の並べ立てた指摘は、何もかも全て的中している! 腹立たしいことにな!」
相当頭に血が上っているのであろう。でなければ、これほどの罪状を突き付けられて、おいそれと認められるはずがない。
あまりにも劇的な状況の変化であるが、しかし「急転直下」とは言えなかった。むしろ、より深い闇の中へ迷い込んだかのような──気付かぬうちに、迷宮の最深部へと辿り着いてしまったような気分だ。
無論、そこは終着地点であり、出口ではない。
「そ、それじゃあ、軍司さんは本当に、衣歩さんを騙していたんですね? 衣歩さんに協力するフリをして、香音流さんのクローンを産ませようと……」
思わずそんな問いを口にする。が、自分で声にするうちに怖ろしくなり、語尾が窄んでしまった。
「いかにも。実に合理的な発想だと思わんかね? 香音流を侮辱したことへの復讐と同時に、彼の望みを叶えてやれるのだから」
「彼の、望み?」
「香音流はずっと、人に“愛されること”を渇望していた。特に、衣歩くんからの愛を。……彼女の子供として生まれ変わることができれば、その望みは果たされる。愛さずにはいられないはずだ。衣歩くんにとっては、自ら腹を痛めて産んだ赤ん坊、なのだからな。
それに、他の者にしてみても、衣歩くんの子供とあれば丁重に扱うはずだ。少なくとも生前のように、示し合わせて黙殺するような真似はしまい」
つまり、彼が今度こそ愛されるように、その生まれ変わりたるクローンを、彼が想いを寄せていた女性に産ませようと言うのか。なんと言う、異常なロジックだろう。
他人からの愛情とは、そうまでしなければ得られないものなのか? 僕には理解できなかった。
「彼女の名前は衣歩だ。イヴがカインを産むのは、実に自然なことだと思わないか?」
「……そんなことをしてほしいと、本当に香音流さんが望んだのですか?」
唖然とし二の句を継げない僕に代わり、緋村が問うた。
「無論だとも。衣歩くんに愛されることも、生まれ変わることも、どちらも香音流の遺言だ。──私は、直に頼まれたのだよ。香音流の入院していた病室で」
香音流さんが「オトウサン」と呼んだ人物は、やはり彼だったのだ。そして、自らの死を悟ったカインは、見舞いに訪れた実の父親に、最後の希いを託した。
「香音流は、本当の父親が私であると、以前から察していたらしい。だからこそ、鮎子くんに告白されたことや、裸婦画の一件などを、私に打ち明ける気になったのだと、言っていたよ。
そして、榎園くんから寄越された絶縁状にも、このことが記されていた。見せてもらったあとで、香音流の許可を得て処分してしまったがね」
「……なるほど。絶縁状を読み、予感が確信に変わったわけですか」
織部さんの聞いた「ずっと、そうだと思っていた」と言う呟きには、軍司さんとの関係も含まれていたのかも知れない。
「香音流の望みは、クローンとして生まれ変わること……そして、今度こそ愛されることだった。死に行く我が子の最後にして最初の頼みだ。私は即座に返事をしたよ。『必ずや、叶えてみせる』と」
「……だからと言って、幾らなんでもそんなやり方はないでしょう。たとえ香音流さんが、自身のクローンや、愛されることを望んでいたのだとしても、かつて恋い焦がれた女性を苦しめるような方法を選ぶとは、思えない。本当は、衣歩さんを騙す必要などなかったのではありませんか?」
「何とでも言うがいい。どの道、もう手遅れだ。……衣歩くんの要望で採取した明京流くんの精子は、一片たりとも残されてはいない。彼の死後すぐに、私が破棄してしまったからな。──その代わりに、香音流の精巣から回収した精子を、凍結保存してある。明京流くんの物だと偽って」
「……なるほど。クローンが成功しなかった、あるいは衣歩さんの体外授精に間に合わなかった時の、『保険』と言うわけですか。計画を完遂できずとも、最低でも香音流さんとの子供──あなたにとっての孫を産ませる。そう言う腹積もりだったんですね?」
彼女に協力する気など、毛頭なかったと言うわけか。この男はただ、自らの中で肥大した狂気を満たす為だけに、一人の女性の決意を、利用するつもりだった。
衣歩さんの切実な希いでさえ、この人にとっては、単なる道具でしかなかったのだ。
「事実を知った衣歩さんがどれほど悲しみ、絶望するか……想像できないはずがありません。千都留さんと同様に、自ら命を絶ってしまう可能性だって、十分に考えられる。あなたはまたしても、罪のない女性を死に追いやろうとしているんだ」
「……ほう。気付いていたのか」
「ええ……。千都留さんの自殺は、軍司さんの卑劣な行為が元凶だった。人工授精に用いられた精子が、本当は誰の物だったのか、千都留さんは知ってしまったんです。そして、その恐ろしい事実に耐えることができず、彼女は自ら死を選んだ。言うなれば……千都留さんを殺した犯人は、あなたです」
腕の痛みを堪えている為か、それとも激しい嫌悪の表れなのか。言い放つ緋村の声は、わずかに震えていた。
そして、額に大粒の脂汗を浮かべた彼が睨む先で、軍神の表情に奇妙な変化が現れる。まるで、何か思いも寄らぬ出来事に遭遇したとばかりに、青年の姿をまじまじと凝視していたのだ。
「……まさか、正夢になるとはな」




