16:花は咲かなかった
「──ちっ」
部屋に着くなり、緋村は小さく舌打ちをした。いったい何事かと尋ねると、
「楡さんへの発言の意味を訊きそびれちまった。ほら、『私の要望は聞き入れてくれへんねや』って奴だ」
確か、そのやり取りが発展し、二人は別居するに至ったのだったか。僕にしてみても、たった今緋村に言われるまで、スッカリ思考から抜け落ちていた。
「ついでに、東條さんから例の『刺青を入れた男』の話を聞かされたのかどうかも、確かめる予定だったんだけどな……そっちも失念していたよ。どうにも、頭が働いてねえみてえだ」
「やっぱり、そろそろ一休みした方がいいんじゃないか?」
「ああ……」
生返事をした彼は、二段ベッドの梯子に寄りかかったまま、尚も思考を続けている様子だった。どうやら、僕の助言を聞き入れるつもりはないらしい。
そちらがその気ならと、僕はここで再び、今朝のことを尋ねてみる。
「ところで、今朝は何を言いかけていたんだ? 君が重い腰を上げた理由と、蝶がどう結び付くのか、ずっと気になっているんだけど」
そう言うと、昏い目だけが俊敏に動き、こちらを見返す。その黒すぎる黒眼を見ただけで、返答を拒まれることは容易に予想できた。
案の定、
「そんなこと、言った覚えはねえな。──それより、さすがに腹が減った。俺たちも飯にしようぜ」
言うが早いか、こちらの返事もまたずに部屋を出て行こうとする。そんなに蒸し返されたくない発言だったのか? ますます気になって仕方がないが、ひとまず昼食を摂るのは賛成だ。
蝶云々に関してはまたの機会に尋ねるとして、僕と緋村は食堂へ向かうことにした。
食堂には、東條さんと楡さんの姿があった。二人はすでに昼食を終えており、コーヒーを飲んでいる。
こちらから尋ねるよりも先に、衣歩さんの要望で付き添いをやめたことを教えてくれた。少し一人にしてほしい、と言われたそうだ。
厨房の織部さんに一言声をかけてから、僕たちもこれまでと同じ席に着く。
食事が運ばれて来るまでの間、緋村は何気ない口調で、例の標本のことを二人に尋ねた。
「屋根裏部屋の標本? そんなもん飾ってあるんか?」
「楡先生は、あそこには入ったことがないから知らないんですよ。確か、香音流くんが小学生の頃に自作した物でしたっけ」
東條さんの方は知っているようだ。
「その標本の中に、一匹形の歪んだアゲハチョウがいますよね? どうしてあんな姿をしているのでしょう? 事件の捜査とは関係なく、ふと気になってしまって」
「さあ、僕もそこまでは……。香音流くんが、あの標本をとても大切にしていたのは覚えているんですけど」
「『分身』と呼んでいたそうですね」
「そうらしいですね。──誰かから聞いたんですか?」
「先ほど、幸恵さんが教えてくださいました」
緋村が答えると、楡さんはカップを置き、
「あいつ、昼飯はいらんのかな。何か言うてへんかった?」
「部屋に戻って休むとだけ。少々お疲れのご様子でした」
「そうか。……よし、あとで声をかけてみるか」
会話が途切れたところで、織部さんが僕と緋村の分の食事を運んで来てくれた。昼食のメニューは体の温まりそうなポトフと、コールスローサラダにローストビーフ、そしてライスが付いていた。思いの外豪華なのは、事前に仕込んでいた為だろう。
織部さんにも、例の蝶のことを訪ねてみる。すると彼は、その出自について知っており、配膳をしながら教えてくれた。
「あのナミアゲハは、香音流様が小学生の頃に飼っておられた物でございます。誉歴様のご友人からいただいた幼虫を育てられたのですが、自然と成虫になるのが待ちきれなかったのでしょう。羽化する直前の蛹を、指で触ってしまったんですよ。その時の影響で、翅や触角の形が歪んでしまったようです」
当時を懐かしむような口調だった。
確かに微笑ましい子供の失敗談であるが、それでは何故香音流さんは、その蝶──ナミアゲハを、「分身」と呼んでいたのか。今のところ、彼の「分身」足り得る要素は、皆無に思えるのだが……。
「それだけですか?」
「ええ。香音流様は、とても落ち込んでおられました。きっと、幼いながらに罪悪感を覚えたのでしょう。羽化したナミアゲハは、満足に飛ぶことすらできずに死んでしまったのですが、その後、手ずから標本を作成されたほどです」
僕と緋村の前にスプーンを置いた彼は、それから思い出したように表情を引き締め、
「申し訳ございません。昆虫の話なんて、お食事の前にするべきではなかったですね。食べ終わりましたら、食器はそのままにしておいてください。それと、食後にコーヒーをお持ち致しましょうか?」
お願いすることにした。
「畏まりました。東條様と楡様は、お代わりは」
