10:あまり好きではないんだがね
脱衣所を出た二人は、風呂上がりの一服をあと回しにし、ひとまず境木の元へ向かった。特段長風呂だったわけではないのだが、田花が髪を乾かし終えるのを待っていたら、思いの外時間がかかってしまったのだ。
別れる前に伝えられていたとおり、彼は畳張りの休憩スペースにいた。しかし、意外なことに一人ではなく、老人と談笑しているではないか。
境木はああ見えて年配者や子供の扱いが上手いとは聞いていたが、その前評判は事実だったらしい。
二人の方へ近付いて行くと、彼らの気配を察知したのか、境木は話を中断して振り返った。
老人も、渋沢たちの方へ顔を向ける。非常に大柄で、胡座をかいていてもかなり上背のあることが窺えた。立ち上がったら百九十くらいはありそうだ。
顔のパーツはどれも大きく、総じてやや日本人離れした造作をしていた。頭と同様に白い無精髭も不潔な感じは少しもなく、むしろよく似合っている。黒いセーターの上に羽織ったミリタリー系のベストや、傍らに置いたニットキャップから、渋沢は「アウトドアを趣味にする大御所俳優」と言った印象を勝手に抱いた。そのままホワイトシチューのCMに出演できそうだな、とも。
「すまんな、待たせてもうて」
渋沢が片手を立てて謝ると、「気にしていないのです」と簡潔な返事が寄越される。
「君たち、阪南芸術大学の学生さんなんだってね。さっき彼から聞いたよ」
どちらかと言えば厳しい風貌に似合わず、柔和な笑みと声色だった。当然渋沢たちが首肯すると、今度は思いも寄らぬ言葉が飛び出す。
「ところで、こんなところにいるってことは、瀬戸さんのお宅にはもう伺ったあとなのかな? 君たちなんだろう? 藍児くんのお友達と言うのは」
彼は、渋沢たちの訪問を知っていたのだ。しかも、境木が話したのではないらしいく、
「どうしてわかったのですか?」
と、意外そうに尋ね返していた。
「昨日、鉄次さん──藍児くんのお父さんが教えてくれたんだよ。なんでも、藍児くんが知らぬ間に大学を辞めていたそうで、その件を調べにお友達が訪ねて来ることになったとね。彼が阪南芸術大学に通っていたことは私も知っていたから、君と話していてすぐにピンと来たわけだ」
そう言うことだったのか。納得すると同時に、瀬戸家との関係が気になった。
「もしかして、《瀬戸酒店》さんのご近所の方ですか?」
抜け目なく田花が問うた。ちなみに、彼は風呂上がりにもかかわらず、もうサングラスをかけている。
「そんなところだな。隣り近所とまでは行かないがね。元々、奥さんと同じ職場だった縁で、ご夫婦ともに懇意にさせてもらっているんだよ。ま、私はとっくに引退してしまったんだが」
「ほう。ちなみに、前職は何を?」
「医者だよ。これでも、以前は産婦人科医を生業にしていてね。昔は東京で自分のクリニックを構えていたよ。奥さんは当時そこで、看護師として働いていたんだ」
元産婦人科医だったとは。そう教えられて尚、渋沢は彼が白衣を着ている姿を、イメージできなかった。
「瀬戸クンのこともよく知っておられるようですね。もし可能であれば、お話を伺っても?」
「無論、構わんよ。……ただ、ここでは少々落ち着かないな。人の耳もある。どうだね、君たちさえよければ、私の家に来ないか? 大したもてなしはできないが、コーヒーくらいはご馳走するよ」
時間を考えればまだ余裕はあるが、知り会ったばかりで家まで押しかけるのは、さすがに厚かましくないか? 渋沢は迷った末、最年長の判断に委ねることにする。
「ええんですか? 突然お邪魔してしまっても」
「迷惑なら初めから誘わないさ」
「それもそうですね。でしたら、お言葉に甘えさせていただきます」
次の行き先が決まった。
老人は徒歩でここまで来たそうで、境木の車に同乗してもらい、彼の家へ向かうことになる。
「そう言えば、まだお名前を伺っていなかったのです」
移動する為に腰を浮かせつつ、境木が言った。それから自分も含め、三人の名前を順に紹介してくれる。
こちらも立ち上がり、ニットキャップを被った老人は、青年が言い終えるのを待ったのち、
「軍司秀臣だ。軍を司る秀でた臣と書く。覚えやすい名前だとよく言われるよ。私自身は、仰々しくて、あまり好きではないんだがね」
気さくな人物らしく、軽いジョークが添えられる。確かに記憶に残りやすい名前だし、本人の意に反しよく似合っておいでだ──などと、他愛ない感想を抱いた直後。
渋沢はあることを思い出す。
礼が面会する予定だった相手と、名前が酷似している──それどころか、元産婦人科医と言う前歴まで同じではないか。
※
秀臣の住まいは年季の入った平屋建ての一軒家で、庭先に雪を被った柿の木が植わっている他、庭の中にはささやかな花壇と生垣があった。安く売られていた空き家を買い取り、自ら整備して今の状態にしたそうだ。
