15:不思議な女性でした
「たった今、名前の挙がった神母坂さんですが、どうやら香音流さんに好意を寄せていたそうですね。そのことは」
「知っています。彼女も特に、隠そうとしてへんかったから。……ただ、正式にフられたあとは、香音流くんへの態度を一変させていましたけど」
「正式に、と言うことは、神母坂さんは彼に想いを伝えたのですね?」
「そうみたいです。なんでも、香音流くんが大学に上がってすぐくらいに、告白したと聞きました」
「それは、ご本人から?」
「まさか。そんなこと他人に言いふらして憐憫を求めるような人やありませんよ。ただ……軍司先生がそう話してはったんです」
彼女はそこで不快さを露わにするように、眉根を寄せた。感情がすぐ顔に出るタイプのようだ。
「どうかなさいましたか?」
「いえ、ちょっと思い出してもうて……。先生、そのことを吹聴して回っとったんですよ。二人を話のネタにして楽しむように。もちろん、聞かされた方は一ミリも笑えませんよ? それどころか、正直に言うて、私は不愉快でした」
「当然の反応ですね。ちなみに、軍司さんはどうしてその話を知っていたんでしょう?」
「さあ、よくわかりませんけど……どうやら、香音流くんが先生に話してもうたようです」
香音流さん自身が口にしていたのだとしたら、事実なのだろう。自ら軍司さんに話していたと言うのは、少々意外ではあるが。
「四年前のことについて、みなさんから伺いました。幸恵さんは、どの程度までご存知なのでしょう?」
「夫が知っている以上のことは知りません。不幸な事故やったと思っています。ただ、香音流くんを島に招いたのは、少し意地悪すぎですけどね。なんでそんなことしたんか、今でも不思議です」
「その理由に関して、衣歩さんたちは何か仰っていませんでしたか?」
「いえ、特には。私たちも衣歩ちゃんを気遣って、その話は避けるようにしていたので……」
「今回の集まりには、元々お見えになる予定ではなかったそうですね? 少なくとも、楡さんはそう聞いていたようでした。どうして参加する気になったのですか?」
「そんなことまで知りたがるんですね。──誘われたからですよ。神母坂さんに。初めはあの人と顔合わせるんが気不味くて躊躇っていたんですけど、せっかく誘ってくれはったのに、無下にするのは申し訳ないな思って、結局来させてもらうことにしました」
「ちなみに、それはいつ?」
「今月の九日です。元々、衣歩ちゃんからも声をかけてもらっていたんですけどね。流浪園で遺言の公開式をする。久しぶりにみんな集まることができそうやから、できれば幸恵さんにも来て欲しいって。それでもやっぱり気が進まんくて、一度はお断りました。そうしたら、神母坂さんのご自宅に招待してもろて……」
神母坂さんの住まいは、西宮市の外れにあるそうだ。慎ましやかな庭を持つ一軒家で、そこが彼女の実家でもあるらしい。家族はおらず、今は一人で暮らしていた、とのことだった。
「九日の午後──確か、十五時くらいにお邪魔したんやったかな。特に何をするわけでもなく、二時間くらいダラダラと駄弁っていました。それで、何の話の流れやったかは忘れましたが、クリスマスのことが話題になって。『もし何もご予定がないのなら、一緒に衣歩ちゃんのお誕生日を祝いませんか?』と……」
彼女は、二度目の誘いを断らなかった。だからこそ、こうしてここにおり、猟奇殺人の当事者となったのだ。
「二週間ほど前に誘われて、よくスケジュールを調整できましたね」
気になったので、尋ねてみた。
「元々空白やったんですよ。自分で断っておいてヘンかも知れませんが、やっぱり参加することになってもええように、空けていましたから。私、これでも結構優柔不断なところがあるので、気持ちが変わるのを見越して、休みを取っていたわけです」
なんとなく弁明じみて聞こえたが、しかし、ないことではないだろう。そう判断するしかない。
