11;聞いてしまったんです
ドアを閉め、部屋の中に向き直る。昨日と同じ毒々しい色の西陽が、彼女の背後にある窓から差し込み、室内にある物を手当たり次第に燃え上がらせていた。
窓辺に佇む幸恵さんの赤い髪や、彼らの様子を見守る楡さんの横顔が、朱の色を浴びて眩しいほどだ。
──逢魔が刻。そう呼ぶに相応しい妖しげな夕景をまともに見てしまい、僕は目を細める。
と、同時に、こちらに背を向けた緋村が、無感動に声を発した。
「夫婦水入らずのところをお邪魔してしまい、すみません。なるべく早く済ませます。──まず、初めに白状しておきますと、僕たちは神母坂さんのよくない噂について、すでに本当の内容を知っています。つい今し方、東條さんに確認を取って来ました」
いきなりその話題から入るのか。
当然ながら、楡夫妻は驚愕を露わにする。それから妻は非難するような眼差しを、僕と緋村に注ぎ、夫は困惑した様子で額に手を当てた。
「ち、ちょっと待ってくれ。それはつまり……昔、鮎子さんが彼に何をしたのか、知っとるっちゅうことか?」
「ええ。やはり、楡さんもご存知だったのですね?──幸恵さんは」
「知っています」硬い声で、彼女は首肯した。「衣歩ちゃん以外には、周知の事実やったと言ってええでしょう。香音流くんの言動から察するところがありましたし、神母坂さんも、そんなことを匂わせることがあったので……。けれど、それが今回の事件と、どう関係していると言うんです? まさか、今更誰かが香音流くんの復讐の為に、あの女性を殺したとでも?」
「それは考え辛いでしょう。被害者は神母坂さんだけではありません。……とは言え、みなさんが四年ぶりにこの島に集まったタイミングで事件が起きたことも、事実です。当然我々としては、みなさんの関係や過去について、関心を寄せざるを得ません。もし、まだ我々の知らされていないことがあるのなら、ここで教えてくださいませんか?」
彼は至って真摯な口調で、二人に問いかける。
幸恵さんはその眼差しから逃れるように、目を伏せた──まさか、迷っているのか?
「そんなこと言われてもなぁ……私が知っとることは、もうみんな話してもうたわ。なぁ、せやろ?」
「…………」
「幸恵?」
夫の声には応じず、彼女は赤い唇を噛み締める。
「何か、思い出されたご様子ですね」緋村はそれを見逃さなかった。「どんなことでも構いませんので、ぜひお聞かせください」
まるで耳元でソッと囁くような、静かな声。僕は何故か──しかし自然と──、イヴを唆す蛇を想起する。
「でも……」
彷徨う彼女の視線が、ほんの一瞬だけ、夫に留まったように見えた。それは蛇も同様だったのだろう。抜け目なく、さらにこう囁く。
「楡さんには、席を外していただきましょうか。その方が、話しやすいようですから」
「え? まあ、それは別に構わんが……」
「では、お話を聞き終えたら声をかけますので、それまで部屋の外で待っていてください」
院長は戸惑いを隠せない様子だったが、それでもリクエストに応えてくれた。「ほんなら、また……」と彼が出て行ったのを見送ってから、僕たちは改めて、彼女に向き直る。
「楡さんと、関係のあることなんですね?」
「……そうです。私には、長い間夫に確認できずにいたことがありました。……この話をするのは、お二人が初めてです」
横髪を右耳にかけた幸恵さんは、ぽつぽつと、その疑念について語り始める。
「……今から四年前──明京流くんと香音流くんが落雷に遭った、すぐあとのことです。二人とも別々の病院に入院しとって、明京流くんのところへは、毎日誰かしらお見舞いに行っていました。けど、香音流くんの方はちゃうかった。誉歴さんの意向やとか、衣歩ちゃんに狼藉を働こうとしたことなんかもあって、みんな彼の元へ行くんを、避けとったんです。……もちろん、私も……私も同じように、彼を黙殺していました。
それやのに、ある時、唐突にこう思ったんです。『一度くらいお見舞いに行ってあげな、香音流くんが可哀想やないか。私は彼の親戚なんやから』って。……呆れてまうでしょう? そんなん当たり前のことやのに……その時まで、全く思い至らんかったなんて」
「つまり、幸恵さんも、本当はお見舞いに訪れていたわけですか」
「はい。……次の日、退勤したその足で、病院まで行きました。お土産に、喉を通りやすそうなゼリーを買うて……。それで、受付で病室を訊いて、そのドアの前まで来た時でした。中から、香音流くんの声が聞こえて来たんです。──香音流くんが誰かと話しとるんやと、すぐに気が付きました。私は、今入って行ってもええんかわからんくなって、少しの間、病室の外で立ち尽くしていました。まさか、自分の他に誰かが見舞いに来とるやなんて、思わんかったので……。けれど、本当に驚いたのは、そのあとです」
