14:最終ラウンド
稠密なる晦冥の中、初めに蘇ったのは、ある男の声だった。
──残念だが、兄貴の望んでいる物は、ここにはない。……いや、もうこの世界のどこにも存在しないんだ。“生命の実”は、すでに俺が破棄してしまったからね。
嘲笑うのではなく、肯んじない相手によく言い聞かせるかのような語調。あるいはまた、末期の癌患者に余命宣告をするようでもあった。
次第に、闇が薄れて行く。
ほどなく眼前に現れたのは、水中から空を見上げるような、不鮮明な景色。
実に簡素な応接室の中で、彼はその男と対峙していた。
自分と全く同じ顔を持つ、唯一の肉親と。
それは、言うまでもなく過去の記憶のワンシーンに過ぎず、何の脈絡もなく現れたかと思うとまた、何の前触れもなく揺らめき消える。
──私、本当に先生のことを尊敬していたんですよ? 私と誉歴さんの希いを叶えてくださった、神様みたいな人やって。……でも、本当は違ったんですね。先生はご自分の都合だけで、私たち夫婦を弄んだんや!
次もまた同じように声が聞こえ、続いて違う場面が意識のスクリーンに投影される。それは、最初に現れた記憶よりも少し前の出来事。場所は、彼の家の玄関だった。
──悪魔!
彼女は靴を脱いで中へ上がろうともせぬまま、泣き叫ぶかのように彼を面罵した。
再び、幻影がボヤける。
次は、いつのどの場面が再生されるのだろう? この記憶映像の主演である彼自身でさえ、予想することは困難であった。
最後はこれまでとは違い、誰の声も響かなかった。ただ、出し抜けに映像だけが、目の前に展開される。
それがいつの記憶なのか、奇妙なことに、彼にもわからなかった。それもそのはずで、最後の一場面だけは、彼の記憶には存在するはずのない物──謂わば未体験の追想である。
そのありもしない記憶の中には、青年が一人佇立していた。わずかに目にかかる長さの黒い髪と、やけに生ッチロい肌をした、小生意気な面構えの小僧。
緋村奈生だ。
緋村は──均整の取れた顔立ちには不釣り合いなほど──、スルドい眼光を彼に向け、何かを告げた。音声はなかった為、何と言ったのかは定かではない。しかし、その唇の動きは、彼にはこう言っているようにしか、思えなかった。
──犯人は、あなたです。
彼が反駁を試みた途端、緋村の姿は色の混ざった煙となって、搔き消えてしまう。
再び目の前に広がった無辺の晦冥の中を、彼は揺蕩っていた。裸の体を小さく丸めて。
服を着ておらずとも少しも寒さは感じず、それどころか暖かなお湯の中を潜っているかのように、心地がよい。
──羊水か。俺は今、きっと母の胎内にいるのだ。そして、子宮を出、体を旋回させながら産道を突き進み、膣口から外の世界へ産まれ落ちるその日を、今か今かと待ち侘びているのだろう。
何故かそう確信し、体を震わせたところで。
彼──軍司将臣は目を醒ました。
※
背もたれに預けていた体を離し、軍司はわずかに首を振った。眠っていたのはごく短い間のはずだが、とても永い夢を見ていたような気だるさを覚える。
椅子の上で寝てしまったのが悪かったのかも知れない。──あるいは、微睡みの中に現れては消えて行った、幻影たちのせいか。
昔のことを思い出すのは、ずいぶんと久しぶりだった。
酷く喉が渇いており、口の中で嫌な味がする。彼は傍らのテーブルへ大きな手を伸ばし、コニャックの瓶を掴むと、わずかに飲み残していたそれを一気に呷った。が、寝覚めに呑むアルコールでは、渇いた喉を潤すことなどできるはずもなく、余計に気分が悪くなっただけだった。
ひとまず、眠気覚しに顔を洗おう。ようやく椅子から立ち上がった彼は、そこであることに気付く。
ドアの前に、何か紙切れが落ちているのだ。
それはコンビニで売られているようなありふれたメモ帳のページを切り取った物だった。位置からして、軍司が居眠りをしている間に、ドアの下の隙間から、誰かが差し込んだようだ。
足を止めた彼は、バスルームに向かうのをやめ、顔を洗う為の水の入ったペットボトル──ではなく、その紙切れを拾い上げる。
訝りつつ裏返すと、そこにはなかなか達者だが、同時にせっかちそうな文字で、意外な内容が書かれていた。
先ほど衣歩さんから、興味深いお話を伺いました。つきましては、改めて軍司さんに、僕の考えをお聞きき願いたいと思っております。
この手紙をご覧になりましたら、標本室までお越しください。
緋村
読み終えると同時に、彼は持っていた紙切れを握り潰した。拳骨を固めた右手が、込み上げる怒りと嫌悪感で震える。
──あのこまっしゃくれた餓鬼め! 私との約束を違えたな!
