10:“Solve et Coagula”
「そう言えば、隣りの部屋にも悪魔がいたな」
「なに?」振り返った緋村は、不思議そうに片眉を上げた。
「いや、絵が飾ってあったんだよ。こう、山羊の頭を持つ悪魔──だと思う──の絵が」
「ふうん、面白いな……」
何が面白いのか、僕にはよくわからなかった。
しかし、緋村はよほど興味を惹かれたようで、早々に現場検証を切り上げ、薬品室の扉へと向かう。
「もうここは見ないのか?」
「ああ、取り敢えず見たかったところは見ることができた」
だとしても、切り上げるには早すぎる気もしたが……。まあ、彼がいいと言うのだから仕方ない。
僕も緋村の後に続き、彼が開けたドアから隣りの部屋へ移動した。
「なるほど、“メンデスのバフォメット”か」
バフォメットと言う単語が悪魔の名前であることはなんとなく知っていたが、メンデスの方はわからない。
「このポスターの絵は、十九世紀フランスの魔術師、エリファス・レヴィによって描かれた物が元になっている。ほら、左右の腕に文字が書いてあるだろ? それぞれ、右腕が“SOLVE”、左腕が“COAGULA”──この二つを繋げると“Solve et Coagula”。すなわち『溶解して固めよ』とか『分解して統合せよ』、または『分析して理解せよ』って意味のラテン語になる。レヴィ曰く、それが錬金術の心得らしい」
どことなく、ミステリにおける推理にも通ずるような気がした。捜査によって得られた手がかりや証言などをいったんバラバラに「分解」し、それぞれのピースを正しく当て嵌めることにより「統合」する。こうして物語の探偵役は真相を「錬成」するのだ。
そんな感想を素直に口にすると、
「なんでもかんでも結び付けんじゃねえよ」
最も身近な素人探偵の反応は、実にそっけない。
「何にせよ、この絵や黒山羊の剥製をここに飾ったのも、錬金術と縁のあるアイテムだからだろうな。よく見てみれば、そこの棚にある薬品は、どれも劇薬ばかりだぜ。金属の溶解に用いられる王水や、インド錬金術においてシヴァ神の精子とされる水銀、それにアセトン、ベンゼン、無水酢酸──この辺は引火性液体のオンパレードだ。まるで爆薬庫みてえな部屋だな」
そんな危険物ばかりを蒐集して、誉歴氏は何がしたかったのだろう。賢者の石を生み出すつもりだったのか?
「見たところ薬品が持ち出された形跡はないようだが……念の為、後で織部さんに確認してみるか」
その言葉で締め括り、緋村は短い現場検証を終えた。
そして、廊下へ出たところで、僕は重要なことを訊き忘れていたのに気付く。いい機会だし、ここで尋ねておくとしよう。
「ところで、そろそろ教えてくれないか? どうして君が、井岡の事件を調べる気になったのか。何故警察に任せようとせずに、あれほど重かった腰を上げたんだ? 何か理由があるんだろ?」
「……別に、ねえよそんなもん」
本当だろうか?
「もしかして、何か言えないことでもあるのか?」
「そう言うわけじゃねえ。ただ……そうだな、強いて言うなら」
「なんだ?」
緋村は、何故か不機嫌そうに顔を背け、
「蝶が……」
蝶? 何故ここで蝶が出て来る?