扉の前で立ち竦む彼女の耳に、直後、意外な言葉が飛び込んで来たと言う。
「何を話しとったのかは、判然としません。ただ、香音流くんが一方的に喋っているような雰囲気でした。それで、どうにも気になって耳をそばだてた時──聞いてしまったんです。香音流くんが……『基雄さん』と言ったのを」
基雄さん? それでは、その時病室にいたのは──
「話し相手は楡さんだった、と言うことですか? たまたま同じ日に、楡さんも彼の見舞いに訪れていた、と?」
彼女は首肯した。
「そうやったみたいです。……もちろん、香音流くんのお見舞いに行くなんて話は、全く聞いていませんでした。私はその時──話し相手が夫やと気付いた時──、何か聞いてはいけない物を聞いてしまったような気がして、すぐにその場から離れました」
それ以来、彼女がその病院を訪れることはなかったと言う。その翌日から香音流さんの容態が急変し、間もなくこの世を去ってしまったからだ。
「香音流くんに続いて、すぐに明京流くんも亡くなってもうて……二人の葬儀やら何やらでバタ付いているうちに、夫に確認する機会を逃してしまいました。……それに、真実を知るのが怖かったのもあります」
「どうしてですか?」
「香音流くんは、あの人に何かを頼んどる風やったんです。『お願いです』って言うてたのも、辛うじて聞こえましたから……。香音流くんが亡くなったのは、それから五日後のことでした。当時、私はどう言うわけか、彼が夫に『楽にしてくれと依頼したんやないか』と、考えてもうて……」
「楽に……つまり、これ以上苦しまずに済むよう、自分を安楽死させてくれと、依頼していた?」
「実際のところはわかりません。けど、どうしてもそんな考えが頭を過ぎりました。自分でもアホらしい発想やとは思います。でも、とにかく夫にその話をする気には、なれへんかった。そう言うわけですから、私はあの時聞いてしまった会話については、忘れることにしたんです」
そうして彼女が記憶の片隅へと追いやった疑念を、たった今、僕たちが呼び覚ましてしまったわけか。
これまた思いも寄らぬ展開だ──と感じると共に、一つだけ納得したことがある。彼女の整形手術のオーダーを楡さんが却下した際に、飛び出したセリフだ。その時、幸恵さんは「私の要望は聞き入れてくれへんねや」と院長を詰ったそうだが、あれはおそらく、「香音流さんの望みに応じ彼を安楽死させたのではないか」と言う考えが頭にあった為に、思わず口にしてしまったのだろう。
無論、当人でなければ確かなことはわからないし、そもそも香音流さんの見舞いに来ていたのか本当に楡さんだったのかさえ、定かではないが……。
──ピシリ、ミシミシと、大きな家鳴りがしたところで、緋村はようやく口を開いた。
「香音流さんの死には、何か不審な点があったのですか?」
「いえ、そんな話は聞いたことがありません。おそらく、落雷によってダメージを受けた体が、限界を迎えたのかと……」
「なら、楡さんは何もしていないと考えていいでしょう。だいいち、本当にそんなことを頼まれていたとして、引き受けるとは思えません」
「それは私もわかっています。わかっては、いるんですが……」
「この件に関しては、直接ご本人に確認させてもらいます。もちろん、幸恵さんが偶然耳にしてしまったと言う点は、伏せて」
「……そうしてください」
「他には何かありませんか? また四年前のお話でもいいですし、最近のことでも構いません」
幸恵さんは頭痛を堪えるかのように、軽く握った手でこめかみを押す。
「そう言えば、二週間ほど前の日曜に、神母坂さんのご自宅に招待されたそうですね。その際、何か普段と違う様子はありませんでしたか?」
「……わかりません。何かおかしなことがあった気がしたんですが、思い出せんくて……。あるいは、あの予言のせいで、そんな風に感じてもうたんかも」
「衣歩さんが聞かされたものと同じ内容でしたか? それとも」
「違います。……夫とのことを言われました」
──そう遠くないうちに、夫婦の仲を修復することができる。
──そして、新たな愛の巣を得、仲睦まじく幸せに暮らす。
そんな幻影が夢の中に現れたと、ユタの孫は語ったと言う。
「予言なんて大袈裟なもんやなく、単に励まされただけかも知れませんね」
そう言い添えて、彼女は力ない笑みを浮かべた。意外なことに、神母坂さんの「予言」を不快がっている様子はなく──もしかしたら、彼女は夫とヨリを戻すことを望んでいるのではないか、と僕は感じた。だとしたら、そちらの「予言」に関しては、是非とも的中してほしいものだ。




