14:『お化けの絵』と
「では、少し質問を変えさせていただきます。──神母坂さんが殺害された理由について、何か心当たりは?」
楡院長と同様、「いいえ」の答えが返って来る。変わった人ではあるが、誰かの恨みを買うような理由は思い付かないと言う点も、共通していた。
しかし、その後放たれた交際相手はいたかと言う問いに関しては、違った反応が寄越された。
「もう何年も恋人はいないと仰っていましたよ。……ただ、心当たりがなくもないと言いますか」
「どう言う意味でしょう?」
「いえね、実は半年くらい前に、若い男性と一緒にいるのを見かけたんですよ。神戸市内のカフェで。何やら小声でお話している様子だったので、声はかけませんしたけど」
関心を寄せざるを得ない情報だった。
「あの、もしかして、その男性はこんな人ではありませんでしたか?」
言いながら、急いでスマートフォンを取り出し、瀬戸の写真を表示する。
眼鏡をかけ直しつつ、画面を凝視した彼は、ほどなくして「いいえ」と首を振った。
「全く雰囲気が違いましたよ。ここまで綺麗なストレートヘアーではなかったですし、何と言うかもっと、ガラの悪そうな感じでしたから」
瀬戸ではなかったか。
「他にどんな特徴がありましたか? 覚えていることを、教えてください」
「そう言われても、半年も前のことですからねぇ……」しばし、考え込んだのち、「ああ、一つ思い出しましたよ。確か、背中──肩甲骨から両肩にかけて、刺青を入れているようでした。その人、まだ真夏と言う時期でもないのに、黒いタンクトップを着ていたんですよ。で、その隙間から大きな刺青だかタトゥーだかがはみ出しているのが見えたので」
「何の柄だったか、覚えていますか?」
「さあ、そこまでは……龍だったのかな。鱗のような模様があったのは、辛うじて覚えています」
龍の刺青、か。神母坂さんは、ヤクザ者と交際していたのだろうか?
「その話は、どなたか他の方にはしましたか?」
「ええ。確か、楡先生と幸恵さんには話したかな。もちろん、それぞれ別の機会に」
その頃、楡夫妻はすでに別居中だったわけか。
「わかりました。ありがとうございます」
ひとまず礼を述べてから、彼は次なる問いを放つ。
「先ほど仰っていた、香音流さんの絵ですが、どのような作品だったのでしょう? とても興味があります」
「どのような、ですか。そうですね……お二人は、太宰治の『人間失格』を読んだことがありますか?」
何故か質問で返される。答えは、二人とも当然「ある」だ。
「そう言えば、若庭さんは文芸学科なんでしたっけ。愚問だったな。──では、『第二の手記』の中で、主人公の部屋に遊びに来た級友から、ゴッホの自画像を見せられるシーンは、覚えていますか?」
無論、覚えている。『人間失格』の序盤において──そして、それはそのまま主人公、大庭葉蔵の人生において──、かなり重要且つ印象的なエピソードだ。
「その際、友人はそのあまりにも有名な自画像を、こう表するんです。『お化けの絵』と。──僕は、例の香音流くんの絵を見た瞬間、まっさきにこのフレーズを想起しました」
丸眼鏡の奥の瞳が、やけに淀んで見えた。現実ではない遠くの場所──過去を幻視する者の黒眼だ。
「あのシーンで、主人公はその絵を見たことにより、『自分の行く末が決定付けられた気がした』と、述懐しています。彼と同じように、人間を信じることができず、怪物か何かのように恐怖して来た芸術家の心理に、触れてしまったのでしょう。そして、自らもそうした『お化けの絵』あるいは『地獄の馬』を描くのだと、心に決めるわけです。……あの時の香音流くんの絵は、まさに彼の見て来た『地獄』を、ありのままに描き出したかのようでした」
そう語る彼の表情は、どこか恍惚としているように見えた。青年の描いた「地獄」に思いを馳せているのか、それとも自らの語りに陶酔したのか……。
ウットリと、僕と緋村の間の虚空を眺めていた彼は、ほどなくして追憶を終えたのか、軽く目を伏せ、眼鏡をかけ直した。
「すみません、取り留めのないことを語ってしまって。とにかく、それだけ素晴らしい作品だったと言うことです。あれだけはね。……まあでも、鮎子さんからは不評でしたけど」
