9:“under the rose”
田花が事前に場所を調べて来ていた《白猪の湯》には、五分とかからずに到着した。徒歩でも何ら問題のない距離なのだが、車を置かせてもらうわけにもいかないので、再び境木が運転手を務めることとなる。
名前にある「白猪」とは、伊吹山に棲まうとされる神から採ったのだろう。『古事記』において日本武尊を下した伊吹山の神は、「牛のように巨大な白い猪」と描写されているそうだ。
「僕は遠慮させてもらいます。他人と一緒にお風呂に入る文化はないのです」
と言って裸の付き合いを辞退した境木を残し、券売機で入浴券やタオルなどを購入した渋沢と田花は、脱衣所へと向かった。
頭と体を洗い、広々とした湯船に浸かる。血行が促進され、体の芯から温まる感覚が心地よく、自然と溜め息が出た。客はそこまで多くなく、地元民らしい老人や親子が、何組か湯浴みをしているくらいだ。
あまりにも長閑な空気に、瀬戸の安否を心配していたことさえ忘れそうになっていると、間もなく、田花が意外な話を振って来る。
「そう言えば、俺も観たことがあるで? 君の彼女の作品。ちょうど授業の間が空いて暇やった時に展覧会をやっとって、フラッと立ち寄ったんや。なかなかええもんを作るんやな。素直に感心したわ」
昨年度の末、構内にある展示スペースに礼の個展が開かれたことがあった。無論、渋沢も観覧しに行った──どころか、作品のディスプレイだけではなく、一部制作の手伝いもしていた。
「ありがとうございます。あいつにも伝えておきますよ」
「是非そうしてくれ」手で軽く湯を掬い、顔を撫でる。
ちなみに、田花は先ほど受付で購入したヘアゴムで髪を纏め上げている為、侍か陶芸家のように見える。
「『薔薇の下』やったっけ? あのコラージュ画。作品が見事なのはもちろんとして、なかなかオモロいタイトルやないか」
「オモロい、ですか?」
意外な感想だった。
礼の代表作である『薔薇の下』のことは、渋沢もよく知っていた。コラージュに用いられた写真の幾つかは、他でもない彼が撮影した物だ。
しかし、題名のどこに「オモロい」要素があるのか、すぐにはピンと気なかった。
「『薔薇の下』……“under the rose”か。確か、『秘密』って意味の慣用句やったな。……なあ、あの絵には、いったいどんな秘密が隠されとるんや?」
「ああ、そう言うことですか。──別に、そんな大層なものはないと思いますよ。ただ、少し意外な裏話ならありますけどね」
「ほお、何やそれは。気になるやないか」
礼が件の作品に『薔薇の下』と言う題名を付したのも、その「裏話」が理由なのだろう。『薔薇の下』に描かれているのは、様々な素材をコラージュして造られた、幻想的な庭園だった。多種多様、色取り取りの花がそこかしこで咲き乱れ、見る者を色彩の奔流が襲う。
中でも最も目を惹く存在──この作品の主人公とも呼ぶべきオブジェは、庭園の中心に配された白いベンチに腰掛ける、一人の「少女」だろう。ベンチと同じ色のワンピースに、幼い体を包み込んだ彼女は、果物の種子を半分に割ったような形のボディを持つ弦楽器──リュートを爪弾いていた。
しかし、わずかに傾けられたその華奢な首の先にあるのは、人の頭ではなく、巨大な青い薔薇。光るように瑞々しい花弁を満開にさせた、グロテスク且つエロティックな花冠である。
そして、ほんの一部ではあるものの製作に携わった渋沢は、知っていた。
その「不可能」の異名を持つ薔薇の下に隠された、真実を。
※
渋沢がその写真を撮影したのは、一年前の秋のことだった。その日は日曜であり、かねてより礼の製作を手伝う約束をしていた彼は、愛用の一眼レフを携え、朝から彼女の下宿先を訪ねていた。
出迎えてくれた礼と共に中へ入ると、意外なことに、先客がいるではないか。
落ち着かなさそうに正座していたその人物は、渋沢の姿を認めると立ち上がり、会釈して来た。その拍子に、艶やかな長い髪が魅惑的に揺れる。面立ちのみならず、纏う雰囲気や所作までもがイチイチ中性的であり、渋沢は、瞬時に性別の判断が付きかねたほどだ。
戸惑いつつも、彼は「どうも」と会釈し返す。
「学科の同期の瀬戸藍児くん。専攻はちゃうねんけど、授業で知り合うて友達になってん。めっちゃええコでな、今日の撮影にも、快く協力してくれるって言うてくれたわ」
「井岡がどうしてもって言うからやろ」
口許に手を添え、やけに妖艶な仕草で微苦笑する。その時、渋沢は瀬戸の薬指が異様に長いことに気が付いた。
「もちろん、感謝しとるって。──それじゃあ、さっそくで悪いけど、瀬戸くんには着替えて来てもらうとして……その間に、私たちでセッティング済ませとこか」
「ああ。洗面所、貸してもらうわ」
足元に置いてあった紙袋を取り上げ、瀬戸は洗面所を兼ねたバスルームへと引っ込んだ。着替えをさせると言うことは、彼が今回の被写体となるのだろうが、いったいどんな格好をさせるつもりなのか。──その答えは、すぐにわかった。
礼の指示でテーブルや座椅子等、邪魔になる物を窓際に寄せ、できたスペースにパイプ椅子を設置していると、ほどなく瀬戸が戻って来た。その姿を目にした渋沢は、驚くと同時に、ナルホドと納得する。
まるで、それが彼の本来の姿をとでも言うかのように、よく似合っていたのだ。
再び二人の前に現れた瀬戸は、純白のワンピースに身を包んでいた。
膝にかかるほどの丈のスカートから、細くなおやかな素足が伸びており、その部分だけ見れば完全に女性の──いや、少女のそれだ。当然ながら、体毛は事前に処理して来たのだろうが、初めからそんな物は生えていなかったようにさえ思える。
しかし、ワンピースを纏うその胸に、乳房はない。頼りなく未成熟な胸元──にもかかわらず、かくも官能的に映るのは何故なのか。未知の感覚が、渋沢を眩惑する。
「男のクセにこんな格好するなんて、キショくないか……?」
「そんなことあらへんって。思ったとおり、めっちゃ似合っとるよ!」
などと盛り上がる二人を、渋沢は、どこか遠くの景色のように眺めていた。
「やっぱり瀬戸くんを選んで正解やったわ。第二のリリになれるで? ホンマに」
そう言ってはしゃぐ無邪気な横顔を見て──渋沢は、幽かな悪寒を覚えた。
これまでも時折、礼のセンスを怖ろしく感じることはあった。
写真とデジタルアート──ジャンルは違えど、同じ作品創作を学ぶ者として、覆しようのない才能の差をまざまざと見せ付けられる瞬間……彼女には、自分とは違う世界が可視えているのだと実感する度に、渋沢は愕然とさせられて来た。
嫉妬など抱くべくもない。
礼の創作活動を、渋沢は素直に尊敬すると同時に、誰よりも恐怖しているのかも知れない。
畏怖。
渋沢の抱いた感情を、最も適切に言い表すとしたら、そのふた文字に尽きるだろう。現に、その日も礼は、渋沢の想像を超える世界を創り出してしまった。
性別と言う概念を超越した、幻妖なる美の化身──まさしく「不可能」の体現者を。