「ああ、僕は大丈夫です。一服して来ますから」
東條さんが席を立った。
彼を見送った後、僕と緋村は手を合わせ、昼食にあり付く。優しい味付けのポトフが、ジンワリと体に染み渡るようだ。
楡さんはコーヒーのお代わりをオーダーしつつ、
「織部さんの話を聞いとったら、私も懐かしいことを思い出しましたわ。昔ここに遊びに来た時、衣歩ちゃんたちに私のカメラを貸してあげたことがあるんですよ。子供らだけで遊ぶ時のおもちゃ代わりにって。それで、撮ったもんをあとで私が現像して、送ってあげたんですが、言われてみれば、おかしな形の蝶の写真もあった気がします」
「そうでしたね。三人とも楽しそうに流浪園やこの島の写真を撮っておられました。それから、神母坂様もご一緒に」
「鮎子さんは、よく子供たちの相手をしてくれとったから、えらい助かりましたわ」
思い出話にしばし花を咲かせる。もしかしたら、その頃が流浪園の関係者たちにとって、最も幸福な時間だったのかも知れない。子供たちはまだ無邪気なままで、楡夫妻も別居状態ではなかった。
「まだどこかに残っとるんかな、あの写真……」
大切な記憶の中にある情景に想いを馳せるかのように、彼は遠い眼差しをして呟いた。
「神母坂さんと言えば」緋村が、食事の手を止めて尋ねる。「半年ほど前に、若い男性と一緒にいるところを、東條さんが見かけたそうですね。確か、この話は楡さんと幸恵さんにも話したことがあるとか」
つい先程、幸恵さんに確認しそびれたことを尋ねる。楡さんはすぐに思い出してくれたようで、「せやったせやった」と大きく頷いた。
「最初君らに話を聴かれた時には失念しとったが、確かに東條くんがそんなことを言うとったわ。──ああ、そうや。両肩に龍か何かの刺青が入っとるのが見えたんやってな。正直、そう言うガラの悪い男が好みとは思えんかったから、少々驚いたわ」
実際、二人は恋人関係などではなかった。神母坂さんと春也さんの間にあったのは、「共犯者」あるいは「首謀者と実行犯」と言う、昏い繋がりだったのだ。
「まあ、東條くんは違ったみたいやったけどな。その話を聞かせてくれたあと、彼、苦笑しながら呟いとったから。『やっぱり、歳下がお好きなようですね』って」
もしかして、東條さんは、神母坂さんに好意を寄せていたのではなかろうか? 年齢も近いようだし、あり得ない話ではない。
思いきって尋ねてみると、
「さあ、どうやろなぁ……ハッキリとしたことは私にもわからん。ただ、もし好きやったとしても、密かに憧れとった程度とちゃうかな。少なくとも、積極的にアプローチするようなことはなかったはずや」
船の上で「二人の美女」について紹介してくれた際、楡さんは彼女のことを、「高嶺の花」と表していた。もしかしたら、東條さんにとっても容易には手を出せない存在であり、密かに憧憬するだけで、満足していたのかも知れない。
「神母坂さんは、西宮市内にお住まいだそうですね。これも幸恵さんから伺ったのですか、ご実家で一人暮らしをされていたとか」
「ああ。なんでも、鮎子さんがまだ幼い頃にご両親が離婚しとるそうでな。以来、お母さんと二人でその家に住んどったんやが、そのお母さんも、十六年くらい前に亡くなってもうたそうや。で、沖縄におるユタのお祖母さんに引き取られたあと、彼女の紹介で誉歴さんと面識を得て、ここに招待されるようになったっちゅうわけや」
そして、唯一の家族である祖母も、数年前に亡くなってしまったわけか。衣歩さんと同様に、彼女もまた身寄りを喪っていたのだ。
「ご実家はずっと手放さずに残しとって、社会人になって自立してから、また移り住んだって聞いたわ。早々に生家を売っ払ってもうた軍司先生とは、対照的やな」
「神母坂様のお宅には、わたくしも一度だけ伺ったことがございます。お庭のお手入れを手伝ったのですが、元々お母様が園芸を趣味にされていたそうで、ところどころにその名残りがございました」
初めて会った時に教えてくれたトルコギキョウに関する知識は、もしかしたら母親から教わったことだったのかも知れない。
しかし、園芸の趣味までは受け継いでおらず、庭木や花壇は永らく放置さていたと言う。織部さんは、主にその剪定を手伝ったとのことだ。
「中にはまだ花を付けられそうな薔薇の樹が残っておりましたので、それだけは伐ってしまわずそのままにしたのですがね。結局、花は咲かなかったそうです。お手入れもあまりなさっていないようで、『また森みたくなって来ました』と苦笑しておられました」
彼女が浮かべたであろう物と同じ表情で、死者との思い出を語る。再び住む者を喪った家の庭は、このまま荒れ果ててしまうのだろうか……。