「他に現存っている作品はないのですか?」
「ええ。あれ以外は全て処分してしまったと、香音流くんが言っていましたから」
「……なるほど。参考になりました」
「ならよかった。他にご質問は?」
「我々の学友──井岡のことをご存知だったそうですね。なんでも、彼女の作品とインタビューの載った記事を読まれたとか」
「ええ。美しいコラージュ画でした。モチーフは少々ありきたりでしたが、色使いにセンスを感じましたよ。あの記事が載っている号は、まだ残してあります。作品のタイトルは……確か『薔薇の下』でしたっけ? なかなか意味ありげですね」
「確かに。僕もそう思います」
そう呟いたきり、彼は黙してしまった。僕からしたら、その反応こそ「意味ありげ」に思えた。特に何もないのかも知れないが。
「こちらからも、少しお訊きしてもよろしいですか?」
「ええ、どうぞ」
「緋村さんは、どの程度まで事件の真相を見抜いているんでしょう? もう犯人の目星が付いているとか?」
ずいぶんと核心的な問いである。緋村はこれに対し、至って平板な口調で、
「残念ながら。まだ調査を始めたばかりですので、そこまで具体的なことは思い付いていません」
「そんなことを言って、本当は軍司先生を疑っているんじゃないですか?」
むしろ、彼にそう思われていたことが意外だった。
「何故そう思われるのです?」
「だって、お二人は元々、ご友人が怪我を負わされた事件を調べる為に、ここを訪れたのでしょう? 先ほどの質問も、その一環だったはずです。そして、軍司先生は謂わば、その事件の容疑者なわけだ。ご本人の前では言えませんけどね。そんな状況で新たな事件が起きたのですから、先生が関与しているのではないかと考えるのも、仕方のないことかと……」
「つまり、東條さんは二つの事件に繋がりがあると仰りたいのですか?」
「僕がと言うか、お二人がそう考えているんじゃないかと。でも、どうやら違ったみたいですね」
「いえ、もちろんその可能性も考慮してはいます。ただ、それでも明確な容疑者は、少しも絞りきれていませんが」
「なら、いいんですけどね。このあと、軍司先生にもお話を伺うつもりなんでしょう? 昨晩の激昂ぶりを見ればわかるとおり、一度キレると手の付けられない人なので、機嫌を損ねてしまわぬよう注意してもらおうと思いまして。まあ、要らぬお世話かも知れませんが」
それから、彼は少し気になる話を教えてくれた。
「そうそう、繭田さんのおでこに古傷がありますよね? あれも、以前軍司先生の逆鱗に触れてしまったせいでできた物らしいですよ。なんでも、灰皿を投げ付けられたのだとか。軍神様と呼ばれるだけあって、恐ろしいですね」
僕はこの島へ来る途中、船の上で楡さんから聞いた話を思い出す。繭田さんが軍神の逆鱗に触れるのは、昨晩が初めてではなかったのか。
また、繭田さんが軍司さんと話す際、ことあるごとに額の傷に触れていたのにも、なんとなく合点がいった。かつて味わった痛みや恐怖が蘇り、古傷が疼いたのだとしても、無理からぬことだろう。
「ご忠告ありがとうございます。──ひとまず、これで最後の質問です。迷宮のあった場所に花束を供えたのは、東條さんですか?」
またしても、緋村はその花束のことを知りたがった。
「さあ、僕はそんな物、用意してませんよ。衣歩ちゃんたちじゃありませんか?」
前回と同様の答えたった。
このやり取りを最後に、事情聴取が終わる。衣歩さんの部屋に戻りかけた東條さんは、ドアノブに手をかけて動きを止めた。そして思い出したように振り返り、こんなことを言って寄越す。
「そう言えば、若庭さんの名前って、『人間失格』の主人公の名前に似てますね。若庭葉と大庭葉蔵で、真ん中の二文字が被ってる」
あまりにもどうでもいいことだったので、「はあ、確かに」と、気の抜けた返事しかできなかった。その程度のこと、学科で散々言われて来たし、何なら以前緋村にも茶化された。
すると、彼は気まずげな微苦笑を浮かべ、
「すみません、それだけです」
本当に「それだけ」だったらしく、彼はすぐに扉の向こうへ、消えてしまった。




