3:会いに行って来るわ
阪南芸術大学の敷地の一隅には、普段誰も寄り付かぬような、小さな空き地があった。交差した通路によって切り取られた猫の額ほどのその空間には、痛んだ色の芝生が疎らに生えるばかりで、後は誰が置いたものか判然としない木椅子が一脚、真ん中にポツリと佇立している。
事件の起こる約半年前──六月上旬のある日の授業終わり、学科棟の廊下の窓からその空き地を見下ろした井岡礼は、そこに見覚えのある後ろ姿を発見した。男にしては長く、そして男にしておくにはもったいないくらい艶のある髪を垂らし、眩しいほど白いシャツを着た背中。間違いない。そこにいるのは彼女の友人──瀬戸藍児だ。
瀬戸は例の木椅子に腰かけ、眼前に立てたイーゼルに向かっている。どうやら、絵を描いているらしい。
──授業にも来んと、あんなところにおるなんて。
呆れた井岡はすぐに学科棟を出、空き地へと向かった。
外の空気は生温く湿っており、今にも一雨来そうな気配だ。薄く膜を張ったように濁った空の下、彼女は友人の方へ歩きながら、その名前を呼ぶ。
「瀬戸くん!」
よほど夢中になっているのか、耳に届かなかったらしい。
再び呼びかけつつその背後まで来た時、スケッチブックに描かれている物が、彼の肩越しに見えた。
それは、奇妙な素描だった。一人の女──美女と形容して差し支えないほどの美貌の持ち主が、ベッドに横たわっている。しかし、どうやら彼女は眠っているのではないらしい。
長い睫毛に縁取られた両目が、開かれているのだ。
色彩がない為生白く見える肌や、肩の後ろに広がった長い髪、そして光を映さぬ昏い瞳──それらはさながら死体のようで、井岡は思わず立ち尽くす。しばし釘付けにされてしまうほど、異様な迫力を放つ絵だった。
すると、ようやく瀬戸は彼女に気付いたらしく、
「……井岡か。どないした?」
彼女の方を振り仰ぎ、不思議そうに尋ねる。長い黒髪がシャンプーのCMのように、サラリと流れた。
「どないしたって──そっちこそ何しとるん? 授業サボってまで、こんなところでスケッチなんて」
「ああ、これ。綺麗な人やろ」言いつつ、再び作品に顔を向ける。
「確かに綺麗やけど……誰か、モデルでもおるの?」
反応に困った結果、そんな意味のなさそうな問いを発した。
「まあ、な。と言っても、現実やのうて、夢の中で見たんやけど」
「夢?」
思わず訊き返す。言っている意味がわからなかった。
「ああ。その夢の中で、俺はどこか知らん部屋におって、すぐ傍のベッドで眠るこの人のことを見下ろしてるんや。彼女はこんな風に目を瞑ってへんくて、たぶん──」
自身の絵を惚れ惚れと眺めつつ、瀬戸は続けた。
「金縛りに遭うてるんやろな……」
その話し振りは、単に昨日見た夢の話と言った雰囲気ではなく、現実に体験した出来事を、語るかのようだった。どうしてそんなことを口にしたのかは不明だが──とにかく、彼に何か、異変が起きつつあるらしい。
それだけを明敏に察知した井岡に、追い討ちをかけるかの如く、
「……俺、この人に会いに行って来るわ」
「い、行くって……どこに?」
「流浪園」
耳慣れない言葉が聞こえた途端、まるでそれに呼応するかのように、井岡の頭に小さな水の雫が一つ、ぶつかり弾ける。
案の定、雨が降って来た。
そして、この日を最後に、瀬戸は彼女の前から姿を消した。彼は謎だけを残し、人知れず大学を辞めてしまったのだ。