8:行くぞ
自分たちの部屋に戻ったあと、僕は先ほどの衣歩さんとのやり取りを反芻しつつ、幾つか重要そうな箇所を、メモに記した。
中でも、関係者たちがこの島に来るまでの様子は、これまで記述していなかったので、彼女から聴いた限りのことのみ、簡単に紹介しておく。
神母坂さんが榎園家の本邸に泊まった翌朝、そのまま一緒に来たのかと思ったが、少し違っていた。神母坂さんは旅行鞄やら衣歩さんに渡すプレゼントやらを取りに、一度同市内にある自宅へ、帰ったと言う。
九時頃榎園邸を出た彼女が戻って来たのは、十一時を回ってから。その後、神母坂さんの運転する車に乗って出発。途中で幸恵さんを拾ったり、フラワーショップに寄って予約していた花束を引き取ったりしつつ、約二時間後には、島の最寄りの港に到着した。
付近の喫茶店で遅めの昼食を摂り──すぐに漁船に揺られることを考え、三人ともあまり食べなかったが──、ひと心地ついたあと、港に戻る。すると、ちょうど東條さんと軍司さんが到着したところだった。彼らは東條さんの運転で来たとのこと。
その後、予め話を通してあった漁師に、東條さんが代表して声をかけ、彼らはみな同じ船に乗った。
粗方纏め終わったところで、ふとあることを思い出す。ペンを置いた僕は、二段ベッドの上で寝そべっていた緋村に尋ねた。
「そう言えば、あの時は何を言いかけていたんだ? ほら、シヴァがどうとかって」
「ちっ、つまらねえことばかり覚えてるな。──ククリナイフのチョーの由来には、諸説あるんだ。シヴァの陰茎とか、カーリーの陰核とかな。それを思わず、口走りそうになったのさ」
「ああ、それで……。確かに、女性相手にする話じゃないな」
「あれは失敗だった」
不貞腐れるように呟く。殊勝にも後悔しているらしい。この男にしては珍しい態度だったので面白かったが、今はそんなことを揶揄っている場合ではない。
「衣歩さんが言っていた死後懐胎の話だけど、本当なのかな? いや、あんな嘘を吐く理由なんてあるはずがないから、事実なんだろうけど……」
少なくとも、亡き恋人のクローンを生み出そうとしていると言う噂なぞよりは、比較にならないほどリアリティがある。
しかし、軍司さんに確認するわけにもいくまい。ただでさえ機嫌を損ねてしまった上に、取り決めを破り、衣歩さんからも話を聴いたことを知られたら、今度こそどんな目に遭うか……想像するだけでも恐ろしい。
そのことを口にすると、
「……悪くねえな」
「は? どう言う意味だ?」
本当に理解できず、思わず聞き返した。
体を起こした彼は、ボサボサの髪を乱雑に掻き回しながら、不意に口角を歪ませる。
「先生は他人に裏切られるのがお嫌いらしい。いや、誰だってそうだろうが、とにかく、それなら天岩戸を開かざるを得なくなる。俺たちが約束を反故にしたとあれば、聞く耳を持たないとも言ってられねえだろう」
「でも、そんなことをしたら、今度こそただでは済まないんじゃないか?」
「かもな。──無論、リスキーなのは承知の上だ。しかし、やはり先生にもお話を伺う必要がある。衣歩さんの死後懐胎について、念の為事実かどうかを確認しておきたい」
「そこまでする必要があるとは思えない」
「だから、念の為さ」
そう言うと、彼は身軽な動作でベッドから降りて来た。
「が、その前に、先に潰しておきたい要素が幾つかある」言うが早いか、彼はドアのある方へ体の向きを変える。「行くぞ」
簡潔な号令を下し部屋を出て行く緋村を、僕はメモ帳を掴んで追いかけた。
※
僕たちが最初に向かったのは、屋根裏部屋だった。利用した入り口は、言うまでもなく、神母坂さんの部屋の天井にある物だ。
どうしてここに来る必要があるのか、僕にはよくわからなかった。しかし、何か調べたいことがあるのだろう。そう思って緋村に付いて来たのだが、塔屋の内部に入るなり、彼は一脚しかない椅子に座ってしまった。
そして、そのまま何をするでもなく、ただ壁にかけられた標本を眺め続ける。緋村が何を見ているのかは、訊かずともわかった。