僕は重ねて尋ねたが、彼は思いの外強情だった。
「そんなこと、今はどうだっていいだろ。それより、あまりみなさんを待たせるわけにはいかねえ。さっさと話を聴きに行くぞ」
どうしても話したくないらしい。追及を拒むように歩き出してしまう。
いったい彼は何を口走ったのか、非常に気になりはしたものの、ひとまず引き下がることにした。無理に聞き出すのもよくないし、今は事件の捜査を優先すべきだ。
※
僕たちが最初に訪れたのは、楡さんの部屋だった。決めたのは緋村だったが、まずは最も話を聴き出しやすそうな相手を選んだようだ。
彼の部屋は、基本的に他の客室と変わらない──と言うか、客室は全て、似たような内装になっているらしい。
楡さんがベッドに腰下ろし、緋村が勧められた椅子へ座る。さして長くはかからないだろうし、僕はその後ろに立っていることにした。
僕がメモとペンを構えると、意外にも、院長の方から先に口火を切った。
「さっき話してた件っちゅう妖怪のことやけどな、犯人がなんでそんなモンを見立てのモチーフにしたんか、少し心当たりがあるんや」
「どう言うことでしょう?」
「衣歩ちゃんの金縛りについては、君らも知っとるそうやな? 彼女は金縛りに遭う度に同じ幻覚を見るそうなんやが、その中に出て来るんや。その件とやらに似た物が」
そうだったのか。そう言えば、幻覚の内容までは、詳しく聞かされていなかった。
「なんでも、仔牛の体に女の頭が生えた化け物が体の上に乗っとって、そのせいで身動きが取れんそうや。しかも、それだけやのうて、突然その妖怪の首がポロっともげ落ちてまうらしい。恐ろしい限りやな……」
かようにオゾマシイ幻覚に、彼女は何度も苛まれて来たのか。気が滅入るどころの話ではないだろう。精神に変調を来したとしてもおかしくはないが、衣歩さんにそうした様子は見受けられなかった。もう慣れてしまったのか、あるいは不安を面に出さぬよう気を付けているのか……。
妖獣の他にも、「顔の潰れた男」が現れ、ベッドに横たわる彼女を見下ろすと言う。そして、その影が嗤う度に降り注ぐ皮膚の破片を浴びながら、彼女は悲鳴とともに目を覚ますそうだ。
「……もしホンマに犯人が衣歩ちゃんの見る幻覚を元に見立てを行ったんやとしたら、そいつはやはり、とても近しい人間──我々の中におるんやろか? 正直、さっき君の話を聞いてから、誰のことも信じられんくなって来たわ。いや、もしかしたら、他のみんなもそうかも知れん。──とにかく、私は君らに判断を委ねたいと思うとる。身内を喪って動揺しとる私たちよりも、他所から来た人間の方が遥かに冷静やろうからな。無論、その為に必要とあれば、どんな質問にも答えたる。遠慮せんと訊いてくれ」
疑心暗鬼に陥った結果とは言え、協力してもらえるのはありがたい。最初の相手に彼を選んだのは、正解だったようだ。
「お心遣いありがとうございます。では、さっそく伺いたいのですが──四年前にこの島であったことについて、知っていることを教えてください」
さっそく東條さんの言っていたタブーに斬り込んで行く。
「ああ、落雷のあった日のことか。と言われてもなぁ、私も詳しいことは知らんのや。あの時流浪園におったのは衣歩ちゃんと明京流くんと香音流くんに、あとは織部さんだけやったから。……ただ」
「ただ? なんですか?」
「いや、ちょっと言い辛いことなんやけどな」
そう前置きをした後、彼は先ほどの宣言を実行に移してくれた。
「香音流くんは、昔から衣歩ちゃんのことが好きやったんや。けど、衣歩ちゃんは明京流くんと付き合っとって、それどころか結婚の約束さえしとった。我々はもちろん、誉歴さんも二人のことを認めとってな。それで香音流くんがキッパリ諦めてくれたらよかったんやが……まあ、そう簡単にはいかんわな。衣歩ちゃんへの恋心を拗らせてもうた結果、香音流くんは彼女に無理矢理迫ったらしい。早い話、夜這いしようとしたんやろう」
つまり──四年前の落雷のあった夜に、彼女を襲おうとした、と言うことなのか?
