23:彼の死を悼んでいた
「……でしたら、遺言書はどうなるんですか? あの遺言書に書かれていた文字は、確かに社長の物でした。なんでしたら、外界へ帰ったあとで筆跡鑑定をしていただいても構いません」
「そこまで仰る以上、本当に誉歴氏が認めた物のようですね。方法はわかりませんが、あなたたちは彼に例の遺言を書かせ、検認まで済ませて堂々とこの島に携えて来た。……いや、もしかしたら、それすらも神母坂さんが用意した物だったのかも知れない。──あるいは、誉歴氏は元々瀬戸くんにも遺産を譲るつもりで準備を進めており、そのことを知った神母坂さんが、今回の計画を思い付いたのかも」
「話になりませんな。先ほどから聞いていれば、憶測ばかりではありませんか。想像だけで人に濡れ衣を着せるのは、やめていただきたい」
「そうはいきません。この件は、場合によっては我々がこの島に来た理由とも、無関係ではなくなる。井岡と言う名前の芸大生が、軍司さんにコンタクトを取っていたと言う話は、聞き及んでいますね? そして、面会することになっていた当日、何者かに車道に突き飛ばされ、彼女が重傷を負ってしまったことも。……繭田さん。あなたは、井岡の背中を押した犯人に、心当たりがあるのではないですか?」
僕にしてみても、これは意外な展開だった。例の遺言書の一件と、井岡が襲撃された事件が繋がって来るなんて。
僕はニュースで目にした低解像度の監視カメラ映像を思い出す。雑踏の中を足早に歩き去る、顔の見えない男。彼の正体が、今ようやく明かされようとしている。そんな予感を抱きつつ、二人の様子を見守っていた。
突き刺すような緋村の言葉を受け、繭田さんは凍り付く。まるで自らの罪が暴き立てられたかのように、瞠いた瞳の中に絶望の色を浮かべて。
反駁もせずに俯いてしまった彼に対し、緋村は容赦なく言葉を放つ。
「話を戻しますが、僕は何らかの事情により、誉歴氏は自らあの遺言書を認めたのだと考えています。もしかしたら、遺伝的な繋がりがあるか否かはともかくとして、瀬戸くんは本当に、彼の隠し子だったのかも知れない。──とにかく、遺産の相続人の中には、初めから彼の名前があった。この事実を利用し、あなたたちは彼の相続する予定だった物を、奪い取る算段を立てたんだ」
彼の推理──いや想像には、重要な点が抜けている。もし緋村の言うとおりだとしたら、瀬戸が繭田さんたちに協力する理由がないではないか。
堪らずそのことを指摘すると、
「もっともな意見だ。瀬戸くんからすれば自分の取り分が減るだけで、何の得もない。……ただし、それは今回この島に現れた瀬戸くんが、本物であればの話だが」
「……何を、仰りたいんですか?」
「繭田さん、昨日あなたと共にここへ来た瀬戸くんは、実は全く別の誰か──つまり、偽物だったのではありませんか?」
彼は再び絶句する。その反応は、緋村の仮説が的中していると認めたに等しい。
「けど、顔は? 彼の顔は、確かに写真で見た瀬戸と同じだったじゃないか」
声を失った繭田さんの代わりに、僕が尋ねる。
「簡単な話さ。整形したんだよ。彼の顔ソックリにな。楡さんから伺った話だと、そう言った手術を請け負うような闇医者も、いるにはいる、とのことだった。この計画がいつから始まっていたのかはわからないが、仮に瀬戸くんが大学を辞めた半年前に始動したとすれば、術後のダウンタイムを乗り切るには、十分な時間があったと言える」
「……もしかして、事情聴取の時点で君はすでにその可能性を考えていたのか? だから、あんな質問をしたんだな?」
「まあな。公開式での一件を抜きにしても、彼には怪しいところがあった。半年も音信不通だったことや、俺が挨拶をした時の妙な反応……そして、夕食の席に現れなかったこととかな。──昨日僕が瀬戸くんに話を聴こうとした時、繭田さんがやんわりとそれを止めましたね? 僕たちと話すことで彼がボロを出すのを恐れ、とっさに割って入ったのでしょう?」
彼は答えない。しかし、緋村も語るのをやめない。
「彼が一人で夕食を摂ったのも、その後の僕たちの訪問に応対してくれなかったのも、同じ理由からだった。本物の瀬戸くんを知っている可能性のある人間と接触することは、極力避けたかったわけですね。僕たちは彼とは初対面でしたが、それでもどんなことから『成りすまし』が露呈するか、わかりません」
「…………」
「また、瀬戸くんがバッサリ髪を切っていたのも、偽物だとバレない為の策だったのでしょう。顔貌は整形で似せることができても、髪質まではそうはいかない」
「…………」
「そして、瀬戸くんの名を騙っていた人物は、繭田さんにとって、とても親しい人間だった。だからこそ、あなたは彼の死を悼んでいたのではありませんか?」
その言葉に、彼はピクリと肩を震わせた。そして、血の出そうなほど強く、唇を噛み締める。
「食堂を出る間際、軍司さんの聖書からの引用に憤ったのも、かけがえのない相手を喪いショックを受けているところへ、追い討ちをかけられたからでしょう。かつて植え付けられた恐怖を忘れてしまうほど、精神的な余裕がなくなっていたんだ」
俯いた男の頭上から、緋村は重ねて問いかける。
「教えてくださいませんか? あれが、本当は誰だったのか」
ウウムと、繭田さんの口から呻き声が漏れた。逆上する前触れかと思い、僕は俄かに緊張したのだが、果たせるかなその予想は外れる。
ほどなく面を上げた彼は──奇妙に思われるほど澄んだ瞳をしていた。
「……倅ですよ。昨日、瀬戸藍児としてこの島に来たのは──彼に成りすました、私の息子だったんです」
その瞬間、僕は彼の涙の意味を理解した。そして、瀬戸の死体を目にした時の、幽かな呟きを思い出す。
──嘘だ。
理不尽に命を奪われただけでなく、惨たらしい装飾を施された我が子の亡骸。そんな物を目の前にして、容易に現実を受け入れられる親など、いるはずがない。