9:愛されていたじゃないか
「……信号が青に変わっても、歩き出せないことがあるんです……。横断歩道の前に立ったまま、一向に足が動かない……向こう側に渡ろうと待っていたはずなのに、靴の先を見下ろしたまま、前に進めずに立ち尽くしてしまう──こんな経験、したことがありますか?」
記憶の中の青年が、唐突に問いかけて来る。彼は大いに当惑し──彼自身、そんな経験など身に覚えがなかったのもある──、口を噤んだまま、デスクを挟んで座る青年の姿を見つめていた。
そこは、彼のオフィスの片隅にある、ささやかな応接スペースだった。
「もしくは……眠気を感じてベッドに入ったのに、やけに眠付けない。かと言って、特に何かをする気にもならなくて、暗い部屋の中で、何時間も目を瞑ったまま、ジッと横たわっている……そんな風に、無為に夜を明かしたことは?」
青年は──榎園香音流は、昏く淀んだ黒眼を、机の上に向けていた。そこにあるのは、その日彼の持ち込んだ作品の入れられた、黒い鞄。
「……どうせ、共感なんてしてもらえないんだろうな。そうでしょう? わかりませんよね、僕の話なんて。ねえ?──東條さん」
不意にこちらを見上げた瞳から逃れるように、東條惺は視線を逸らした。何故そんな話を自分に聞かせるのか、東條には、それこそ理解できなかった。
「僕はね、東條さん。ただ、人から嫌われたくないだけなんですよ。ハッキリ言って、怖いんだ。他人が。……特に、あんたみたいな真っ当に生きている人間って奴が。こんな風に思ったこと、今までありますか?」
「……君は」何か答えなければならない──直感的にそう考え、口を開く。「きっと、病気のせいで気が滅入っているんだ。一度、カウンセリングを受けてみた方がいい」
「……そうしたら、みんな俺のことを愛してくれるのか? い──衣歩が、俺を受け入れてくれるとでも?」
「彼女の話なんて」
「していないって? だったら誰なんだ! 父さんか! 明京流か! それとも、あ」
「やめてくれ!」
彼自身も驚いたほど、厳しい口調であった。
いったい、何をそこまで過敏になっているのか。俺は、この小僧のどこが気に入らない? 平常心を取り戻すべく、東條は自問する。
答えは明白であった。
東條は密かに、彼にシンパシーを感じていたのだ。画家を志していたことや、大人たちに対する恐怖心、そして、異性に対する屈折した感情。これらに関して言えば、東條にも十分当て嵌まるものだった。
彼は、本当は画家になりたかった。一時期は本気で絵を学んでいたのだが、結局はご多聞に漏れず挫折し、父親に言われるがまま唯々諾々と、このオフィスや画廊を継いだのである。
東條と香音流は似ていた──少なくとも、東條自身はそう考えていた。そして、だからこそ、赦しがたいのである。
「……やめてくれ」懇願するように、再び口にした。「君の話を聞いていると、こっちまでおかしくなりそうだ……」
「おかしい……? 俺は、そんなにおかしいのか?」
消え入るような弱々しい声音が耳に届き、東條は反射的に顔を上げた。
机の向こうにある香音流の顔は──酷く寂しげであった。美しいほど純全たる孤独が、そこに浮かんでいた。
「……みんな、当たり前にやってることじゃないか。どんなクズみたいな奴だって、当然のように人から愛されて、人を愛してる。それが神様から与えられた、人間の特権とでも言うように。……たまに、思うよ。それすら許されない俺は、人じゃない、ただの動物なんだろうって。……動物が人間様に恋をするだなんて、許されるわけありませんよね?」
自嘲するように、カインは顔を歪めてみせた。
東條は、いい加減ウンザリしていた。
確かに、香音流と東條には、少なからず共通点がある。しかしながら、そんな甘ったるい悩みを得意げに語って憐憫を乞うほど、あまちゃんではないつもりだった。
いずれにせよ、この手の被害妄想じみた不幸自慢に付き合っていても、得られるものなど何もない。これ以上、聞きたくもない自分語りを聞かされる前に、さっさとお帰り願うべきだ。
「この作品は、ひとまず僕が買い取らせてもらうよ。画廊の予約が空き次第、また連絡する。だから……今日のところは、これで帰ってくれないか?」
「……わかりました」やけに聞きわけのいい返事が、かえって不気味だった。「絵、買ってくれてありがとうございます。初めて値段を付けてもらえましたね」
わかりきったことを言い、香音流は立ち上がった。
そして、椅子の背もたれにかけてあったファー付きのダウンに、痩せ細った腕を通すと、再び礼を述べ、ドアへと向かう。
その途中で、青年は一度だけ歩みを止めた。
「……俺、本当はわかってるんですよ。自分が今、何をすべきか」
「えっ?」
言葉の意味が理解できず、思わず声を漏らす。
しかし、説明はなされぬまま、返って来たのは、全く別のセリフだった。
「次の休み、流浪園に行って来ます。あの二人を祝う為に」
「祝うって──どうして」
彼が尋ねかけた時、香音流はすでに歩き出しており、ほどなく扉を開けて出て行ってしまった。
その間際、垣間見得た彼の横顔には──意外なほど澄みきった表情が浮かんでいたことを、東條は未だに記憶している。
あれは、何だったのか。
あの時、香音流は何を思っていたのか。
東條は、青年の真意を探ることを、やめた。
そして、追憶の最後に蘇るのは、決まって彼自身の独白だった。
「……君だって、愛されていたじゃないか」
青年が去り、一人きりになったオフィスの中で、東條は眼鏡を外し、目元を揉んだ。
すると不意に、ドアがノックされる。まさか、香音流が引き返して来たのか?
そう思いかけて、すぐに否定する。記憶の中の香音流は、戻っては来なかった。今の音は、現実に鳴ったものだ。
彼が今いるのは、父から譲り受けたオフィスなどではなく、流浪園の客室だった。誰かが訪ねて来たのだ。そう思っていると、間もなく、扉の向こうから、無味乾燥な声音が発せられる。
「緋村です。少々伺いたいことがあるのですが、お時間よろしいでしょうか?」
──また、彼か。
酷く億劫ではあったが、一人でいたらまた昔のことを思い出してしまいそうだ。いっそ、彼らの探偵ごっこだか警察の真似事だかに付き合っていた方が、気が紛れるかも知れない。
そう考えた東條は眼鏡をかけ直し、ベッドから腰を浮かせた。




