2:当然の帰結
「繭田さんの格好を思い出してください。彼はシャツのボタンを外し、肌着をはだけさせていました。そして、腹部にはシリンジが突き刺さったままだった。──自殺をするのに、わざわざそんな場所に注射を打つ必要はありません。腕でも手でも、もっと他にやりやすいところがあったはずです」
確かにそうだ。こんなことに言われるまで思い至らなかったなんて、我ながら迂闊すぎる。
他の人たちも気が回らなかったのか、「ああ」とか「そうか」と言った声が、聴こえて来る。ただ一人、軍司さんだけは真一文字に口を結んだまま、不快げに眉皺を刻んでいた。
「繭田さんの腹部を少し見てみたところ、複数の注射痕が確認できました。繭田さんは日頃からそこにインスリンを打っていたのでしょう。毎回少しずつ、場所をずらして」
「確かに、今朝見かけた時もお腹に打っとったわ。こう、注射するところを摘むようにしてな。しかし、そうなると……繭田さんは、いつもどおりインスリン注射をするつもりやったんか?」
「そうでしょう。しかし、薬品の中に毒物が混ざっていた為に、そのまま絶命してしまった。つまり、彼は毒薬が混入していることを知らなかったんです」
だから、自殺ではない。緋村はそう言いたいのだろう。当然の帰結だ。
「それから、今朝の時点で無事だったからと言って、毒物が混入されたのがそのあとだとは限りません。そして、もっと前から毒が仕込まれていたのであれば、我々にも犯行は可能だったと言える」
「しかし、それはおかしいんじゃないですか? 繭田さんは、腹拵えをすると言って、注射を打ったんですよね? でしたら、あの薬は今朝──朝食の前に打った物と、同じ薬のはずです」
「違ったんですよ。先ほど繭田さんが取り出したバイアルには、青いラベルが貼られていました。対して、今朝使っていた物に貼られていたのは、赤いラベルだったのではありませんか?」
「あっ!」
三つの口からほぼ同時に声が上がった。僕と東條さん、それから楡さんだ。
「やはり、そうだったんですね。実を言うと、僕はあの時、テーブルの方をよく見ていなかったので、不安ではあったのですが……よかった。無事に予想が当たったようだ」
「せやったせやった。確かに、今朝の薬には、赤いラベルが貼られとったわ。と言うことは……繭田さんのインスリン製剤は、初めから二種類あったっちゅうことか?」
「いいえ、三種類です。赤と青の他に、緑色のラベルのバイアルがありました。繭田さんはこれら三つの製剤を、用途に応じて使い分けていたんです」
「そ、そう言えば、僕も見ましたよ。先ほど繭田さんの遺体を運び出す時に、ケースが開きっ放しになっていたので、中身が見えたんです。確かに、机の上にあったのと同じような瓶が二本、しまわれていました」
東條さんが言うのを聞いて、彼が机の傍にいたのを思い出す。東條さんは死体を運搬する際、両脚を担当したのだ。
「思うに、緑色のラベルが就寝前に打つ物で、赤と青が食事前に打つ物なのでしょう。先ほど確認してみましたが、ラベルにはそれぞれ、緑色の物に『持効型』赤に『速効型』、そして青には『超速効型』と表記されていました。──おそらく、僕と若庭を待たせまいと、効き目の現れるのが最も早い『超速効型』のインスリン製剤を、注射したのです」
その中に、犯人の卑劣な罠が仕掛けられているとも知らずに。僕は緋村の話を聞くうちに、次第に暗い気持ちになって行った。
あの時、僕たちが死体の確認を依頼しなければ。そうすれば、彼は死なずに済んだのではないか、と。
無論、後悔してもせんのないことだし、緋村がどう捉えているのかは不明だが。
「……だとすると、毒物がいつ混入したのかを特定するのは、難しいと言うことでございますか? 繭田様が今までご無事だったのは、たまたま青いラベルの薬品を使っていなかっただけかも知れない、と……?」
「そうです。加えて、この屋敷の客室は内側からしか鍵を開閉できません。繭田さんが部屋を空けている間であれば、誰にでも忍び込み、毒物を仕込むことができる」
