2:顔のない影
雀蜂が唸るような低い音がどこからともなく聞こえ、次第に大きさを増して行った。それにつれ、横たわる彼女の体は石と化す。全身の筋肉が締め付けられ、血管が凍り付くような感覚──もう何度目になるかわからないこの感覚だが、一向に慣れることはなかった。
金縛りだ。
意識のみを覚醒させた彼女は、酷くなる羽音に苛まれながら、ただそれだけを知覚した。
──来る。あれが。
指の先一つ動かせぬまま、彼女は戦慄た。これから何が起こるのか、すでに知っていたから。
やがて羽音が止んだ時、決まって同じ幻影が、彼女の意識の中に現れた。
まず初めに、胸の上に何かが乗っており、その為に体が動かないことを知覚する。それは、小さいが、同時に非常に重い物。
仔牛だった。
それも、ただの仔牛ではない。怪物である。脚を折り畳んで横たわるその動物の首には、仔牛の物ではなく、女の頭が生えていた。
幻獣か妖魔か──とにかく、現実には存在し得ないはずのそれは、やけに生々しい質感を持ち、恐ろしいほどの重量で彼女を縛める。
怪物はわずかに首をもたげ、簾のように長く垂れた髪の毛の合間から、ジィッと彼女のことを凝視していた。生暖かい息が喉元にかかるのを、確かに感じた。
かと思うと、刹那──
その首は、何の前触れもなく、捥げ落ちてしまうではないか。
もしも体の自由が効いたなら、彼女は悲鳴を上げていただろう。しかし、実際には呻き声一つ上げられぬまま、彼女の意識は、床の上を転がる絡繰の首を追いかけた。──通常、ベッドに横たわった状態では見えぬはずの映像が、真上からビデオカメラで撮影するかの如く、脳裏のスクリーンに映し出される。
そして。
転がった首が止まった先には、靴下を履いた二つの足があった。
第二の幻影が現れたのだ。
彼女が何よりも恐れる、亡霊が。
その存在は、妖獣の首を黙殺するように跨ぎ、ベッドへと歩み寄る。再び天井を映し出す視界の端に、黒い影が被さった。
首を折り彼女を見下ろすのは、一人の男。その顔は黒く、モザイクでもかけられたように塗り潰されていたが、彼女には彼が誰なのか、心当たりがあった。
そして、同時に、わからなかった。
──どっち、なの……? あなたはいったい、どっちなの?
ただ一つ確かなのは、それがかつて彼女のことを愛した兄弟の、いずれかだと言うことのみ。
無言で佇立する彼の顔は、醜く潰れてしまっており、それが誰の物なのか判別するのは困難だった。糜爛した肌は季の皮のように裂け、白く変色した肉が剥き出しになっている。
そのオゾマシイ姿に、彼女は意識のみで息を呑む──それでも見つめ続けるしかない。
すると、何かが彼女の頬に落ちて来るのを感じた。無論、それも幻なのだが。
ポロポロと降り続けるのは、茶からびた小さな破片。
それが顔から剥がれ落ちた肌の欠片であることに思い至った時、今度は紙袋の中で無数の百足が這い回るような不快な異音が、彼女の真上から聞こえ始めた。その異音が強まるのに伴い、頬に注ぐ皮膚片の量も増えて行く。
百足の足音は際限なく音量を上げ、今や部屋全体が揺れているようだった。気の狂いそうなほどの轟音の渦に沈みながら、彼女は理解する。
顔のない影が、自分を嗤っているのだと。