幸恵さんは、短くなったマルボロを惜しむかのように指に挟んだまま、こう述懐する。
「正直に言って、神母坂さんのことは未だにうまく掴みきれていません。とても……不思議な女性でした。美人やのに浮いた話は聞かんかったし、予言癖も……。私はそう言うのはあまり信じてへんので、あの人の言うことを理解できん時も、多々ありました。でも、時々妙に共感できることを、言いはったんです」
「例えば、どのようなことですか?」
「ええんですか? だいぶ脱線しているように思いますけど」
緋村は構わないと答える。これは彼の捜査に付き合ううちにわかったのだが、事件関係者などに話を聴く際、彼はなるべく好きに喋らせる方針を取っていた。
「まあ、大した話やないんですけどね。例えば、こんなことがありました。神母坂さんって、普段からあまり足音を立てへん人やったんですよ。織部さんなんかも、どちらかと言うとそうかな……。で、以前──何年か前に、本邸の方にみんなでお邪魔しとった時に、夫がそのことを指して『猫みたいや』って言うたんです。そしたら、神母坂さんは微笑したまま、『女性の仕草や容姿を動物に喩えるのは、安易すぎてあまり好きじゃありません』って。近くでその会話を聞いていて、やけに納得したのを覚えています」
確かに、女性に対し『猫のような』と言う比喩表現を用いるのは、いささか安易すぎるように思う。文章として見ると、あまりにも安っぽいだ。
「神母坂さんが言うには、『女性を動物──特に愛玩動物として一般的な物に喩えるのは、男性的な支配欲の表れでしかない』そうです。そんな痛烈な反撃を受けるなんて、思ってへんかったんでしょう。夫はとても、キマリが悪そうでした。いい気味です」
「しかし、犬や猫は多くの人が可愛らしく感じる動物です。単にその女性を褒める意味でも、用いられるのでは?」
「確かに、そう言う考えもあるんでしょうけれど……でも、中にはあまり好きではない人も、いてるみたいですよ。東條さんなんかは、昔近所の家で飼われていた犬によく吠えられていたせいで、今でも苦手やって聞いたことがあります。それに、衣歩ちゃんに至っては、ハッキリ嫌いやって言うてました」
「それは意外ですね。ああ言うのは、大抵の女性は好きか──そうでなくとも、可愛がるものだと思っていました」
「その方が普通でしようね。でも、衣歩ちゃんの言い分としては、『初めから人間に飼われる為に生まれて来たみたいで、気味が悪い』そうです。『野良はええの?』って訊いたら、『それはそれで、病気を持っていそうで怖いから、近寄りたくない』って。意外と独特と言うか、シビアな感性を持っとるみたいです」
「面白い考え方ですね」
緋村が述べたのと、同じ感想を抱く。衣歩さんは、むしろそうした動物を愛玩する側かと思っていた。もっと語弊のある──それこそ偏見じみたこと──を言うと、衣歩さん自身が、どこか「ペット」のような印象さえ感じられたのだが。
──いや、こう言うのが「男性的な支配欲の表れ」なのか?
「ええと、元々神母坂さんの話をしていたんでしたっけ? 他にも何かあったような気がしますけど、今パッと思い出せるんはそれくらいです」
真っ赤なマニキュアの傍で、灰の塊がもげ落ちた。
幸恵さんは、そこでようやく煙草を揉み消す。
「他に質問はありますか? なければ、部屋に戻って休ませてもらおうと思います。朝から色々なことがありすぎて、さすがに疲れてしまいました」
「もう少しだけお付き合いください。──神母坂さんに関する『よくない噂』に関して、何かご存知ではありませんか?」
こちらもマルボロを揉み消し──そして、すぐさま新しい物を取り出し──つつ、少々意外な問いを発した。その噂なら、先ほど軍司さんに教えてもらったばかりではないか。彼女をモデルに香音流さんが裸婦画を描いていただけだ、と。
それとも、噂の内容はもっと別の物で、軍司さんが虚偽の証言をしたとでも睨んでいるのか?