しかし、もしそれが事実であれば、彼のSNSにあった「弟と幼馴染を祝う」と言う言葉はまるっきり嘘だったことになる。それどころか、彼にとって弟は憎むべき恋敵でしかなく、並々ならぬ憎悪と共に、衣歩さんへの劣情を募らせていたのではあるまいか? そして、その歪んだ恋心を抑制できなかったカインは、卑劣な手段に出たのだ。
「改めて言うけど、私もなんとなくしか知らんからな。とにかく、香音流くんの犯行は未遂に終わった。たぶん、明京流くんに阻止されたんやろ。そして、彼の性格から察するに、ロクに喧嘩もできんと逃げ出したはずや。──丘の下に建っていた、迷宮の中へ」
「犯行」と言う厳しい言葉を用いるあたり、彼は香音流さんのしたことを重く受け止めているのだろう。当たり前の話だが。
「ほんで、よせばええものを、明京流くんは彼を追いかけて行ったらしい。まあ、ホンマに正義感の強いええ子やったから、ちゃんと兄貴と向き合うて仲直りがしたかったんやろう。……こんな話ばかりしとると、ずっと反目し合っていたように思うかも知れんが、小さい頃は、とても仲のええ兄弟やった。いや、成長してからも、香音流くんが一方的にコンプレックスを抱いとっただけで、明京流くんの方は普通に接してたんやが。──とにかく、彼は迷宮の中まで兄を追って行った。そのせいで、二人同時に落雷に遭ってもうたんや」
天の悪戯──と言うには、あまりにも無情すぎる。そんな何万、何億分の一にもあり得ないような偶然を、容易く起こしてしまうなんて……。
婚約者を理不尽極まりない自然現象によって奪われた彼女は、何を思ったのだろう。ただひたすら悲嘆に暮れたのか、あるいは神に向けるしかないようなやり場のない怒りに、身を焦がされたのか。
「誉歴さんが衣歩ちゃんを養子に迎えたのは、その直後やった。元々家族になる予定やったから言うてな。──衣歩ちゃんは、幼い頃にご両親を喪くしとって、ずっと親戚の家で暮らしとったんや。彼女が初めて流浪園を訪れたのも、その親戚の人らに連れられて来たんや。なんでも、衣歩ちゃんのお祖父さんっちゅうのが誉歴さんの若い頃の恩人とかで、誉歴さんの方から招待したらしい」
具体的にどう言った恩人かと言うと、氏が会社を継ぐ前、修行の為に出向していた薬品工場の代表者が、彼女の祖父だったのだ。
「衣歩ちゃんは育ての親の許可を得た上で、誉歴さんの申し出を受け入れたわけやな」
「その親戚の方は、今はどちらに?」
「それが、もうこの世にはいてへんのや。不幸っちゅうのは重なるもんでな。衣歩ちゃんが正式に養子になってすぐ、交通事故で他界してもうた」
波乱万丈な人生を送って来たのだ。少女のようなあどけなさの残る顔貌からは、想像も付かないほど。彼女はこの二十余年のうちに、すでに何度も大切な者の死に触れて来た。
「私が耳に挟んだんはこれだけや。四年前のことをもっと詳しく知りたいんやったら、織部さんにでも訊いてみるとええ」
「そうさせていただきます。──次の質問ですが、神母坂さんが殺害された動機について、心当たりはありますか?」
「いや、それに関してはサッパリやな。確かに鮎子さんは少し──いや、かなり変わったところがあったけど、それがこんな事件に繋がるとは思えん。特に金に困っとるなんて話も聞いたことがなかったし、男女関係のトラブルもないどころか、永らく恋人もおらんかったらしい」
「少々意外ですね。あんなに綺麗な人であれば、言い寄って来る男性も多いように思いますが」
「まあ、その辺は彼女の趣味の問題もあるんやろう。なんと言うか、年下が好きみたいやったから」
何故か苦笑を浮かべる。単に好きな異性のタイプ以上の意味があるのか?
「いや実はな、鮎子さんは、昔香音流くんのことが好きやったんや」
それが事実であれば、二人の美女の関係が、また違って見えて来る。
「と言っても、今はもう何とも思ってへんかったみたいやけどな。むしろ醒めてからは、彼のこと邪険に扱っとったくらいやし」
「人の心ってのはおっかないな」と、楡さんは付け足す。それほどの心変わりだったと言うことか。
「鮎子さんは香音流くんたちが幼い頃から、よく遊び相手をしとったから、まあ、その延長で恋心が芽生えたんやろ。ところが、衣歩ちゃんが親戚の人らに連れられてここに遊びに来るようになってから、香音流くんはそっちに熱を上げたわけや」
彼らは謂わば三角関係──明京流さんも含めれば四角関係だったらしい。
「神母坂さんが衣歩さんに嫉妬するようなことはなかったのでしょうか?」
「さあ、なかったんとちゃうかなぁ。衣歩ちゃんのことは妹のように可愛がっとったし、何より年齢も離れとったから。もちろん、本心まではわからんけど……少なくとも、表立ってそう言った感情をぶつけるようなことは、なかったはずや」
「そうですか……」
口許を手で覆い、しばし思考を巡らせる。




