17:強敵だ
幽かに奥歯を打ち鳴らしながら、彼は堰を切ったように、その凄絶な体験を語った。僕たちは、声を失ったまま、ただそれを聞いていることしかできなかった。
「わたくしに、繭田様の体を抑えているよう命じ、先生は傷口を縫い始めました……。今でも、鮮明に思い出すことができます。わたくしの拘束を解くことができず、叫喚び声を上げる繭田様の姿と、先生のあの、嬉々とした表情──先生は、笑っておられたのです。……正直に申しまして、わたくしは以前より、先生のことを怖れておりました。激情家として知られ、医療界において絶対的は権力をお持ちなのですから、当然でしょう。しかし、その時ようやく思い知ったのでございます。この方は、地位や権力などとは無関係に、もっと根本的な部分からして、怖ろしい存在なのだと……」
繭田さんが軍司さんを恐れる理由が、ようやくわかった。彼はかつて軍神の怒りに触れただけではなく、身を持って「剥き出しの悪意」を体験していた。古傷が疼くのも当然だろう。鬼手仏心とは真逆──途方もない狂気を宿し、軍司さんは、針と糸を手にしたのだ。
「あの時のことが、お二人の間に覆しようのない力関係を築き上げたのは、紛うかたなき事実です。いえ、繭田様だけではございません。先生に逆らえる者など、大袈裟でなく、この世には存在しないでしょう。事実、現役を退かれた今でなお──それどころか、当時にも増して──、生殖補助医療の世界における影響力は計り知れません。先生の指先一つで白から黒へ変わるような病院や研究機関は、国内外に幾つもございます」
「なるほど……やはり、強敵だ」
緋村は半ば独白するように、呟いた。「敵」と言う言葉を用いたのは、臆さず対峙すると言う意思の表れなのだろうか?
いずれにせよ、本人の前では口にしてほしくない。
「しかし、今のお話を伺ったあとだと、先ほどの繭田さんの反応は、少々不自然なものに思えて来ますね。軍司さんが旧約聖書の一文──自らの供物が顧みられず、憤ったカインに対して神が放った言葉──を、口にした時のことです。あの時、繭田さんは一瞬ではありましたが、怒りを露わにしていました。まるで、かつて味わった恐怖を、忘れてしまったかのように」
──何故君は怒るのだ、何故君はそのように顔を伏せるのだ。正しいことをしているのなら、顔をあげればいい。正しいことをしていないのなら、罪が門口で待ち伏せしているぞ。
あれは、聖書からの引用だったのか。
「言われてみれば……普段とは少々ご様子が違っていた気がします。先生にしつこく疑われたことが、そこまで癇に障ったのでしょうか?」
「それにしては、唐突に沸点に達したように見えましたが……。あとで本人に伺ってみることします」
スンナリと話してくれるといいが……。そもそも、体調が芳しくなかったようだし、事情聴取に応じてくれるかさえ怪しい。
「繭田さんと言えば、昨夜飛び出して行った彼を連れ戻す際、何か耳打ちをされていましたね。何事か尋ねていたように見えたのですが、どんな話をされていたのでしょう?」
「少し、気になったことを伺っただけです。瀬戸様が誉歴様の実の子供だと言う話は、どうにも信じられなかったものですから。どう言った経緯で彼が産まれたのか、ご存知ありませんかと尋ねました」
「しかし、繭田さんは詳しいことは聞かされていなかった、と。織部さんご自身はいかがでしょう? 誉歴さんと瀬戸くんの関係に、心当たりは?」
「全くない、と言えば嘘になります」
意外な返答に、僕は思わず膝を乗り出す。何か、重要な情報が飛び出すのではないか、と。
「昨夜、一人でこの部屋に戻ってから思い出したのですが……誉歴様のご葬儀に、瀬戸と言うお名前の方が、ご夫婦で参列されていたようなのです。わたくしは直接ご挨拶ができなかったので、どなたなのかはわかりません。ただ、芳名録にそのようなお名前が記帳してあるのを、目に致しまして……」
「芳名録であれば、当然住所も書いてあったはずです。どこだったか、覚えていませんか?」
「確か、滋賀県の米原市だったのは記憶しておりますが、そこから先は……」
