1:ずいぶんと有意義な休日の過ごし方だ
……餌食となった人間の血の海をころげまわり、それから力強い翼にのって空高く舞い上がる。
ホルヘ・ルイス・ボルヘス(柳瀬尚紀訳)『幻獣辞典』
僕は、その男の写真を三葉、見たことがある。僕がその最初の一葉を目にした場所は、《喫茶&バー えんとつそうじ》の、暗ぼったい店内だった。
「知ってるか? サバにマグロを産ませる技術ってのがあるらしい。まだ実用には至ってないんだが、実験では成功しているそうだ。なんでも、特殊な処理を施したサバの稚魚の体に、マグロの生殖腺を移植することで、成長したその稚魚がマグロの卵や精子を作り出せるようになるんだってよ。俺たち庶民にとっては、夢のような話だな」
二〇一八年十二月十六日──僕たちが流浪園を訪れる、一週間ほど前のこと。緋村奈生は突然そんなことを言い、コンビニで買ったらしいしめ鯖の寿司を一つ、口に運んだ。《喫茶&バー えんとつそうじ》はこの日も変わらず閑散としており、僕たちの他にはいつも見かける中年客が一人、カウンターの隅に座り新聞を広げているのみだ。
緋村は時折こうして何の脈絡もなく、雑学的知識を披瀝することがあり、僕はもうすでに慣れていた。だから、いい加減に生返事をしておいたのだが、彼女は違ったようで、
「何の話やねん、急に。て言うか、お弁当なんて持ち込んで平気なん?」
緋村の向かい側に座った井岡が、呆れた様子で尋ねた。
美術学科に所属する彼女は、僕や緋村なんかとは違ってお洒落な──と言うか、いかにも「今時の大学生」らしい風貌をしていた。柔らかくカールさせたボブヘアーをアッシュグレーに染めており、化粧の仕方もそれに合わせた物なのだろう。白いセーターの上から羽織っていたモッズコートや、黒いデニムパンツ、そして今はテーブルの上に置かれたニットキャップと言った組み合わせは、どれも彼女によく似合っていた。少々ありきたりだとは思う──大学の構内でよく似たような格好の人をまま見かける──が。
「許可は取ってるさ」
ペットボトルの緑茶と共に寿司を飲み下してから、答える。彼はこの店の二階に下宿しており、店主が大家を務めていた。そんな関係だからこそ、多少の自由は許されるのだろう。
「ふうん……なら、ええけど。それより、なかなか洒落た感じのお店やね。ブレイクの絵もおもろいし」
物珍しそうに周囲を見回しつつ、そう評した。彼女の言ったとおり、店内にはウィリアム・ブレイクの絵画のレプリカが多数飾られており、流れているBGMまでも、エルサレムのアレンジである。店名も含め、これらは全て店主の趣味だった。
「で? 話ってのは何だ? 人の飯時を邪魔したからには、それなりの用件なんだろうな」
「飯時って、もう午後の二時やん。昼下がりやで?」
おかしそうに苦笑してから、彼女はようやく用件を口にした。
「実は、二人に聞いてほしいことがあんねん。私の学科の友達のことなんやけどな、半年くらい前に大学を辞めてもうた子で、瀬戸くんってのがおったんや。私と違うて油彩画コースを専攻しとったんやけど、同じゼミ受けとったから、それなりに交友があったわけ。で、その子が退学する直前に、ちょっと不思議なことがあって……」
井岡は、学科棟の傍らにある空き地での出来事を聴かせてくれた。すなわち、瀬戸が「夢の中で見たことのある女性」の絵を描いていた、と言うエピソードを。瀬戸曰く、彼の夢に現れるその女性は、金縛りに遭っているのか、目を瞑らずに眠っているそうだ。
そして、瀬戸はこの女性の元へ行くと言い残し、直後姿を消してしまったと言う。
「学科の子が気になって下宿先を訪ねてみたらしいねんけど、すでに引っ越した後やったんやって。ゼミの先生も退学の理由は聞いてへんくて……。電話とかメールしてみてもずっと無反応やし、結局なんで辞めてもうたんかは謎のまま、早くも半年が過ぎたわけや」
去る者は日々に疎し。瀬戸の退学の真相を探る気はとうに失せ、彼に起きた異変や「金縛りに遭う女」の絵のことも、スッカリ忘れていたと言う。
「で、ここからが本題やねんけどな……実は、先週の日曜に、たまたま見かけてん。あの時、瀬戸くんが絵に描いとった女性を」
瀬戸が夢の中で見た──そして、現実でも会いに行くと言っていた、死体のような美女。井岡は、そのモデルと遭遇したらしい。
意外な展開である。あれだけ興味なさげだった緋村も、「へえ、すげえ偶然だな」
「やんね? 私も驚いたわ。けど、それ以上に気になった。あの人はどこの誰なんやろう? もしかして、瀬戸くんが大学を辞めた理由とも、関わっとるんかな、って。──そんなわけで、ちょっとだけあとを付けてみることにしたんや」
「そりゃあ、ずいぶんと有意義な休日の過ごし方だ」
得意の皮肉を口にし、片頬を歪めてみせる。顔の筋肉をほんの少し痙攣させただけと言った虚無的な笑い方が、緋村のトレードマークだった。
「ホンマに。でもしゃあないやん。どうしても確かめたかったんやから」
とにかく、井岡はその女を尾行し、あるキッカケから、彼女の素性を知ることができたと言う。
今から一週間前。井岡がこのささやかな探偵行為に興じたのは、関西でも有数の繁華街の、雑踏の中だった。