手の中でクシャクシャになったゴミを無造作に放り捨てると、軍司は大股で部屋の奥へ引き返す。そして、先ほどまで体を預けていた籐椅子の背もたれを両手で掴み──気の触れたような雄叫びとともに、力任せにそれを持ち上げた。
彼の癇癪の犠牲となったのは、振り向いた先にあった本棚であった。軍司が容赦なく椅子を叩き付ける度、本棚は呻き苦しむように軋み、中にしまわれていた物を吐き出す。
その中には、マルスの首像も含まれていた。
床にぶつかったその像は一度だけ小さく跳ねると、わずかに転がったのち、停止する。棚に飾られていた時には見えなかった青年の顔の反対側が、天井を向いた。
そこにあったのは、精悍な英雄の横顔などではなく──激憤のあまり醜く歪んだ、スサマジイ形相。
魔獣の貌だった。
ちょうど、今の彼と同じように……。
ひとしきり狂乱に耽った軍司は、ようやく吼えるのをやめ、ゼエゼエと、荒い息を整える。その周囲には本棚の中身や、砕け飛んだ籐椅子の脚などが、無惨に散乱していた。
壊れた椅子をぞんざいに放り棄てると、軍司は空になった手で、乱れた髪をかき上げた。
クッキリと青筋の立った広い額が、露わとなる。
彼は散らかった物を片付けることなく、体の向きを変えた。
その視線の先には、今し方の発狂の影響で床に倒れた、一振りの日本刀が。
──灸を据えてやらねばならない。単なる学生の分際で、この私を虚仮にしたことを、後悔させてやろう。
ベッドの脇に向かい、得物を拾い上げた彼は、想像の中の青年を睨め付け、踵を返す。そのまま肩を怒らせて、まっすぐにドアへと向かった。
日本人離れしたその造作からは、今やいっさいの表情が消え失せており、先の尖った耳も相まって、西洋の悪魔を象った石像の如き迫力を、醸し出していた。
※
「本当に、そんなことがあり得るのか?」
標本室にて。
軍司さんを待つ間に緋村の考えを聞いた僕は、そう尋ねずにはいられなかった。彼の推理の中で突飛な発想が現れることはままあったが、今回の話はこれまでとは比べ物にならない。俄かには信じられないどころか、事実ではないことを願いたくもあった。
「自分でもおかしなことを言っている自覚はあるさ。ただ、もし事実だとすれば見過ごすわけにはいかねえ。だからこそ直接確かめる為に、先生を呼び出したんじゃねえか」
緋村は陳列台に並んだ種々様々の標本たちを見下ろしながら、僕の問いに応じる。彼はアルコール漬けの胎児を詰めた瓶──この島へ来てすぐ話を伺った際に、軍司さんが弄んでいた物──を、手に取った。
「もし君の考えが正しいとしても──いや、そうであれば余計に──、簡単に認めてくれるとは思えない」
「そこはどうにかして口を割らせるよ。……けど、案外あのことを指摘すれば、スンナリ白状してくれるかも知れないぜ?」
「大した自信だな。僕は不安で胃が痛くなって来たよ」
「胃薬でももらって来てやろうか?」
「いらないよ」思わず溜め息が出る。「行き違いになったら困るだろ。僕一人で軍司さんの相手が務まるわけがない。……あの人と対決するのは、やっぱり君の役目だ」
「軍神様との最終ラウンドか。血が滾るな」
思ってもいないクセに。
呆れたが、俄かに緊張がほぐれた──のも束の間。
硬質なノックの音が、室内に降って来る。
「噂をすれば、お出でなさったようだ……」
少々強張った笑みを浮かべ、緋村は瓶を元の場所へ置く。
僕たちが応えるよりも先に、ドア越しに低い声が響いた。
「……私だ。要望どおり来てやったぞ」
戸口から現れた彼の顔を見た瞬間、正直に言って、僕は後悔した。どうにか緋村を説き伏せ、あんな挑発的なメモなど書かせなければよかった、と。
表情の消え失せた顔の中で、僕たちの姿を等分に捉えた黒眼だけが、激憤のためにギラギラと輝いていた。体中から放出される怒気が、ドス黒い陽炎の如く揺らめいて見える──ような気がした。
かつてこれほどまでに、他人から憎悪の念を向けられたことが、果たしてあっただろうか?
「お待ちしておりました。ご足労いただき恐縮です」
平然と言ってのける緋村に、軍司さんは蝿でも振り払うようなジェスチャーをする。
「能書きはいい。本当にこの部屋にいたと言うことは、私を裏切ったことも事実のようだな」
「衣歩さんにお話を伺ったことですか? 別に、初めから約束を違えるつもりだったわけではありません。ただ、流れでそうなってしまったと言うだけです」
「いけしゃあしゃあと……。わざわざあんな手紙を寄越して私を呼び出したんだ。覚悟はできているのだろう?」
「もちろんです──が、お怒りになる前に、ひとまず僕の話を聴いていただけませんか?」
「生憎だがそんな義理はない。これ以上、私を愚弄すると言うのなら……」彼は徐に、携えていた刀を体の前で掲げ、「少々痛い目を見てもらうしかないな」
言うが早いか、とうとう得物を鞘から引き抜いてしまった。
時代劇や任侠映画のワンシーンのように、金属の擦れる音が響き、鈍色の刃が露となる。彼は恐ろしげな笑みを浮かべ、不要だとばかりに、鞘を放り捨てた。
「さすがに十分手入れされているとは言い難いが……それでも、力尽くで突き刺すくらいなら可能だろう」
「恐ろしいことを仰りますね。名医だった人間の言うこととは思えない。……いや、あなたはもっと以前から、医療に携わる者としての資格を、失っていたのではありませんか?」
「なんだと?」
「軍司さん。あなたは今から二十七年ほど前、自らの権力と技術を悪用し、ある夫婦の希望を踏み躙った。そして現在、再び同じことを成し得ようと目論んでいる」
緋村が言い放った途端、元産婦人科医は不快げに眉根をひそめた。灰色の石像じみた表情が、俄かに漣立つ。
「……何が言いたい」
「おや、聞く耳を持ってくださったようですね。──しかし、その話をする前に、先にこれだけは確認させてください」
言葉を差し挟む隙を与えず、間髪入れずにこう続けた。
「香音流さんの本当の父親は、あなたですね?」
その瞬間、ひときわ大きな家鳴りが響いた。あとになって思えば、この時すでに、崩壊の足音は着実に近付いていたのだ。




