4:カイン
夜陰を切り裂く甲高い悲鳴を耳にし、彼女は目を覚ました。──それが自身の発したものであることに気付いたのは、その声が収まった少しあと。
汗だくになった彼女は、ベッドの上でゼエゼエと、荒い呼吸を繰り返す。
まるでたった今、この世に産み落とされたかのように。
豆球の淡い光が照らす室内──ある一件以来、灯りを消して眠れなくなっていた──で、自らの息遣いと、激しく窓に打ち付ける雨粒の音だけが聞こえていた。窓の方に顔を向けた彼女は、やっぱり、と思う。
──やっぱり、酷い雨。
彼女が金縛りに遭うのは、決まって大雨の降る夜だった。
あの日のように。
恨めしく閉じたカーテンの向こうを睨んでいると、ほどなく、ノックの音が響いた。
ビクリと体を震わせた彼女は、怯えた視線をドアに向ける。
「衣歩ちゃん、大丈夫? 悲鳴が聞こえたけど……」
気遣うようなその声は、近くの客室に泊まっていた神母坂鮎子のものだった。衣歩はひと呼吸置いてから、ようやくそれに答える。
「平気。またいつものだから」
「そう……」同情するように、鮎子は間を空けた。「……入ってもいい?」
断る理由はなかった。
ドアが開き──元より鍵はかけていなかった──、凛烈な真冬の冷気と共に、恐ろしいほどの美貌の持ち主が現れる。
艶のある長い髪と、ツキヌクように白い肌。上下共に黒い服に身を包んでいることもあり、まるで古いモノクロの写真から抜け出して来たかのようだ。
黒を纏った白皙の美女は、音もなく──鮎子は普段からあまり足音を立てなかった──衣歩に歩み寄ると、心配そうに細い眉を曲げ、顔を覗き込んで来た。
「すごい汗。可哀想に、怖かったでしょう?」
鮎子の白い手が、優しく頬に添えられる。酷く冷たい。
「タオル、持って来てあげる」
「だ、大丈夫」衣歩は慌てて止めた「それくらい、自分でできるから」
夜中に起こしてしまった上に、そこまでしてもらうのは気が引けた。それに、子供扱いされているようで情けなかったのもある。
──もう、二十五になるのに。
鮎子を始め、幼い頃から家族同然の付き合いをしている大人たちは、当時と同じように彼女と接する。衣歩の方でも、そうした環境に甘えすぎていたのだろう。そのせいで、自分だけがいつまでも子供のまま、少しも成長していないように感じることがあった。
「……わかった」
彼女は微笑み、手を離した。
「少し、お話していってもいい?」
自分が落ち着くまで一緒にいてくれるつもりなのだ。申し訳ない気もしたが、やはりありがたかった。
鮎子はベッドの空いているところに、腰を下ろす。
「でも、不思議。大雨の夜に、必ず金縛りに遭うなんて……。それも、毎回同じ幻覚を見るんでしょう? まるで、彼らのうちのどちらかが、何かを訴えかけているみたい」
日頃よく体験する金縛りについて、衣歩は鮎子たちに話していた。人頭牛身の妖獣や、顔のない影のことも。
「もしかしたら、これから起こることと関係があるのかも……」
「何の話?」
早くも雲行きが怪しくなるのを感じつつ、尋ねる。また「いつもの」が始まったようだ。
「夢の中で、幾つかの幻像が視えた。それによれば、『招かれざる客が城に入り込む。彼はホムンクルスであり、城の宝を奪おうとする』『そして、頭上より黒い死が舞い降り、さらなる災禍が降りかかるだろう』……」
鮎子は時折、こうしたお告げのようなことを突然言い出し、衣歩たちを困惑させた。「予言癖」とでも言おうか。巫山戯ている様子は微塵も感じられず、まるでニュース番組か何かで見聞きした内容を伝えるかのように、淡々と話すのである。
しかし、衣歩の知る限り、鮎子の予言が的中した試しは、一度もない。だから、今ではもう少しも信じる気にはなれず、むしろ呆れてすらいた。これさえなければ、素直に美人で優しいお姉さんだと言えるのに。
微苦笑を湛えた衣歩は、取り敢えず相槌を打つことにする。
「そうなんだ。今回は一段と、物騒な内容だね」
「本当に。なんだかとても……胸騒ぎがする」
あまりにも深刻そうに言うものだから、かえって滑稽に感じられた。自らの予言に自ら怯えているだなんて──到底マトモじゃない。
だいいち、金縛りにしてみても、単なる生理現象に過ぎないことくらい、衣歩だって心得ていた。体は寝ているにもかかわらず、脳だけが覚醒することにより、ありもしない幻影を見てしまうのだ。
これは医学的には睡眠麻痺と呼ばれるそうで、少なくとも眠っている間に起こる金縛りに関しては、超自然的な存在は一切関与していないことが、証明されている。
「……お告げには続きがあってね。『ある一枚の絵を探し出し、飾ることができれば、最後の悲劇は免れる』って」
悲劇──それは、四年前のあの嵐の夜の出来事よりも、恐ろしいことなの?
そう尋ねてやりたい衝動に駆られたが、さすがにやめておいた。
代わりに、
「それって、何の絵なの? おじさまのコレクションの中にあるとか?」
「わからない。ただ、その絵を描いたのは──」
その瞬間、何故だか衣歩は、ある確信めいた予感を覚えた。本当に不吉な言葉は、これから語られるのだと言う、予感を。
形の整った、しかしながら血色の悪い唇の動きが、やけにスローモーに見えた。
「カイン」
直後、全ての音が消え去り、預言者の声だけが永遠に谺し続けるような感覚に陥る。まるで、この世の遍く命が、死に絶えてしまったかのように……。
カインが誰のことを指しているのかは、明白だった。
音の消えた部屋の中、彼女──榎園衣歩の脳裏に飛来したのは、今日と同じ雷雨の夜の記憶。
四年前の悪夢を思い出し青褪めた衣歩は、枕元に置いてあったロケットペンダントを無意識に手繰り寄せ──強く、握り締めた。
そのチャームの中にある物に、助けを乞うかのように。