屋根を設えた駐車スペースが家屋に併設されていたのだが、軽トラック一台分のキャパシティしかなかった為、庭の中の適当な位置に停車させてもらう。
玄関の壁に丸い鏡がかかっていることを意外に感じつつ、渋沢は靴を脱いだ。客間はないとのことで、一行はリビングへと通される。
秀臣が人数分のインスタントコーヒーを淹れて戻って来たところで、渋沢は今回の調査を行うに至った経緯を、彼に伝えた。
「つまり、こう言うことか? 君のガールフレンドは藍児くんの退学の理由を探る為に、私の兄と面会しようとした。しかし、待ち合わせ場所に向かっている途中で、何者かに車道に突き飛ばされ、大怪我を負ってしまった。──今回君たちが瀬戸さんのお宅を訪ねたのは、その事件の真相を探る為でもあった、と?」
秀臣に問われ、渋沢と境木は頷いた。田花だけは悠々とソファーにもたれかかり、ウッスラと笑みを浮かべている。
軍司に双子の弟がおり、彼もまた産婦人科医をしていたことは、軍司について調べた緋村たちから聞かされていた。秀臣こそがその「双子の弟」であると気付いた渋沢は、全ての事情を打ち明けることにしたのだ。
「なるほど、それでわざわざ大阪から遠征して来たのか……」
秀臣は腕を組んで唸る。兄君から何か話を聞かされていないかと尋ねると、
「生憎だが、兄とは長い間疎遠となっていてね。元々あまり仲がよくなかったのもあるんだが、二十年ほど前に私が医者を辞めたのをキッカケに、完全に繋がりを絶ってしまったんだよ」
「それは意外ですね」徐に、田花が口を開く。「今から二十年前と言うことは、当時はまだ四十代──五十に届くかどうかと言ったご年齢のはず。医師を引退するにはずいぶんとお若いように思うのですが、何か特別な理由でも?」
会ったばかりの人間にそんなことを尋ねるのは、いささか不躾と言うものだろう。渋沢は、秀臣が気分を害するのではないかと心配になる。
「そんなところだな。実は、お恥ずかしながら、学会の規則に違反してしまってね。方々から指弾されたり追及されたりするのが嫌で、さっさと現役を退くことに決めたんだ。経営していた病院も、そのまま兄に譲ってしまったよ」
「では、瀬戸クンのお母様は、いつまで勤めておられたのでしょう?」
「私が引退する少し前までかな。私より一足先に病院を辞め、地元に帰って行ったよ」
「当時、すでに結婚されていたんですよね?」
「いや、彼女が結婚したのは退職後だ。彼女のご実家もこの町にあってね。鉄次さんとは元々幼馴染だったらしい」
話を聴くうちに、渋沢は奇妙なもどかしさのような物を覚えた。瀬戸は今年で二十歳になったはずだから、産まれたばかりの彼が瀬戸家に預けられたのも、必然的に二十年前の出来事と言うことになる。
加えて、美由紀が看護師を辞めて帰郷し、秀臣が医学界から退いたのも、同じく二十年前。彼女が鉄次と結婚したのは、退職後から瀬戸を預かるまでの間のようなので──瀬戸を託された時点で、すでに夫婦だったはずだ──、これも二十年前なのだろう。
つまり、これらの出来事は全て、ほとんど同時期に起きていたわけだが、果たしてそんなことがあり得るのだろうか? 偶然にしては、あまりにも時期が重なりすぎているではないか。
渋沢の困惑を他所に、田花は淀みなく質問を差し込んで行く。
「榎園誉歴さんと言う方は、ご存知ですか?」
「ああ、よく存じ上げているよ。先月お亡くなりになったそうだな」
「どう言ったご関係で?」
「元々、榎園さんのお父上と私の父は知己だったんだ。その関係で、昔は互いの家に招いたり招かれたりしていた。と言っても、本当に大昔の話だがね。兄とは大学も同じで──無論、学部は違ったが──、卒業後もずっと繋がっていたようだ。……ま、私は葬儀にも参列しなかったがね。兄と顔を合わせるのが嫌だったから」
先ほども疎遠になっていると口にしていたが、兄弟の仲はよほどうまくいっていないらしい。何か確執でもあったのか、それとも単にソリが合わなかっただけなのだろうか? この辺りのことも、渋沢は気になった。
「そう言う君らこそ、彼と藍児くんとの関係については、もう?──そうか、すでに聞いているのか」
「榎園さんは生後間もない瀬戸クンを、彼のご両親に預けはったそうですね。なんでも、奥様同士ご友人やったと言う縁で」
「そうらしいね。榎園さんの奥さんのことは私も少なからず知っているよ。自殺したと聞いた時には、たいそう驚いた」
「自殺?」
不意に不穏なワードが飛び出す。これには渋沢たちはもちろん、田花でさえ眉をひそめた。
「ホンマですか? しかし、どうしてまた」
「……さあ、詳しい事情は私にもわからないのだが」元産婦人科医は、自らの手元に目を落とす。「とにかく、自殺であることは間違いないらしい。遺書が残されていたそうだ。確か、あれも二十年前のことだったか……」
また「二十年前」だ。聴けば聴くほど、話が混み入って行くではないか。




