表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
流浪園殺人事件  作者: 若庭葉
第一章:珍奇の園
6/108

1:ずいぶんと有意義な休日の過ごし方だ

 ……餌食となった人間の血の海をころげまわり、それから力強い翼にのって空高く舞い上がる。


 ホルヘ・ルイス・ボルヘス(柳瀬尚紀訳)『幻獣辞典』

 僕は、その男の写真を三葉、見たことがある。僕がその最初の一葉を目にした場所は、《喫茶&バー えんとつそうじ》の、暗ぼったい店内だった。


「知ってるか? サバにマグロを産ませる技術ってのがあるらしい。まだ実用には至ってないんだが、実験では成功しているそうだ。なんでも、特殊な処理を施したサバの稚魚の体に、マグロの生殖腺を移植することで、成長したその稚魚がマグロの(らん)や精子を作り出せるようになるんだってよ。俺たち庶民にとっては、夢のような話だな」

 二〇一八年十二月十六日──僕たちが流浪園を訪れる、一週間ほど前のこと。緋村(ひむら)奈生(なお)は突然そんなことを言い、コンビニで買ったらしい()()()の寿司を一つ、口に運んだ。《喫茶&バー えんとつそうじ》はこの日も変わらず閑散としており、僕たちの他にはいつも見かける中年客が一人、カウンターの隅に座り新聞を広げているのみだ。

 緋村は時折こうして何の脈絡もなく、雑学的知識を披瀝することがあり、僕はもうすでに慣れていた。だから、いい加減に生返事をしておいたのだが、彼女は違ったようで、

「何の話やねん、急に。て言うか、お弁当なんて持ち込んで平気なん?」

 緋村の向かい側に座った井岡が、呆れた様子で尋ねた。

 美術学科に所属する彼女は、僕や緋村なんかとは違ってお洒落な──と言うか、いかにも「今時の大学生」らしい風貌をしていた。柔らかくカールさせたボブヘアーをアッシュグレーに染めており、化粧の仕方もそれに合わせた物なのだろう。白いセーターの上から羽織っていたモッズコートや、黒いデニムパンツ、そして今はテーブルの上に置かれたニットキャップと言った組み合わせは、どれも彼女によく似合っていた。少々ありきたりだとは思う──大学の構内でよく似たような格好の人をまま見かける──が。

「許可は取ってるさ」

 ペットボトルの緑茶と共に寿司を飲み下してから、答える。彼はこの店の二階に下宿しており、店主が大家を務めていた。そんな関係だからこそ、多少の自由は許されるのだろう。

「ふうん……なら、ええけど。それより、なかなか洒落た感じのお店やね。ブレイクの絵もおもろいし」

 物珍しそうに周囲を見回しつつ、そう評した。彼女の言ったとおり、店内にはウィリアム・ブレイクの絵画のレプリカが多数飾られており、流れているBGMまでも、エルサレムのアレンジである。店名も含め、これらは全て店主の趣味だった。

「で? 話ってのは何だ? 人の飯時を邪魔したからには、それなりの用件なんだろうな」

「飯時って、もう午後の二時やん。昼下がりやで?」

 おかしそうに苦笑してから、彼女はようやく用件を口にした。

「実は、二人に聞いてほしいことがあんねん。私の学科の友達のことなんやけどな、半年くらい前に大学を辞めてもうた子で、瀬戸くんってのがおったんや。私と(ちご)うて油彩画コースを専攻しとったんやけど、同じゼミ受けとったから、それなりに交友があったわけ。で、その子が退学する直前に、ちょっと不思議なことがあって……」

 井岡は、学科棟の傍らにある空き地での出来事を聴かせてくれた。すなわち、瀬戸が「夢の中で見たことのある女性」の絵を描いていた、と言うエピソードを。瀬戸曰く、彼の夢に現れるその女性は、金縛りに遭っているのか、()()()()()()()()()()()そうだ。

 そして、瀬戸はこの女性の元へ行くと言い残し、直後姿を消してしまったと言う。

「学科の子が気になって下宿先を訪ねてみたらしいねんけど、すでに引っ越した後やったんやって。ゼミの先生も退学の理由は聞いてへんくて……。電話とかメールしてみてもずっと無反応やし、結局なんで辞めてもうたんかは謎のまま、早くも半年が過ぎたわけや」

 去る者は日々に疎し。瀬戸の退学の真相を探る気はとうに失せ、彼に起きた異変や「金縛りに遭う女」の絵のことも、スッカリ忘れていたと言う。

「で、ここからが本題やねんけどな……実は、先週の日曜に、たまたま見かけてん。あの時、()()()()()()()()()()()()()()()

 瀬戸が夢の中で見た──そして、現実でも会いに行くと言っていた、死体のような美女。井岡は、そのモデルと遭遇したらしい。

 意外な展開である。あれだけ興味なさげだった緋村も、「へえ、すげえ偶然だな」

「やんね? 私も驚いたわ。けど、それ以上に気になった。あの人はどこの誰なんやろう? もしかして、瀬戸くんが大学を辞めた理由とも、関わっとるんかな、って。──そんなわけで、ちょっとだけあとを付けてみることにしたんや」

「そりゃあ、ずいぶんと有意義な休日の過ごし方だ」

 得意の皮肉を口にし、片頬を歪めてみせる。顔の筋肉をほんの少し痙攣させただけと言った虚無的(ニヒル)な笑い方が、緋村のトレードマークだった。

「ホンマに。でもしゃあないやん。どうしても確かめたかったんやから」

 とにかく、井岡はその女を尾行し、あるキッカケから、彼女の素性を知ることができたと言う。

 今から一週間前。井岡がこのささやかな探偵行為に興じたのは、関西でも有数の繁華街の、雑踏の中だった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