奇形の蝶だ。香音流さんが生前「分身」と呼んでいた、あのナミアゲハ。
しかし、その行為に、いったいどれほどの意味があるのか……。そちらに関しては見当も付かず、非常にヤキモキさせられた。
「何をしているんだ? あの蝶が、そんなに重要なのか?」
「あ? ……さあな」
「さあなって──幸恵さんから聞いた、『分身』って言葉の意味を探る為に来たんじゃないのか?」
「……いや。それに関しては、すでに考えていることがある」
「なに? 本当か?」重ねて尋ねてから、すぐに別の問いが浮かんだ。「けど、だったらどうしてここに……?」
「別に、大した意味はねえよ。ただ、もう一度見ておきたかったんだ。自分の考えが正しいかどうか、確認する前にな」
余計によくわからなくなるような返事を寄越すと、もう満足したのか、緋村は腰を浮かせた。
そして、そのまま入って来たばかりの扉に向かおうとする彼を、慌てて呼び止める。
「ちょっと待ってくれ。……君は、何を思い付いたんだ?」
「それは……」
足を止めた彼は、何ごとか答えようとしていた。しかし、その続きを口にするよりも前に、床の上に視線を落としたまま、凍り付いてしまう。
かと思うと、突然しゃがみこんで、足元に落ちていた物を、指先に貼り付けるようにして、拾い上げたではないか。
「何か、見付けたのか?」
「……ああ。これ、なんだかわかるか?」
彼が差し出した人差し指の先には、小さな花びらが一枚、乗せられていた──ように見えた。
しかし、すぐにそうではないことに気付く。それっぽい形をしていると言うだけで、全く別の物体だ。色は白く、何かから剥がれ落ちたかのように、薄っぺらい。だからこそ、花びらと見間違えてしまった。
僕はしばし、彼の指先を見つめていたが、結局ギブアップした。
「いや、よくわからないけど……」
「そうか。──ちなみに、俺には見当が付いている」
意外なことを言うと、緋村はその微小な遺留物を、ポケットから取り出したハンカチに包み、しまいこんだ。ちょうど、以前神母坂さんのイヤリングを、そうしたように。
それから、彼は徐に窓辺に近寄り、窓を開けて首を突き出した。
何をするつもりかと思っていると、僕を手招き、場所を入れ替わるように言う。
訝りながらも指示に従い、彼がやったように、ドーマーウィンドウから頭を出した──直後、例の破片の正体が、ようやく理解できた。
「なるほど、屋根か」思わず声に出し、僕は屋根裏部屋の中を振り返る。「さっきのは、屋根に塗られていたペンキの一部が、剥がれた物だったんだな?」
「そうとしか思えない。色合いも同じだし、屋根にはところどころ、塗料の剥げた箇所がある」
緋村の言うとおりだった。先ほど彼が見付けた物は、屋根の塗料の一部と見て、まず間違いないだろう。
問題は、何故それが屋根裏部屋の中で発見されたのか、だ。
「今朝、ここに入った時には、そんな物は落ちていなかった。これは確かだ。俺も見覚えはねえし、さすがに三人もいて、全員ともが見落としたとは考え辛い」
「と言うことは……今朝、僕たちが屋根裏部屋に入ったあとで、誰かが屋根の上に出ていたってことなのか? そして、再び窓からここに戻って来た時、足の裏に付着していた塗料の破片が、床に落ちた?」
しかし、だとすると……その人物は、どうして屋根に出る必要があったのか。そして、その行動はどのような形で、事件と関係しているのか。
僕は緋村の返答を待った。が、結局この時は、求めていたものは得られずに終わった。
「そんなことをする意味がわからねえ。やっと手がかりらしき物が見付かったわけだが……もしかしたら、余計な発見だったかも知れねえな」
それから、酷くもどかしげに頭を掻き毟る。
「とにかく、この件についてはあと回しにするとして、今は本命のところへ行くぞ」
「本命?──もしかして、犯人に会いに行くのか?」
「……どうだろうな。ただ、少なくとも、その人なら知っているはずだ」
いったい何を? そう尋ねると、
「例の噂の、真相だよ」
こともなげに言い、彼は改めてドアの方へ、体の向きを変えた。




