3:こいつも本望でしょう
「そのペンダント、大切な物なんですか?」
普段よりも幾分か柔らかな声音で、緋村が尋ねる。僕も気になっていた。
「は、はい。……母の形見です。私の両親は幼い頃に亡くなったんですけど、それ以来、ずっとお守り代わりに身に着けていて……不安なこととか辛いことがあると、つい触ってしまうんです」
気恥ずかしげにはにかみ、衣歩さんはチャームから手を離す。
「中には、写真か何かが?」
「ええ。昔の写真がしまってあります。誰にも見せたことはないんですけどね」
きっと、亡きご両親の写真なのだろう。どんな人たちなのか見てみたい気もしたが、想像するだけに留めておく。お守りの中身は無闇に見てはならないと、よく言われるし。
「あ、そう言えば、実はもう一つ、お二人に聞いてもらいたいことがあるんです。さっきのトリックを考えている時に思い出したことがあって……」
「なんでしょう? ぜひ教えてください」
「はい。おじさま──いえ、父の部屋の中に、隠し部屋があったような気がするんです。私も一度入っただけなので、だいぶ記憶が曖昧ではあるんですが……」
「隠し部屋、ですか。そんな場所があるだなんて、思いもしませんでした」
もしそうであれば、僕たちがまだ確認していない空間が、この館の中にあったことになる。僕は思わず膝を乗り出し、彼女の声に耳を傾けた。
「確か、父の部屋の床に入り口があって、そこから小さな地下室のようなところに下りることができたはずです。その部屋には、奥様の遺品らしき物がしまわれていました。化粧品とか、お着物とか……。私は明京流くんたちと一緒に、その部屋の中にある物を見て遊んでいたんですけど、すぐに織部さんに見付かってしまって、とても怒られた記憶があります。織部さんに叱られたのは、あとにも先にも、あの時だけでした」
「気になりますね。──しかし、それならば何故、織部さんはそのことを黙っていたのでしょう? 織部さんに叱られたと言うことは、当然彼も隠し部屋の存在を知っていたわけですよね? そんな空間があるのなら、まっさきに教えてくれてもよさそうなものですが」
彼の問いに、衣歩さんは「わかりません」とかぶりを振った。
「それとも、秘匿しなきゃならない理由でもあったのか……?」
だとしたら、それはいったい何故なのか。
そもそも、秘密の地下空間など、本当に存在するのだろうか?
「……ここで考えていても仕方ねえ。念の為、見に行ってみるか」
「あ、でしたら、私も付いて行ってもいいですか? このまま部屋に戻っても落ち着きませんし、できる限り捜査に協力したいです」
「もちろん、構いませんよ。ただし、犯人が潜んでいると言う可能性も考えられます。いざと言う時は──彼を盾にしてください。榎園さんを庇って死ねるのなら、こいつも本望でしょう」
縁起でもないことを言うな。
「その時は君も道連れにしてやるよ」と切り返す。
僕たちのやり取りを見ていた衣歩さんは、可笑しそうにクスリと笑みを零した。その表情が見られただけで、幾分かこちらの気持ちも楽になった。
※
誉歴氏の部屋には、先ほど館の中を見て回った際、すでに一度入っていた。広さも内装も、他の客室とさほど変わらない。強いて言えば、カーペットが敷かれてないことと、巨大な剥製が部屋の中央に陣取っていることか。
それはセント・バーナード犬の剥製で、体高九十センチにも達しそうなほど大きい。彼ないし彼女は、まるで留守を務めているうちに眠ってしまったかのように、前足に顎を乗せ、瞼を閉じていた。
「床に地下へ降りる入り口があった、とのことですが、どの辺りだったか覚えていますか?」
「すみません、そこまでは……ただ、キッチンなんかによくある床下収納って言うんですか? ああ言う感じで、床の一部に四角い枠があって、そこが蓋みたいに持ち上げられた記憶があります」
「榎園さんたちはどうしてその入り口を見付けることができたんでしょう? そもそも、何故この部屋にいらしたんですか?」
「それは……確か、明京流くんたちと一緒に屋敷の中を探検していて、父が不在なのをいいことに、コッソリお邪魔したんです。父の部屋に入ったのは、その時が初めてでした。けど、こう言うと失礼かも知れませんが、想像していたほど面白そうな物はなくて、私はすぐに出たくなっちゃいました。父の部屋に勝手に入り込んでいることに、罪悪感を抱いた、と言うのもあります。──だから、別のところに行こうって二人に言おうとしたら、香音流くんがその入り口を見付けて……。どうしてそこがわかったのかは、よく覚えてないです」
わずかに考え込んだ緋村は、例のセント・バーナードに目を向け、
「あの犬の剥製は、当時からあった物なんですか?」
「はい。あの時からこの部屋に置かれていたはずです。でも、今とは場所が違ったような……」
怪しい。もしや入り口を塞いで隠す為に、今の場所に配置を変えたのではあるまいか?