昨日別働隊が向かった瀬戸の実家の住所も、同じだったはずだ。どうやら、誉歴氏と瀬戸家に何らかの繋がりのあったことは、事実であるらしい。
──彼らはとうに小旅行を終え帰宅しているはずだが、何か収穫はあったのだろうか? ここに来て、連絡手段のないことが酷くもどかしい。
「神母坂さんが殺害された理由に関して、心当たりはありますか?」
ようやく、今回の事件と直接的な繋がりのある質問が飛ぶ。
やはり織部さんも、他の人たち同様、首を横に振った。
「では、『おかしな噂』なる物については?」
緋村がそう尋ねた瞬間、織部さんが息を呑むのがわかった。
「そんなことまでご存知なのですか……。存外、オープンな方がいらっしゃるようですね」
苦々しげに唇を歪めた彼は、疲れたように深く椅子にもたれ、額を覆う。
「と言っても、我々も詳しく聞いたわけではありません。よろしければ、どのような内容の噂なのか、教えてくださいませんか?」
「あまり気分のいい話ではございません。それに、この事件とは何の関係もないでしょう……」
「だとしても、構いません。今は少しでも情報が欲しいんです。真相を解明する為と言う以上に、みなさんを信用する為に」
緋村は珍しく真摯な眼差しを向け、説得した。が、しかし、彼の口は堅かった。
「申し訳ありません。こればかりは、ご勘弁ください」
「……わかりました」
ここまで頑なに拒否されては、諦めるより他ないだろう。あまりしつこいと、捜査に協力してもらえなくなる恐れもある。
言い条、噂の内容について余計に知りたくなってしまったのも、事実だった。他の人から、どうにか聞き出せないものか……。
「不躾な質問ばかりしてしまい、すみません。とても参考になりました。ありがとうございます」
「お気になさらないでください。我々のことを信用していただく為ですから」
多少皮肉めいた口調で言い、織部さんは手付かずであったコーヒーを啜る。僕もようやくその存在を思い出し、熱の冷めたそれを一気に流し込んだ。
ただ一人、緋村だけは違い、口許を手で覆ったまま、しばしその黒い水面を見下ろしていた……。
「誉歴さんの遺書ですが、公開式のあと、織部さんが回収していましたね? 少し、見せていただいても構いませんか?」
その要望に応じ、使用人はキャビネットの引き出しから遺書を取り出して、彼に手渡した。
僕は席を立ち、緋村の横に立って彼の広げた便箋の中身を覗き込む。昨夜織部さんの読み上げたとおりの内容が、少々癖のある筆文字で記されていた。読み辛くはあるが、全く判読できないほどではない。
「誉歴さんは、後年耳が不自由だったようですね」
「ええ。難聴には非常に苦しんでおられました。特に、衣歩様のお声が聞こえなくなってしまったことが、何よりもお辛かったようです……」
「今朝の話ですと、誉歴さんの筆跡に間違いない、とのことでしたが、書かれている内容に関してはどうでしょう? 瀬戸くんに関すること以外に、気になった点はありませんか?」
今度は首を横に振った。
「特には……春先に余命宣告をされていたのも事実でございます。それと、文末に『六月十日』と言う日付がございますが、誉歴様から遺言書を用意し金庫に保管してあると伺ったのは、ちょうどそれくらいの時期でした」
氏の遺言書は、今年の六月に認められた物だった。……そう言えば、瀬戸が大学を去ったのも同じ月だったか。
どちらも共に半年前──この符合には、何か意味はあるのか?
「ありがとうございました」
遺書を返すと、緋村はまたしても、例の花束について尋ねた。
「いえ、わたくしではございません。……ですが、その花束には心当たりがございます」
「本当ですか? いったい、どなたが?」
「それが、誰が供えたのかはわからないのです。ただ、毎年この時期になると、迷宮のあった場所に捧げられているんですよ。以前、お屋敷のお掃除に訪れた際、わたくしも目にしたことがあります」
予想外の証言である。四年前の落雷以来、人知れず花を供え続けている者がいたのだ。
やはり事件との関連性を見出すのは難しいが、純粋にそれが誰の手向けた物なのか、少しずつ気になり始めていた。