緋村の言葉を聞いた幸恵さんは、再び顔をしかめた。
「さあ、何のことでしょう? 先生ならともかく、神母坂さんに噂なんてあったやろか?」
「軍司さんにも、よくない噂があるんですか?」
「そうみたいです。私も小耳に挟んだ程度ですし、正直かなり眉唾な話ですけどね」
「それは……やはり、クローンに関することでしょうか? 人間のクローンを生み出す研究をなさっているとか?」
その話は僕たちもすでに知っているし、先ほど本人に否定されたばかりだ。軍司さんは、「人へのクローニングに、大した意義は見出せない」と、語っていた。
「そんなところです。ただ、私が聞かされたのは、もう少し具体的な話でした。──話したことがあったか忘れましたけど、私、出版社で働いているんですよ。私が所属しているのは、主に女性向けの雑誌を取り扱っている部門なんですが、週刊誌の担当の方に同期の編集者がおって、その人がある日教えてくれたんです。『元産婦人科医の軍司将臣氏が、友人の娘に依頼されて、近々クローン人間の製作に着手するつもりのようだ』と」
「つまり──衣歩さんが軍司さんに、誰かのクローンを生み出してほしいと、依頼したと言うことですか?」
彼女は首肯した。
衣歩さんがそんなことを頼むだなんて、俄かには信じ難い。それこそ眉唾としか言いようがないが、しかし、何故そんな噂が持ち上がったのだろう?
「その同期が言うには、『依頼者の亡き恋人の精子が、軍司氏と繋がりのある病院に凍結保存されていて、それを利用して彼の体細胞クローンを生み出す予定らしい』とのことでした。もちろん、私も信じていませんし、明京流くんの精子が保管されとるやなんて話、聞いたこともありません」
「では、その話は全くの出鱈目だと思うんですね?」
「ええ。だいいち、衣歩ちゃんが明京流くんのクローンを望むなんてこと、あり得ませんからね。亡くなった恋人と同じ遺伝子を持つ赤ん坊が生まれたところで、余計に虚しくなるだけやと思いませんか?」
同感である。
たとえクローニングに成功したとしても、それで明京流さんが蘇るわけではない。軍司さんの言葉を借りれば、生まれて来るのは彼と同じ遺伝子を持つと言うだけの、ただの赤ん坊だ。その子が必ずしもオリジナルと同様に育つとは限らず、むしろ父親との違いを見せ付けられる度に、彼はもうこの世にいないと言う事実を思い知らされるのではないか。
いずれにせよ法に反する行為なのだし、たとえ衣歩さんの要望であっても、軍司さんが応えるとは思えない。
「軍司さんからは、先ほど意外な話を伺いました。なんでも、香音流さんは神母坂さんをモデルに裸婦画を描かれたことがあるそうですね。軍司さん曰く、お二人は『屋根裏で愛を育んでいた』のだとか。この話が本当であれば、香音流さんたちはそれなり以上に親密な関係だった時期があったことになりますが、実際のところどうなのしょう?」
「あの人、そんな風に言いはったんですか。先生らしいと言えば、らしいけど……」
幸恵さんは不快げに眉をひそめ、そう独語した。
「香音流くんたちは、別に付き合っていたわけではありません。ただ……」
「ただ?」
彼女は前髪を掻き上げるように白い額を抑える。答えるのを躊躇っている様子だったが、ややあって、
「……お二人は、屋根裏部屋の中に入られたんですよね?」
反対に、そんなことを尋ねて来る。
戸惑いつつ、僕たちは頷いた。
「でしたら、あそこに飾ってある標本はご覧になりましたか?──そう、見たんですね。あの標本の昆虫は、香音流くんが幼い頃に飼っていたり、採集したりした物なんです。その中に、一匹奇形の蝶がいてるんですけど、お気付きになりました?」
「ええ。それが、どうかされたのですか?」
「生前、香音流くんがあの奇形の蝶のことを、『俺の分身』と呼んでいたのを聞いたことがあります。その時は、何のことやわからんかったけど……今にして思うと、彼なりのメッセージやったのかも知れません」
「メッセージ? 彼は何を伝えたかったのでしょう?」
「さあ? 私にもわかりません。申し訳ありませんが、あとは他の人にでも訊いてください」
にべもなく言い放った幸恵さんは、「では、失礼します」とポーチを取り上げ、そのままドアへと向かう。
引き止めた方がいいのではないか、とも思ったが、緋村が黙っていた為、僕も何も言えなかった。二人して、彼女が出て行くのを見届ける。
奇形のアゲハチョウは、裸婦画の一件とどのように関係しているのか。歪んだ四枚の翅が、しばし脳裏に蘇った。




