2:ええダイエットになったかも
十二月九日。
その日、夜から友人と呑みに行く約束をしていた井岡は、待ち合わせ時間までの暇を潰す為、心斎橋駅の周囲を目的もなくブラ付いていた。アメリカ村で古着や靴などを物色しているうちに、わずかに小腹が空いて来る。
時刻は十五時をわずかに過ぎたところ。ちょうどおやつ時だ。どこか喫茶店でも探すか、あるいはダイエットの為に我慢するかを悩みつつ、なんとなく道頓堀方面を目指して歩き出した。
──これだけ歩き回っとったら脂肪も燃えるやろ。
空腹を満たすことに決めた彼女は、しばし賑やかな雑踏の中を行く。あまりにも有名なグリコサインに巨大でリアルな蟹。他にもビルの壁や店の軒先など、派手さを競うかのようにカラフルな看板が犇めき合う。大阪の繁華街と聞いて、誰もが真っ先に思い浮かべるだろう景観だ。
何を食べて腹拵えをしようかと考えながら、戎橋に差しかかる。
そして、少し歩速を緩め、欄干──何故か、お好み焼きに使うヘラが密集したデザインになっている──のすぐ傍らを歩いていた、その時。
後ろから追い越して来た一人の女性の姿が、視界の端に映り込んだ。
刹那、奇妙な感覚──謎の既視感のようなものを覚えた井岡は、白いチェスターコートに身を包んだその後ろ姿を、しばし見送った。様々な色彩の溢れる雑踏の中で、その純白だけが、クッキリと浮かび上がるかのようで……。
すると、井岡の視線に気付いたのか、女は一瞬だけ、横目でこちらを振り返った。
その端正な白い横顔を見た時、井岡はどこで彼女を目にしたのかを、思い出す。
──あれって、瀬戸くんが描いとった人やない?
思わず足を止め、彼女のことをまじまじと見つめてしまう。
すると、女は突然驚いたように目を瞠った──かと思うと、慌てて顔の向きを戻し、人混みの中を歩き去って行くではないか。
まるで、井岡から逃げるかのように。
──何やろ? 今の反応は。私を見て逃げた……? と言うことは……。
思考を働かせるのとほとんど同時に、井岡は足早に歩き始める。女を追うことにしたのだ。
──理由はわからんけど、明確にこっちを見て逃げ出した以上、あの人は私のことを知っとることになる。けど、どこかで会うた記憶はないし、あの人が私のことを知る機会があったとすれば、それは……瀬戸くんに教えられたとしか考えられへん。つまり、瀬戸くんはあのあとホンマに、あの人に会いに行ったんや!
──だとしたら、あの人は何か知ってるかも。瀬戸くんが突然退学した理由とか、瀬戸くんが今どこで、何をしとんのかを。
そんなロジックを、井岡自身不思議に感じたほどの急速さで展開させつつ、人混みを縫って進んだ。白いコートの背中を目指して。
女はそのまま橋を渡りきり、四角く口を開けた、やけに近未来的なデザインの商店街のアーケードへ、吸い込まれて行く。
戎橋商店街の中は人で賑わっており、相手が早足であることもあって、なかなか距離が縮まらない。が、それでも標的を見失ってしまうほどではなく、いずれは追い付けるはずだった。
にもかかわらず、この尾行劇は存外にあっけなく、終わりを迎えてしまう。
クリスマスムード一色の商店街を抜けたところで、不意にショルダーポーチの中の電話が着手を告げた。虚を衝かれた彼女は思わず立ち止まり、逡巡したのちスマートフォンを取り出す。
画面に表示されていた名前は「緋村奈生」。彼にしては、珍しく間が悪い。
が、そんなことを言っても仕方がないので、取り敢えず電話に取った。
それからすぐに前方を見ると、なんと、すでに女の姿は見当たらないではないか。
おそらく、どこか通り沿いの建物の中に入ったのだろう。慌てて歩き出しつつ、少し声を潜めて、
「もしもし? 何やの、こんな時に」
『あ? どんな時だよ。それと、電話に出た方が「もしもし」はおかしいだろ』
「そんなことはええから。用件は?」
『……なんだ、もしかして忙しかったか? 大した用じゃねえから、また後でかけ直してもいいが』
思いがけず殊勝な言葉が返って来る。もしかしたら、焦りが態度に出てしまったのだろうか。井岡は少し後悔した。
「そう言うわけやないけど……取り敢えず、何の用かだけ教えてや。それから決めさせてもらうから」