緋村も同じ風に考えたのか、こちらに目配せして来た。
「どかしてみるか」
彼の言葉に頷く。僕が剥製の前脚の方を、緋村がお尻の方をそれぞれ持ち上げ、横に動かした。
居眠りをするセント・バーナードは、見た目ほど重くはなかった。中身が棉なのだから、当然か。
果たして、剥製の寝ていた場所には──特に何もなかった。
「……まあ、そう簡単にはいかねえか」
扉どころか傷一つ見当たらない床を見下ろし、緋村が呟く。
「ちなみに、この剥製は元々どちらに?」
「ええっと……確か、ベッドの頭の方にあったはずです。ちょうど、今はキャビネットが置かれている辺りに」
彼女はアンティーク調の上等そうなキャビネットを指差す。
「では、そのキャビネットは?」
「本棚の隣りにありました。……そう言えば、あの頃は本棚は一つだけだった気がします。でも、次にこの部屋に入った時──隠し部屋を見付けた時から、だいぶあとのことですけど──には、もう今の状態になっていました」
「なるほど……」
口許を手で覆った緋村は、向かって左手の壁を埋める二つの書架を見つめる。片方には古めかしい背表紙の洋書や辞典らしき物で埋められており、もう一方は小説──古典ミステリや怪奇小説の名作、詩集など──が、几帳面にも作者名順に並んでいた。
ほどなくして彼が手を離した時、そこにはウッスラと笑みが浮かんでいた。
「中の本、全て取り出してみたいのですが、よろしいですか?」
「は、はい。──あの、もしかして」
「入り口を隠す、あるいは塞ぐ為に本棚を増やしたのかも知れません。確かめてみましょう」
言うが早いか、緋村は奥の方の書架に歩み寄り、一番上の段から一冊の洋書を取り出す。そして振り返った彼は、適当に開いたらしいページを向けた。
そこには──ただの一文字も書かれていないではないか。
「どうやら、こちらにある洋書は中身のないフェイクのようですね。こう言った飾り用の本と言うのは昔からありますが……見栄えだけの為に配置されたとは思えません。予想が当たったようです」
真っさらなページを閉じた彼は、それを床に置くと、次々と別の書物を取り出して行く。
「お前も手伝え」
言われるがまま、僕もその作業に加わる。そして、衣歩さんも。
十分ほどかけて、僕たちは床の上に本の山を築き上げた。
最後の一冊が衣歩さんによって取り出され、書架は完全に空の状態となる。僕と緋村は先ほどの剥製と同じように、二人でその両側を持ち、隣の書架の前に移動させた。
すると思ったとおり、壁際の床に、大人の肩幅ほどの広さの枠で囲まれた箇所を発見する。確かに、台所などにある床下収納の蓋に似ていた。
「まだ開けられそうだな」
呟いた彼は側面にある溝に指をかけ、二枚の板を外した。長方形の仄暗い入り口がそこに現れる。鉄製の細いハシゴが、暗闇の向こうへと伸びていた。
なかなか不気味な光景で、一人であれば見なかったことにして扉を戻していたかも知れない。
「中に入ってみようと思いますが、衣歩さんはどうされますか?」
「わ、私も付いて行きます。少し怖いですけど、ここで待つ方が心細いですし」
「わかりました。では、僕たちが先に降りて危険がないか確かめます。大丈夫であれば声をかけますので、それまで待っていてください」
素直に頷いた彼女を残し、スマホのライトを点けた緋村はスルスルと梯子を降りて行く。
高さは二メートル以上はあるだろうか。闇の中に、下に降り立った彼の頭が辛うじて見えた。
俄かに緊張しつつ、僕もそれに続いた。地下の冷気に晒された鉄梯子は、氷でできているかのように冷たい。
緋村とは違い、足を滑らせぬよう注意しながら、慎重に階を踏み締める。
それでも一分もせぬうちに、下に向けた灯りの中に梯子の終わりが見え、その先に畳張りの床があるのがわかった。
湿気た畳の嫌な感触を靴下越しに感じながら、僕は地下へと降り立つ。その瞬間、盛大に埃が舞うのを感じた。
そこで待っていた緋村は、ライトで左右の壁を照らしていたが、ほどなくその光芒の中に、手垢で汚れたスイッチが浮かび上がる。彼がそれを押すと、シラジラとした光が天井に灯り、闇の帳を消し去った。




