10:哀しいこと
緋村が来意を告げると、ほどなくしてドアが開く。
「まだ何か? 僕に話せることは、もうないと思うんですけどね」
戸口に立った東條さんは、迷惑そうに肩を竦める。正直に言って、予想どおりの反応だ。
「お時間は取らせませんので、あと二つほど、確認させてください」
「……わかりました」
ドア枠に寄りかかりつつ、「どうぞ?」と促すかのように、返した右の掌を上下させた。
「半年前、カフェで神母坂さんを見かけた際一緒にいた若い男性ですが、龍ではなく蛇のタトゥーをしていたのではありませんか?」
「さあ? もう半年も経ってますし、よく覚えていませんよ。まあでも、言われてみれば、あれは蛇の絵だったのかな」
「では、もう一つ。神母坂さんのよくない噂がどう言った内容なのか、東條さんはご存知なんですよね?」
「そりゃあ、そうですけど……言ったはずですよね? 僕の口から話せることではないと」
「ええ、覚えていますよ。東條さんに教えていただきたいわけではありません。ただ、僕の考えが正しいかどうか、確かめたいんです」
「へえ、それじゃあ何か思い付いたわけですか。……わかりました。イエスかノーかくらいは、お答えしますよ」
「ありがとうございます。では、単刀直入にいかせてもらいます」
それに続く緋村の言葉は、僕にしてみても予想外の物だった。
「香音流さんは──幼い頃、神母坂さんに悪戯をされたことがあるんですね?」
瞬間、東條さんは絶句した。唖然とした表情を浮かべた顔から、見る間に血の気が引いて行くではないか。
その反応は緋村の発言が見当違いなどではない──それどころか、事実であると認めたに等しく、そのことがまた輪をかけて意外だった。
「やはり、そうなんですね。確認できてよかった。お休み中のところを邪魔してしまい、すみませんでした」
「ち──ちょっと待ってください!」
言うだけ言って踵を返した彼を、東條さんは、血相を変えて呼び止める。
足を止めた緋村は、廊下まで出て来た画商の姿を、肩越しに振り向いた。
「……どうしてわかったんですか? もしかして、本当は誰かから聞き出していたとか?」
「違います。もしそうなら、わざわざ確かめはしません。──ただ、軍司さんから伺ってはいましたがね。香音流さんが神母坂さんの裸婦画を描いたと言う話を。初めはそれが噂の正体なのかと思いましたが、しかしそこまで頑なに口を閉ざすほどのことなのかと、少々疑問でもありました。……そんな折、衣歩さんから気になる証言を得たんですよ」
神母坂さんの体には自傷行為によってできた古傷があり、それを隠す為に、年中長袖長ズボンで過ごしていた。にもかかわらず、香音流さんだけはその傷を目にしたことがある──と、幼い彼に教えられたと言う。
「衣歩ちゃんから……? まさか、僕らとの約束を違えたんですか?」
東條さんは顔を引き攣らせ、笑み浮かべた。それは呆れと憤慨と驚愕がいっぺんに引き起こされたような、混沌とした表情だった。
「申し訳ありません。どうしても彼女に話を伺う必要があると感じたもので」
「い、いや、なんでそんな──まるで詐欺じゃないか! だいいち、先生がそのことを知ったら」
「覚悟の上です。なんでしたら、これから報告するつもりですし」
「はあ? 報告? な、何を言っているんだ……?」
「ひとまず、話を戻しますが──香音流さんは、小学生の頃に神母坂さんの体にある古傷を目にしている。そして、彼は彼女をモデルにして裸婦画を描いたことがあり、それを知った誉歴氏は激怒されたそうです。これらのエピソードを繋げ合わせた結果、僕はある種の性的虐待が行われていたのではないかと考えました。……東條さんも、このことをご存知だったからこそ、『人間失格』を引き合いに出したのでしょう?」
緋村が尋ねたところで、僕は思い出す。『人間失格』の作中には、主人公が幼少期に性的虐待を受けていたことを仄めかす文章が、現れることを。第一の手記の中で、主人公・大庭葉蔵は、女中や下男から「哀しいこと」を教えられ「犯されていた」と回顧しているのだ。
そもそも、筆者の太宰自身が、そうした被害に遭っていた可能性が指摘されている。『人間失格』以外の作品にも、少年への性的虐待を示唆する文章が散見されるし、友人に対して「初体験の相手は女中だった」と語ったこともあったそうだ。
「……確かに、鮎子さんはそう言う悪戯を彼にしていたようです。と言っても、どの程度まで進んでいたのかは、わかりませんがね。僕たちが気付いたのは、何年も経ったあとでしたから。──ただ、お察しのとおり、例の裸婦画は、香音流くんがまだ小学生の頃に描いた物だそうですよ。……あの屋根裏部屋の中で」
──彼らは先ほど君たちも入った屋根裏部屋で、愛を育んでいたんだ。
嘲弄を含んだ声が蘇る。
軍司さんは全てを知った上で、二人の歪んだ関係を揶揄し、あんな言い方をしたのだろう。
