18:第二ラウンド
織部さんに礼を述べ、僕たちは使用人室を出た。その途端、ドッと疲労感を覚え、思わず息を吐く。
想像も付かぬほど、濃密な時間だった。まさか、これほどまでに深い闇が、この流浪園に渦巻いていたなんて。
今更ながら、僕は捜査に同行したことを、わずかに後悔していた。深淵を覗くどころか、いつの間にかその奥底へ転げ落ちてしまった気分だ。
しかし、こちらのことなどお構いなしに、緋村はスタスタと廊下を進んで行く。その背中を重い足取りで追いかけつつ、僕は尋ねた。
「次は誰のところへ行くんだ?」
「決まってるだろ。先生にお話を伺うんだ」
さっそく軍神様との第二ラウンドが始まるようだ。せいぜい流血沙汰にならないことを祈ろう。
階段を上がり踊り場の西側へ向かう。客室が二つ、短い通路を挟んで並んでおり、こちらの突き当たりにも窓があった。その上の壁には、立派な海亀の剥製が飾られている。
軍司さんの部屋は、向かって右手──屋敷の奥側にある方だ。
緋村がドアをノックすると、すぐさま入室を許可された。
「どうぞ、入りなさい」
豪胆なことに鍵をかけておらず、僕たちはその声に従った。
中に入ると、彼は手酌で一杯やっていたようで、机にブランデーの瓶と大きなグラスが置かれていた。
「遅かったじゃないか。危うくコニャックをひと瓶空けてしまうところだったよ」
安楽椅子に悠々と体を納め、やはりガイコツじみた笑みを浮かべる。見覚えのある椅子だと思ったら、先ほどの家族写真の中で、誉歴氏が腰かけていたのと同じ物だった。
まるでマフィア映画のボスのような姿だが、机に立てかけられているのは黒光りする日本刀である。
こちらも装飾の類いがほとんどない、殺伐とした客室で、唯一それらしい物と言えば、本棚の中に飾られている、石膏の首像か。シンプルな意匠の兜を被った青年が、純白い横顔をこちらに向けていた。彼の首像は、独特の形状をした台座の上に生えており、巨大なチェスの駒のようにも見える。
「アルカメネスによる青年マルス首像のレプリカだ。この部屋を私が使うと決まった時に、榎園くんが飾ってくれたのだよ。マルスとはローマ神話に登場する戦神のことだな。私の渾名とかけた洒落のつもりなんだろう」
僕の視線に気付いたらしく、軍司さん手ずから説明してくれた。
「それで、どうだったね? みなから話を聴いてみて、収穫はあったかな?」
「ええ、色々と興味深いお話を伺いました。例えば、軍司さんと繭田さんの間に、かつてトラブルがあったらしいことなど」
「そんなもの、もうずいぶんと昔の話だ。少なくとも、この事件とは何も関係がない」
「そうかも知れませんね。しかし、どこで何が繋がって来るのか、現時点ではわかりません。繭田さんも今回の事件の関係者なのですから……。よろしければ、教えてくださいませんか? いったい何が原因で、灰皿を投げ付けるほど激昂なさったのかを」
「さあな、忘れてしまったよ」
「繭田さんのことを『裏切り者』と仰っていたそうですが?」
「織部が教えたのか。寡黙な男だと思っていたが、いつの間にかお喋りになったようだな。──なら、奴が私の信頼を裏切るような真似をしたのだろう。もっとも、よく覚えていないし、これ以上話すつもりもないがね」
早々に店じまいをされてしまう。到底「覚えていない」とは思えない返答だが、そう言われては致し方あるまい。
「では、もし思い出されたら教えてください。──軍司さんは、誉歴さんの不妊治療にも尽力されていたそうですね。彼が香音流さんたちを授かった際にも、人工授精に携わっていたのですか?」
「ああ。当時は現役どころか、医師としての全盛期だったからな、病院での手続きから凍結精子の手配、それから施術に至るまで、全て私が行ったよ」
「それは、誉歴さんからのご依頼で?」
「そうだ。元々無精子症のことで、彼から相談を受けていてね。私の勤務していた病院で何度か検査を行った結果、子供を作るのは難しいことがわかった。だから、精子バンクを利用することを勧めた」
「香音流さんも明京流さんも、他人の精子を用いたことには変わりないわけですね? つまり、どちらも血の繋がりはない、と」
「昨日もそう言ったと思うがね」
「そうでしたね。ただ、誉歴さんのお二人に対する扱いには、かなりの差があったと伺いましたので……」
「要するに、こう言いたいのか? 明京流くんだけは、本当は榎園くんと遺伝的な繋がりがあり、だからこそ贔屓されていたと? 残念だが、あり得ないな」
「そう言えば、精巣精子採取術を用いることもできなかったと、仰っていましたね」
「そうだな。そもそも、二十五年前には、精巣内の精子を人工授精に用いる技術は、まだ確立されていなかったがね。精巣精子を用いた顕微授精が、世界で初めて報告されたのは、一九九四年。明京流くんが産まれた、一年後だ」
「そして、技術が確立されたあとだとしても、それを誉歴さんに適用することはできなかった……?」
「そう言うことだ」
我が意得たりと言った風に首肯した彼は、不意に僕の方へ視線を寄越した。いったい何を言われるのかと、思わず身構える。
「ところで、若庭くん。昨日見せてもらった瀬戸くんの写真だが、もう一度見せてくれないか?」
「は、はい」思いがけない要望に戸惑いながら、スマートフォンを取り出し、例の写真を表示して手渡す。
彼はしばし画面と睨めっこしていた。
「ふむ、この写真じゃわからないな」
そう呟くと、もう気が済んだのか、すぐにそれを返してくれる。──何かを確かめたかったのだろうか?
「どうかされたのですか?」
「いやなに、念の為確認しておきたいことがあったんだ。彼の手なんだがね。……繭田の言葉を信じる気は毛頭ないが、もし本当に瀬戸くんが榎園くんの子供なら、受け継がれているかも知れないと思ったんだよ。榎園くんの手にあったのと、同じ特徴が」
「それは、どのような特徴ですか?」
「榎園くんは、薬指が、中指よりも長かったんだ。ちょっとしたことのように思えるが、これが意外に目立つんだ。実際に見比べてみると、他の人間との違いは一目瞭然だな。本人はそれを恥ずかしがっていたようで、写真や肖像画なんかでは極力隠していたよ」
それを聞いて、僕は先ほど使用人室で目にした家族写真を思い出した。あの写真の中で、誉歴氏は軽く両手を握り膝の上に乗せていたが、あれは長い薬指を隠す為だったのだろう。
「本来なら、直接瀬戸くんの指を見て確認したかったんだが、生憎彼の両手は、犯人が持ち去ってしまった。剥製を縫い付けたことと言い、犯人の行動はいちいち理解不能だな」
まったくだ。声にせず同意すると共に、犯人が手首が持ち去ったのは、このことが理由だったのではないかと考えた。もしかしたら、瀬戸の薬指には本当に同様の特徴があり、犯人はそれを隠したかったのではなかろうか?
あるいは、特にそんな物はなかったのだとしても、それを確認されること自体を厭うたと言う可能性も考えられる。
無論、どちらにせよ、犯人は誉歴氏の指の特徴について知っていたことになるわけだが、流浪園の関係者──ではなくとも、彼と接したことのある者──であれば、誰でもこの条件に当て嵌まるだろう。




