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流浪園殺人事件  作者: 若庭葉
第三章:薔薇の下
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17:白い迷宮

 自室に戻った彼女は、約二週間前のことを思い出していた。

「この間、また夢の中でお告げがありました。それによれば、お二人はそう遠くないうちに、『夫婦の仲を修復することができる』みたいです。そして、『新たな愛の巣を得、仲睦まじく幸せに暮らす』……そんな幸恵さんたちの姿が、夢の中に現れたんですよ」

 生活感溢れるリビングの中で、その家の(ホスト)は至って当然のことのように、予言を語った。そして、湯気の立つ紅茶のカップを、悠々と持ち上げる。

 彼女は──幸恵は、その時何と言葉を返したのだったか。よく覚えていないと言うことは、おそらく生返事だったのだろう。

 ──夫との仲を修復できる? 愛の巣を得、幸せに暮らす? アホらしい。もし本当に、そんなことが可能なんやったら──()()()()()()()()や。

 基雄(おっと)とヨリを戻すこと。それは、幸恵の本望だった。

 もういい加減、やめにしたかったのだ。片意地を張り続けるのも、先の見えない別居生活も。

 その為にはどうすればよいか、幸恵自身が誰よりもよくわかっていた。ただ、謝ればいい。「私が間違うてた」と一言詫び、もう一度やり直してくれるよう頼みさえすれば、彼も無碍にはしないだろう。

 しかしながら、それが容易にできないからこそ、幸恵は「夫を邪険に扱い、憎まれ口を叩く妻」を、未だに演じ続けているのだ。

 こちらから折れるのが、癪だったのもある。しかし、それ以上に、夫に対する()()()()の存在が、彼女が素直になることを邪魔していた。

 記憶の中、ソファーの上で婉然と紅茶を啜る鮎子の姿が、搔き消える。痩せ細った柱サボテンを思わせるコートスタンド、雑多な品々の押し込まれたアンティークのガラス戸棚と、その上にセットされた転倒防止の突っ張り棒、壁に貼り付けられたカレンダー──二十四、二十五、二十六の三日間に、印が付けられていた──など、鮎子の周囲に見えていたリビングの風景を、道連れにして。

 そして、気が付くと、幸恵はリノリウム貼りの白い廊下の中に立っていた。

 無機的な色の味気ない壁と天井が、見渡す限り──前にも後ろにも──どこまでも、永久に続いている。まるで、広大無辺に伸びる、白い迷宮──彼女は未だ、その中から抜け出せないでいた。

 無論、それは単なるイメージにすぎない。

 その日、彼女の抱いた恐怖と疑惑の為に、そうした脚色がなされてしまったのである。本当は、至って一般的な総合病院の廊下のはずなのに。

 無際限の白い廊下の中、()()()()()の前に立ち尽くした幸恵の耳に、途切れ途切れの声が届いた。


 ──お願いします……僕の希いを聞いてください……。


 老人のように嗄れた青年の声を、彼女は冷たい扉越しに聞いたのだ。

 そして、再び、記憶映像が揺らめく。

 幸恵は、ベッドの上に座っていた。流浪園の客室の、ひび割れた壁と無骨な勉強机が、視界に映り込む。ようやっと、現実に帰還(かえ)って来ることができた。

 ──そう言えば、アレはいったい何やったんやろう?

 不意に、彼女は思い出す。鮎子の家で、()()()()()()()()()()ことを。

 あの奇妙な感覚は、いったい何によってもたらされたものだったのか……鮎子自身? それとも、どこか別の場所に、異変が生じていた?──あるべきはずのものがなかった? あるいは、反対に……。

 考えるだけ無駄だった。幸恵はすぐにその間違い探しを放棄し、体の向きを変え、ベッドに横たわる。

 これ以上、謎が増えるのはご免だ。推理など、自分の(しょう)には合わない。

 事件も、鮎子も、青年の声も、夫も──何もかも思考の中から追い出し、幸恵は瞼を閉じた。


 結局、彼女がその違和感の正体を知ったのは、()()()()()()()()()だった。

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