だとしたら、ここにいる全員に犯行の機会はあったことになる。特に、昨日の夕食後から公開式が始まるまでの間は、誰もが自由に行動することのできる時間だった。
少なくとも、「誰にも毒を仕込むことはできなかった以上、自殺である」と言うロジックは、まやかしだったと言えよう。
「……君の言い分はわかった」
それまで一言も発さずに、緋村たちのやり取りを傍観していた軍司さんが、低い声を響かせる。
「しかし、その想像には、少し無理があるのではないかね? もし仮に、君の言うとおり青いラベルのバイアルにのみ毒が仕込まれていたとして、犯人はどうやってそれを、繭田に摂取させるつもりだったんだ? 奴が超速効型のインスリンを打ったのは、たまたま食事を摂るのが遅れていたところに、君たちが死体の身元確認を頼んだからなのだろう? そこまで見越した上で罠を張っていたと言うのは、いささか現実味に欠けると思うがね」
「仰るとおりです。その点に関しては、まだ考えを持ち合わせておりません」
「あるいは、こうも言えるな。──君たちであれば、繭田に毒を摂取させることができた、と。死体の確認を要請したのも、本当は奴が毒入りの薬を打つよう、誘導する為だったのではないか?」
彼が疑うのも無理からぬ状況だ。暗がりから、不意にナイフを突き付けられたかのような気分になる。
「なるほど、そう考えることもできますね。しかし、もし僕たちが犯人だとしたら、自殺説に傾いていた物を、わざわざ否定したりしないでしょう。それに、あのタイミングで食事を摂ることを決めたのは、他ならぬ繭田さん自身です。この点に関しては、誰にも予想できなかったことだと思いますが」
当然である。もっとも、僕は動揺してしまい、咄嗟にそんな反論は思い浮かばなかったが。
「自殺に見せかけるよりも、容疑が向かないように立ち回ることを優先したのかも知れない」
「そんなことをしても、大して意味はありませんよ。何にせよ、憶測の域を出ませんね」
「君の話だってそうじゃないか。これまで得意げに語って来たことは、何もかも単なる想像だ。犯行の機会があった? だから自殺とは言いきれない? そんなことはどうだっていい。どうしても我々の中に殺人鬼が紛れ込んでいると言いたいのなら、確固たる証拠を提示するんだな。それができない以上、もう君の話に付き合う義理はない」
言うが早いか、彼は乱暴に椅子を引いて立ち上がってしまう。日本刀を取り上げ踵を返しかけた彼を、緋村が止めた。
「待ってください。あと一つだけ、教えていただきたいことがあります。軍司さんは、本当に瀬戸くんの存在を知らなかったのですか? 彼の実家の付近で、軍司さんによく似た人物を見かけたと、先ほど繭田さんから伺ったのですが」
「……私が嘘を吐いたと言うのか? これまで散々君らの要望に応えて来たと言うのに、まだ信用できないと?」
「そう言うわけではありません。ただ、気になる証言でしたので、事実かどうかを確認させていただきたいだけです」
「部外者が……調子に乗りおって」
不気味なほど静かな声音が、かえって恐ろしかった。
彼は体の向きを変えると、大股で青年の席へ歩み寄る。その全身から発せられる怒気──それが黒い陽炎の如く揺らめく様が、目に見えるようだった。
「せ、先生、乱暴は」
すかさず東條さんが止めに入ろうと腰を浮かせたが、一歩及ばなかった。軍神は大きな手で緋村の襟を掴むと、力尽くで立ち上がらせてしまう。
座っていた椅子が緋村の脚に当たり、音を立てて倒れた。
「自分が望めばどんなことでも教えてもらえると思っているのか? 所詮は世間知らずの子供だな! 貴様のような青二才が私のことを詮索するなど、烏滸がましいにもほどがある! 身のほどを弁えろ!」
「…………」
緋村は言い返すことも抵抗することもせず、ただ無機的な眼差しで、相手の顔を見返していた。
「いいか? もしまたくだらぬ言いがかりを付けてみろ。その時は小生意気なそのツラに、一生消えることのない傷を刻み込んでやる! あの卑怯者のようにな!」
ドスの効いた声で言い、突き飛ばすように手を離す。踵を返した軍司さんは、肩を怒らせ、今度こそ食堂を出て行ってしまった。