「でもね、『人間失格』を引き合いに出したのは、何もそれだけじゃありません。他にも、重なる部分があるんですよ。画家を志していたのもそうですし、彼は無理に剽軽者を装っていたようですから。僕たちみたいな、周囲の人間──特に大人の目を怖れるあまり、自然とご機嫌取りをしていたんでしょう」
そこまで言うと、彼は一つ息を吐き出し──またしても、肩を竦める。
「残念ながら、香音流くんのお道化は、あまり評判がよくありませんでしたけどね。それに、彼は大庭葉蔵のように、モテてはいなかった。それどころか、まともに女性と交際した経験すらなかったはずです。もしかしたら、彼は童貞のまま死んだのかも知れません。そう言った意味では、香音流くんは非常にもったいないことをした。あんな美女に好意を抱かれたのだから、素直に受け入れればよかったんだ。率直に言って、烏滸がましくさえ感じますよ。──そうは思いませんか?」
緋村は答えなかった。
その代わりに、しばし無言のまま、彼の姿を見返していた。どこまでも昏く、醒めきった黒眼で。
その冷ややかな眼差しは、侮蔑しているようにも、必死に怒りを抑え込んでいる風にも見える。今にも詰め寄って胸倉を掴むくらいはするんじゃないかと肝を冷やしかけたのだが、結果としては、要らぬ心配であった。
「……いいえ、全く。たとえ加害者が美女だろうと、許されない物は許されない。彼は確実に傷付いていたんですから。……香音流さんは、奇形のアゲハチョウを自らの境遇と重ね合わせ、『分身』と呼んでいたはずです。蛹のうちに触れてしまったせいで、歪んだ姿で羽化した蝶と、性的虐待を受けていた自らの過去が、重なってしまったんだ」
幼き日の香音流さんが、蛹にしたのと同じことが、彼に対しても行われていたのだ。自然と「成虫」になるのを待ちきれなかったが為に、羽ばたくことさえできなかったアゲハチョウは、まさしく彼の「分身」に他ならなかった。
だからこそ、香音流さんはその標本を、屋根裏部屋に飾ったのだろう。
「つまり、あれは彼なりの救難信号だった。彼はずっと、誰かの助けを求めていたんです。それなのに、どうしてみなさんは、彼を黙殺するような真似をしたのですか? 性的な悪戯のあったことを察知していながら──どうして誰も、手を差し伸べてあげなかったんですか!」
初めのうちは静かな声音だったが、次第に怒気が滲み出し、最後はいつになく声を荒げていた。真っ向からの否定──糾弾とも取れる言葉を受けた男の顔から、笑みが消える。
暫時、二人は睨み合うような形となった。ここはひとまず緋村を宥めるべきかと考えた時、客室のドアの一つが開く。
「なんや今の声は。また何かあったんか?」
緋村の怒声を聞き付けたらしく、楡さんが廊下に現れる。
ただし、彼が出て来たのは自室ではなく、幸恵さんの部屋だった。そのことに気付いた僕は、食堂で会った時に「声をかけてみる」と言っていたのを思い出す。
「なんでもありません」緋村が答えた。「意見が食い違った為、少々白熱してしまっただけです。お騒がせしてすみませんでした。──東條さんも、怒鳴ってしまい申し訳ありません。この話は、これで終わりにします」
一方的に言うと、彼は美容外科医に向き直り、
「ところで、楡さんにお訊したいことがあるのですが、今からでもよろしいですか? できれば、幸恵さんもご一緒に」
「あ、ああ……私は構わんし、あいつも大丈夫やろうが……」
「では、さっそくお部屋へ伺いましょう」
いかにも気の短い彼らしく、すぐさま歩き出した。
その時。
「香音流くんの遺作を観た鮎子さんは、ただ一言『最低』と呟いただけでした」
意外な言葉を、東條さんが投げかけて来る。
「たった一人、自分を愛してくれたかも知れなかった女性でさえ、彼は敵に回してしまったんですね。大人気ないことを言うようですが、その言葉を聞いた時は、溜飲の下がる思いがしましたよ」
「…………」
緋村は足を止めたが、しかし、それに取り合うことはなかった。無言のまま、楡さんの開けてくれたドアから、客室の中へと消える。
当然僕も、そのあとを追ったのだが、
「……認められるわけないじゃないか。彼なんかに、負けていただなんて」
不意にそんな呟きが聞こえ、僕は思わず凍り付く。
コッソリ横目で振り返ると、画商は疲れたように壁にもたれかかり、丸眼鏡を外して、目許を揉んでいた。その胸中を推し量ることは、難しい。だが、たった今放たれたセリフが、どうしても気になってしまう。
──もしかしたら、東條さんは本当に、神母坂さんに恋をしていたのだろうか? だからこそ、「彼」に──香音流さんに「負けていた」と考えた……?
そんな風に想像を巡らせてみたものの、確かめることなどできるはずもなく。僕は何も聞こえなかったことにして、ようやく部屋に入った。