『なんだそりゃあ。まあ、いいか。明日の一限目のロシア語の授業なんだが、できれば俺の分も出席カードを書いといてくれねえか』
なんでもバイト先の人材不足により、急遽今夜の勤務が朝の時間まで延長になってしまったそうで、睡眠時間を確保すべく、一限目の講義を代筆してもらいたい、とのことだ。
本当に大した用事ではなかった。呆れはしたが、断るほどのことではなかったので、
「ええよ、それくらい。けど、今度コーヒーでも奢ってな。じゃ」
それだけ言うと、相手の返事もまたずに電話を切った。
女が入った場所について、井岡はある程度見当を付けていた。女が道の左側を歩いていたことや、彼女との距離から、通りを曲がってすぐに逃げ込める建物は、自ずと限られて来る。
ざっと見たところ、候補は三つ。後は直感に任せることにして、井岡は四階建ての雑居ビルに足を踏み入れた。
果たせるかな、薄暗い通路の先にあるエレベーターの中に、先ほどの女の姿を発見する。──が、しかし、タイミングが悪く、井岡がそれに気付いた時には、扉はすでに閉じきろうとしていた。
細く開いた隙間から、こちらを見返す女の白い顔。深い水を湛えた湖面のように不安げに揺らぐ二つの瞳が、やけに印象深かった。
諦めきれなかった井岡は、エレベーターの階数表示を見る。女は、どうやら最上階へ向かったらしい。
彼女はどうにか先回りできないかと、入ってすぐのところにある階段を駆け足で上り、四階を目指した。
居酒屋やらネットカフェやらのテナントの入った階をスキップし、井岡は目的のフロアへと到着する。日頃からよく運動をする方ではないのでかなり息が切れた。思ってた以上にええダイエットになったかも、と胸の内で苦笑しつつ、通路に踊り出る。
するとまさに、問題のエレベーターが到着したところだった。
妙な緊張感を味わいながら、両膝に手を突いて息を整えた。彼女と会ったらまず何と声をかけるべきか。取り敢えず素性を明かしてみて、相手の反応を窺ってみようか──などと、あれこれ胸算用してみたが、次の瞬間、それら全て無意味だったことを知らされる。
開いた鉄扉の向こうから現れたのは、ビジネススーツを着た三十代くらいの年齢の男、ただ一人だけだった。
エレベーターの中から、女は消えていたのだ。
井岡は狐にでも摘まれたような気持ちで、しばし無人のエレベーター内を見つめていた。が、ほどなくして扉が閉じたところで、ようやく我に返る。
──ここに来る途中のどこかの階で降りたんや。
そのことに思い至った彼女は、慌てて先ほどの男に声をかけた。
「あの、すみません。さっきエレベーターに女の人が乗っていたと思うんですけど、どこで降りたか覚えていませんか?」
突然そんなことを訪ねて来た女子大生を、彼はドアノブに手をかけたまま、怪訝そうな顔で見返した。彼が入ろうとしていた場所は、旅行代理店のオフィスのようだ。《Sunny tourist》と言うワインレッドの文字が、ドアに嵌め込まれたガラスに浮かんでいる。
男は目を瞬かせたが、すぐに合点がいった様子で、
「ああ。もしかして、エゾノさんのお嬢さんのご友人ですか?」
予想外の質問だった。井岡は逡巡した後、肯定も否定もしないまま、反対に問い返した。
「彼女のこと、知ってはるんですか?」
「ええ。グンジ先生のご紹介で、弊社にお越しいただいたことがございます」
「はあ、そうなんですか……。それで、エゾノさんはどの階で?」
「三階ですよ。ちょうど私が乗るのと入れ違いでした。そう言えば、挨拶させていただこうかと思ったんですが、忙しかったのかすぐに行ってしまわれましたね」
彼はさも残念そうに、柔和な笑みを曇らせた。
井岡は礼を述べるとすぐさま踵を返し、今度は三階へと下りる。
が、しかし、そこで彼女の尾行劇は本当に終わりを迎えることとなる。
三階にはネットカフェが入っており、それなりに繁盛していた。わざわざ各ブースを一部屋ずつ見て回るわけにもいかないし、この中から彼女のを探し出すのは至難の業だろう。
それでも諦めきれず、出入り口の前で一時間近く張り込んでいたのだが、結局最後まで女は現れず。友人との待ち合わせの時間も迫っていた為、彼女は後ろ髪を引かれる思いで、雑居ビルを後にした。




